vol.8 綺麗ですね


「五月ちゃーん、家まで頑張れ」

「はい」

「返事だけ良いもんな。家どこ? いや、学生証貸して」


 香坂は鞄の中からパスケースを出し、開いた。定期券の反対側に学生証が入っている。それを抜き取り、裏面の住所が記載されている欄を見た。

 バイトをしていたスーパーの近くだった。在原は学生証を戻し、パスケースを鞄の中に入れる。それからしゃがんで、香坂の顔を覗き込んだ。


「あんま男のいる飲み会で飲み過ぎんなよ」


 ぼーっとした顔で、声は多分届いていない。


「送り狼に食われるよ」

「……ねむい」

「寝るな起きろ」


 腕を掴み、身体を起こした。在原との身長差でちょうど足の裏が地面につく。

 先程まで一人で歩けていたのだ。香坂は在原に体重を預けることなく、一人で歩き始める。腕を離すと、香坂が顔を見上げた。

 それが酷く不意打ちで、どきりとする。


「月が綺麗」


 在原越しに見えた月が、香坂の瞳に映る。それが一瞬わからず、瞬きを二度。すぐに振り向く。

 確かに、美しい十五夜だった。

 言葉を返そうと再び香坂の方を見れば、既に数歩前を歩いていた。



 香坂の家は三階建ハイツの二階で、角部屋だった。在原が他愛もない話を振ると、返事があったり無かったり。鞄から鍵を出してドアノブに何度かぶつけながら、鍵穴を回す。

 柵によりかかりながら、在原はそれを見ていた。


「おやすみ、ちゃんと鍵かけろよ」

「はい」


 返事だけはしっかりとしている。

 扉が開き、中に入っていく。暫くするが、鍵の閉まった音がしない。

 おいおい。在原はそのドアノブを回した。普通に開いた。当人は玄関で横になって寝ている。

 溜息を吐き、その身体を抱く。部屋の奥にベッドが見え、その上に寝かせた。薄暗闇の中、眠った香坂は白く呼吸も静かで、死んでいるように見える。少し恐ろしくて、息をしているか確認した。


――男は眠った少女を見て、その頬に手を添えた。

――嘘も偽りも夜の闇も人々の嘲笑も、男にとっては慣れたものだった。それに対してもはや感情すら持たない。

――それでも、何故この少女ここまで一緒にきてくれたのだろう。

――何故、一緒に来れたのだろう。

――孤独だけが、自分の唯一の味方だった。

――男は少女の薄い唇に顔を寄せる。


 在原は香坂の書いた小説の結末を思い出していた。

 孤独な男の旅の途中、街で出会った少女がある目的のために度に同行することとなる。その話の、結末だ。


――しかし、男のそれと重なることはなく、キスは頬に落ちた。少女は寝息は規則正しく、起きることはない。

――部屋の入り口に掛けた外套を羽織り、男は部屋を出て行った。それきり、部屋へ戻ることはなかった。


 在原の手は香坂の頬を撫で、下げる。

 部屋を見回すと、テーブルの上にノートPCが置かれていた。ふたつ並んだカラーボックスの隣に、プリントが重なっている。大学のものと混じって、いくつかのメモが入っている。


『自分よりも不幸な誰かを生み出す作業だった』


 香坂がそう言ったときから、それは過去形になるんだなと確信した。

 何より、その作業で生み出されたこの登場人物すら、愛せる自分もいる。きっと、香坂もどこかで、不幸な人間を愛しているのだろう。






 目を覚ますと、天井があった。自分の家の天井だ、と思いながら香坂は寝返りを打つ。


 広い背中がある。

 ……誰の?


