vol.3 ヤレアハ
在原に、父親の記憶は殆どない。凍結した路面をバイクで走り滑ってガードレールへ突っ込み、即死だった。
母親は在原とその兄を一人で育てた。小学四年の夏休み、兄がバイト代で在原を映画へ連れて行ってくれた。『ワルツを君と』という小学生向けではない邦画だった。小学生ながら酷く感動して、少ない小遣いでパンフレットを買った。
そこからずっと、人の気持ちを動かす映画を作ることが目標だった。
いや、作り続けたい。ずっと。
映画学校へ行きたいと考えていた高校三年生の秋、母親が職場で倒れた。
見ていたものが夢だと、緩めなかった歩が止まった。
土曜日の昼下がり、香坂は駅前の時計台へと歩いていた。
チケットを二枚持っている。先日、押し切られたからだ。
「……本当に来た」
既に時計台の前のベンチに座っていた在原がきょとんと驚いた顔をして、香坂を見上げた。耳に光る二つのピアスが揺れる。
「チケットだけ渡して、別れるつもりですけど」
「いやー、遥々御足労頂きありがとうございます、姫」
すくっと立ち上がり、イヤホンを取って香坂の隣に並んだ。
「三十分後に駅向こうのモールの映画館でやってる。それとも先に飯食う?」
ちょうど昼前。休日なら尚更混んでいるだろう、と香坂は考えた。いや、混んでいなくても在原と飯を一緒に食べることはないだろう。
「いい」
「同感」
息はぴったりだ。
モールに入ると、やはり賑わっていた。香坂は入り口の案内板を目で追って、すぐに映画館を見つける。大抵一番上の階に設置されている。
在原は何度も来たことがあるようで、歩き慣れたようにエレベーターへと向かった。
「そういえば、連絡先教えてほしいんだけど」
「持ってない」
「持って……ない……? ノートに小説書いてたり、香坂って結構アナログ……」
「先月壊れたの。それから買ってないだけ」
「早よ買えよ。急に休講になっても分かんねーじゃん」
「その時は図書館に行く」
香坂らしい時間の使い方だ。エレベーターを降り、ポップコーンの甘い香りがした。この匂いを嗅ぐと、わくわくで心臓が跳ねる。香坂は壁に貼られた様々な映画の広告パネルに目を通す。
「あ、アルポルト3」
「来月頭公開。観んの?」
「どうかな、2はあんまり面白くなかった」
「いやいや初回より2の方が面白くなってたろ」
「アクションばっかりで話の流れが単調だったし、最後で娘が急に出てくる意味が分からない」
「はあ? あのアクションにいくらかけてると思ってんだよ」
「制作費用と観客員数が比例するなんて根拠はないけど」
「お客様、お決まりでしょうか……?」
いつの間にかチケット売り場の前まで来ており、窓口の女性スタッフは言い合う二人を苦笑いで交互に見つめた。香坂はショルダーバッグから前売り券を出す。在原は何時開始の上映かを伝える。息はぴったりだ。
先程まで議論していたとは思えない。
「席はどの辺に致しますか?」
「後ろの方で」
「私は真ん中で」
「お一人ずつにされますか?」
「え、本気?」
「あなた、私の肘掛けも取っていきそうだから」
スタッフは笑いを堪えた。カップルのように見えたが、そうではないらしい。
「そんなことするかよ。じゃあ真ん中の端で二席お願いします」
「承知しました」
発券されたチケットを受け取り、香坂は財布を出した。大学生前売り券分の金額を在原に差し出す。
「え、なに?」
「お金。チケット代、払ったからって後から言われたくない」
「そんなこと言わねーよ。どんな小さい男と付き合ってきてんの、五月ちゃん」
肩を揺らして笑う。在原は絶対に金を受け取らなかった。香坂もまた、絶対それを下げることはしなかった。
強情同士の争いの末、在原が「じゃあその金でゲーセン行こうぜ」と言った。散財するにはもってこいだ。
映画館に隣接するゲームセンターに入り、在原は香坂から受け取ったチケット代を全て百円玉に替えた。じゃらじゃらと出てくるコインに、どこか懐かしさを感じる。
