vol.6 始まる予感


 ノートに書かれた字は綺麗で読みやすく、これまでどれだけ字を書き続けていたのかを感じさせる。在原はそれを閉じた。

 隣で香坂は弁当を食べ終わり、小説を読み始めている。


「主人公の男が、別れを選択する以外の結末ってねえの?」

「ない」

「ないか、そうか」


 思いの外、在原はその答えに食い下がることは無かった。香坂はこんなところを大津に見つかったら殺されるだろう、と考えた。在原が。

 テーブルにどん、と置かれたバッグの音に二人して顔を上げる。


「五月に近付くなって言ったでしょ?」

「残念。香坂はうちの部活に入りましたー」

「はあ!?」


 バイト五割、授業三割、遊び二割で生きている大津が、顔を顰めた。真ん中に挟まれた香坂は面倒くさくなって、小説を再度開く。


「もしかして五月に演劇させるつもり!?」

「俺が今やってんのは映画の方」

「変なことさせるんじゃないでしょうね……!?」

「お前は香坂のオカンか。脚本書いてもらうんだよ」


 その宣言に、香坂は密かにどきりとした。大津は何と言うだろうか。


「五月、脚本書くの!?」

「え……いや、練習中」


 今までずっと小説を書いてきた香坂が、ぱっと脚本を書けるはずもなく。とりあえず在原に勝手に読まれた小説を脚本に起こす練習をしているが、如何せんト書きが多くなってしまう。

 会話と会話を文章で埋めるのが小説であり、描写で埋めるのが脚本。香坂の中の認識だった。


「完成したら見せてね!」

「観るんかい」

「……うん。頑張る」


 喉が少し苦しくなる。しかしそれは苦痛には感じなかった。

 そんな様子を見て、在原は立ち上がる。


「じゃあ俺行くわ、五月ちゃんあとでまた見して」

「うん」

「そんで木曜絶対空けといて」


 うん、と同じ返事。大津からの視線が痛い。在原が去った後、口を開く。


「付き合ってはないよね……?」

「ないよ。あの人、すごい遊んでるんでしょう? この前女の子にキスされてた」

「女の趣味だけは悪いんだから、五月は絶対ないと思うけど……気をつけてね。基本的には良い奴だけど、惚れて面倒くさいことに巻き込まれた女子結構いるから……って話したよね!?」


 ご尤も。

 その忠告を無視したわけでないが、結果関わることになったのだから、無視したということになるのか。香坂は苦く笑う。

 大津はそれを見て脱力してしまう。


「五月って彼氏いないの?」

「いない」

「作らないの? あんなのよりもっと善良な男いるし」


 なんなら紹介するし、と付け加える。香坂はきょとんとした顔を向け、はにかむ。


「いいかな、やりたいこといっぱいあるから」


 男と喋っている暇があったら小説を観たいし、物語を考えたい。高校までずっと溜まったそれが今自由に出来ることが楽しくて仕方ない。

 大津はその笑顔に毒を抜かれ、再度脱力する。天然ものは恐ろしい。






 ヤレアハは何故か香坂の家にいた。ベッドの上、枕の横にちょんと乗っている。映画を観に行った後、在原に押し付けたが「俺がヤレアハを持って歩いてたら職質されるだろ」と真剣に説かれて、結局家に連れ帰った。

 ノートパソコンで脚本を書きながら、香坂は携帯を買わねばならないことを思い出していた。母親とも連絡が取れていない。たまに公衆電話から電話はしているけれど。

 その話を大津にしたら「時代錯誤……」と呟かれた。ちなみに壊れた携帯はガラケーだったので、最初に大津と連絡先を交換した際「ガラケー持ってる友達初めて」と偉く感動された。