 ばっと起き上がると、香坂の身体から毛布と布団がずり落ちる。


「え」


 漏れた声に、背中が動く。肘をついて在原が身体を起こして、香坂を見る。


「はよ」

「なんでいるの」

「家まで送ってやった人間に対する台詞かね」

「送って……頭痛い」


 だろうな、と言いながら在原はベッドから下りる。いつも香坂の体重しか支えていなかったシングルベッドが軋む音をたてた。

 部屋から出て、キッチンの水が流れる音がする。在原がコップに水を汲んで帰ってきた。


「ん、飲んで」


 差し出された水を飲む。一口飲むと、身体が水を欲していたのを思い出したようで、半分ほど飲み干す。

 コップを取られ、在原がその残りを飲んだ。


「帰って鍵かけらんねえくらい飲むなよ」

「鍵……あ、うん」


 自分が鍵を掛けずに寝ていたからここに在原がいるのか、と香坂は納得した。


「楽しくて」

「ん?」

「佐田さんたちも、良い人だったから」

「そりゃ良かった」


 朗らかに笑い、在原は内心安堵していた。仲違いしなければ良いくらいに思ってはいたが、遠目に見ていた感じでは相性が良さそうだ。

 最初から香坂は自分の意見をきちんと言葉に出来る人間だったので、悪くなるのなら静かに距離を置くだろうと考えていた。佐田とドニもそれを察して動くだろう。脚本を書く上で、音響と撮影のことなんて知らなくても良いのかもしれない。それでも、知って悪いことの方が少ない。


「じゃ、帰るわ。俺も三限からだし」

「あ、はい」


 俺も、という言葉に違和感を覚えないわけでもないが、香坂はそれよりも頭の痛さの緩和を優先した。これでは授業どころではない。

 脱いで床に置かれたジャケットを着てた在原を見上げる。


「……返事は良いんだよな」

「うん?」

「いや、とりあえず飲み会は男に気をつけろ」


 あなたに言われても。と、表情が言っている。

 いやいや。と、在原は掌を見せた。


「俺はちゃんと同意を得た人間以外に手出したりしねえから」

「……あ、はい」

「すっげえ引いてんじゃん」

「あなたのそういう面にとやかく言うつもりはないけど」


 香坂と在原が出会ってから一か月も経ってはいないが、この話を度々している気がする。揺れると痛む頭を抱えながら立ち上がる。


「それがこれからあなたを苦しめることを予言しても良い」

「……恐ろしいことを言うなよ」


 時計は朝の九時を示していた。在原が玄関で靴を履いているの背中に、香坂は口を開く。


「送ってくれて、ありがとうございます」


 靴を履き終えて在原が振り向いた。珍しいものを見る顔をしている。


「どういたしまして」





 講義室に入り、香坂の姿を見つけた。「おはよ」と声をかけると大津を見て、ふわりと笑った。


「おはよう」

「あ、ついにスマホ買ったの? メッセ交換しよ」

「交換ってどうやるの?」


 携帯ショップに行って契約してきたは良いが、使いこなせる気がせず、昨夜は母親に電話をしただけだった。ちなみに香坂の母親は既にスマホになっており、「やっと替えたの」と呆れられた。

 早々に手持無沙汰になったそれを大津へと渡す。まずロック画面のロックが設定されておらず、衝撃を受けた。

 とりあえず設定とSNSツールを一通り教えて、スマホを返す。


「色々やることがあるんだ……」

「まあ、使うものだけ入れれば良いんじゃない?」

「メモ帳みたいなアプリってどれ?」

「検索して、うん、これ」


 なるほど、これでいつでもどこでも小説が書けるようになる。

 香坂は少しの感動を覚えた。そんな姿を見て、同年代にこんな人間がいることに、ほろりと泣けてきてしまう大津。


「カメラもめっちゃ綺麗に撮れるよ。ガラケーより」


 その言葉に香坂はカメラを起動して、大津に向けた。華麗にピースをして写真に収まる。アルバムの見方も覚えた。

 確かに、これはすごく綺麗だ。色とか、線が、全然違う。


「でもタイピングミスが酷いの」

「ああ、フリックは、慣れるまで頑張って」

「うん」


 しゅんとした香坂を見て、大津は慰める言葉を持たなかった。それだけはどうすることも出来なくて、いや、そんなことは自力でどうにかするものだが。


「メッセの交換の仕方も、今やったのと一緒?」

「そうそう。誰かと交換するの?」

「ランダムの……映画演劇部の人たちと」


 大学の人間でもバイト先でもなく、最初に出てきたのがそれ。

 この間、メンバーから口々に連絡先を尋ねられたが、持っていないと答えたのだ。


「待って。それって在原も含まれてる?」

「んー、必要とあらば。どうして?」

「なんか面倒に巻き込まれなければ良いなって。嫌な予感がするんだよね」


 そう、大津の予感と忠告は的中する。

 この時はまだ、「まさかね」と笑う二人だった。




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