田舎で最終的に残るのは、パチンコとラブホとゲーセンだ。遊びに行く場所がない学生は、そこに入り浸る。香坂もそのうちの一人だった。金は無いが、キラキラ光る台を友人たちと意味無くずっと見て、他愛もない会話をした。
地元を離れて三年も経っていないのに、懐かしさを感じることに、どうしてこうも罪悪感が湧くのか。
「このツキノワグマ、顔が良いな」
じっとガラス戸越しにクレーンゲームの中の大きな黒いクマを見る在原。
「クマって怖い」
「そりゃ本物は。こうしてヌイグルミになって可愛くなるんだろ」
「これ、可愛いの?」
「可愛げは、」
香坂を見る。
「ある」
可愛げと可愛さは同じものなのか。そこは甚だ疑問ではある。
在原は手の内にあるコインをゲーム台に投入した。軽快な音楽が鳴り、ゲームが始まる。横のゲーム台に寄り掛かり、香坂はそれを観察した。
「……下手か」
「俺にはゲームのセンスがない」
「どうしてゲーセンに行こうとか言ったの」
「この雰囲気が好きなんだよ」
「下手の横好きを体現しなくても」
憐れんだ視線を送られ、在原は遠い目をする。それからコインを香坂へと渡した。
「なんですか」
「次、お前の番。映画代分のクマになるかどうかは香坂にかかっている」
その時の香坂の微妙な顔と言ったら。
真っ暗なスクリーンを前にして、席に座った。香坂は膝に赤子よりは大きいクマのヌイグルミを置いている。
「まさかこんなに近くにクレーンゲームの達人がいるとは……」
在原の足元にもゲームセンターの白い袋がある。中には筒状に包装されたスナック菓子、袋詰めされたチョコレート、飴などが入っていた。全て香坂が取ったものだ。
「このクマ、邪魔なんだけど」
「香坂が取ったんだろ」
「返品しても良いんだけど」
「暫し膝の上で待たれよ」
どこの武将だ。
在原の膝にクマが移動できないのは、パンフレットが広げられているからだ。先程買って、既に広げている。
「今から観るのにどうして先に読むの」
「監督メッセージだけ読みたい」
『古鳥』の原作は小説。一家を襲った強盗殺人を追う刑事の物語であり、原作は映画が決まってから一層売り出されている、という印象が見受けられる。
監督は『ワルツを君と』、『燦燦』などを手掛けた八代篤紀。映画公開が決まると、よくテレビでインタビューを受けている。この前もドキュメンタリー番組で密着されていた。
「俺、この人の作品見て感動してさ、映画監督になるって決めた」
さらりとそんなことを言ってしまう在原の横顔を香坂はじっと観察する。
「ふーん」
「感動、うっすいな」
「この人、あたしの父親なんだよね」
視線が交わる。在原の瞳の色に少し緑がかっていることに気付いた。
「なんて、冗談」
今日初めて、香坂が笑った。自嘲げな笑み。
在原は何か言おうと口を開いたが、ちょうど辺りが暗くなり、CMが始まった。
「……あ、何食う?」
思い出したように尋ねる。映画が終わった後、双方黙ったまま歩き続けていた。レストランの階に来て、在原が振り向く。そこにはクマを抱いた香坂がいた。
「お腹減ってない」
在原と飯を一緒に食べることはない、と考えていた香坂だが、反射的に答えていた。
「じゃあ嫌いなものは」
「エビ」
「エビ嫌いに初めて出会った。あ、回転寿司だ」
「生のエビが一番嫌い」
「よし、そこのカフェに入るか」
入口の看板には新作の甘い飲み物が記されている。二人は同じようにそれに目を通したが、注文したものはアイスコーヒーと紅茶だった。
窓際のテーブルに通され、香坂はクマを膝に乗せたまま外の景色を見る。
「お名前は何ですか?」
「……は?」
頭は大丈夫か、と表情が語る。小さく肩を竦めて、在原はクマを指で差す。
「クマに聞いてる」
「ヤレアハ」
「ヘブライ語?」
よく知っている。香坂はクマを――ヤレアハを隣の椅子へと座らせた。
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