 スマホか……と、携帯を検索し始める。





「携帯ってどうやって選ぶの?」


 普段、大学で一人でいることの多い香坂は降ってきた問題には一人で取り組む。大抵のことは調べれば良いし、課題においては教授に質問に行くという選択も出来た。

 しかし、この携帯問題はどうしようもない。選ぶポイントをいくつか調べたものの、少しもしっくりこない。香坂はとりあえず通話とメール機能がついていればそれで良いのだ。


「使いやすさとか機能じゃね? カメラとか動画の見やすさとか」

「カメラも動画も見ないんだけど」

「じゃあ文字の打ち易さで選んだら。待ち時間にわざわざノート広げなくても、小説書けんじゃん」


 これまで大津の次によく近くにいる在原に何となく尋ねると、案外まともな答えが返ってきた。いや、この男は女関係がだらしないだけであって、一応毎日大学には来ている香坂と同じ学力を持つ学生だ。

 思えば、今までも在原に尋ねるとはぐらかされたり「知らねーよ」と投げられたことは無かったように思う。きっと知らないことは「知らねーよ」と返すだろうが。


「てか前の携帯なに?」

「ガラケー」


 あ、ですよねー。

 と一瞬の間。


「スマホにしろよ、悪いことは言わない」

「ガラケーの種類少ない」

「希少種だろ」

「メールと電話できれば良いから」

「今やネットで映画を観る時代だぞおい……」


 言ってから、在原は思い出す。同時に道を曲がった。

 木曜日午後。在原と香坂は、映画演劇部“ランダム“の定例活動に向かっていた。毎週スタジオを貸し切って行っている。とりあえず今日は顔出しという名目で、香坂を連れた。ずっと逃げられていた狐をお披露目、というのは在原の本心の方だ。


「そういえば、前に言ってた『アン・ハッピー』は観たのか?」


 スタジオの入っているビルに入り、エレベーターのボタンを押す。


「よく覚えてる」

「五月ちゃんの地元ではやってなかったのも覚えてんよ」

「観てない。映画館で観たかったから」


 扉が開き、エレベーターに乗る。在原は三階を押した。すぐに二人が乗り込んだ箱は上へと動き出し、止まる。開くボタンを押すことなく在原は降り、外側から扉を押さえた。香坂が続く。


「映画館で、か。難題だ」

「あたし、挨拶して帰って良いの?」

「帰……れるかね?」


 質問が質問で返ってくる。香坂は怪訝な顔を在原へ向けた。そんな顔しなさんな、と在原は両手を挙げる。


「香坂への期待度にかかってる」

「は?」

「帰して貰えないに一票」


 在原はスタジオの重たい扉を開く。防音だからだ、と開いてから気づいた。

 各々座り、二十人くらいの視線が二人へと集まった。





 佐田とドニはこれからの予定の紙をペラペラと捲っていた。演者たちが詳細な予定を話し合い始めたので、裏方も集まる。

 スタジオ内はそわそわとしていた。本日、在原が誘い続けていた脚本を書く人物を連れてくるという。

 ドニが何度も扉の方を見るので、ついに佐田は吹き出した。


「まだ来ないでしょ、五時って言ってたし」

「どんな人ですかね」

「まあ、変な奴じゃなきゃ……」


 重たい扉の開く音がした。その場にいた殆どの視線がそちらに向く。

 何かを話しながら在原と連れてきた女性が中に入ってくる。在原の声に、女性が返す。言葉を拾うべく在原が少し屈んだ。

 佐田とドニは顔を見合わせる。在原が女に対して、ああした態度を取っているのを初めて見た。


「珍しい」

「ですよね」


 在原の態度にさして気にした様子もなく、香坂は小さく溜息を吐いた。無表情のまま。

 その無表情の中に少しの緊張が佐田には見えた。それに気付いたのと同時、目が合う。

 佐田は度々、運命を信じることがある。音響へ興味を持ったのも運命、在原に映画を作らないかと誘われたのも運命、“ランダム“の仲間に出会えたのも運命。この運命が自分を良い方へと導くだろう、という名も無き根拠があった。


 それを今、感じた。


 香坂と目が合ったのは一秒にも満たなかったかもしれない。在原が話し始めたので、そちらへ視線が向く。


「んじゃ、挨拶どーぞ」

「香坂五月です。脚本を書きます」


 その短い紹介文に、まばらな拍手が起きた。



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