大学生

vol.1 願わくば


 その涙から、物語が始まることを。





 事務室の落とし物入れと忘れ物の教科書の間を隈無く探し、一限で使った講義室からひとつずつ見てまわる。三限で使った教室に後ろの扉から入ると、一人だけ残っているのが見えた。

 机によりかかるようにして立っていて、ノートを捲っている。嫌な予感が身体の中を電撃のように走って、心臓の音がうるさくなるのを感じた。


 ぱらり、と捲られる紙の音。


 その後ろから女――香坂五月が手を伸ばす。ひったくるようにして、そのノートを取り上げた。

 驚いた顔でこちらを振り向く。視線は未だノートにあって、その頬が濡れていることに気付いた。夕日がすりガラスの向こうから差している。涙の跡のようにも見えた。


「それ、お前が書いたの?」


 どうして泣いてるんだ。そんな風に考えて立ち尽くしていると、質問される。早く取って帰れば良かったと後悔の念が襲う。

 沈黙は肯定ととられ、男――在原真澄は涙を拭くことなく小さく息を吐いた。


「なんでそのラストなんだよ」

「……え」

「そんな風に残酷に終わらせなくても良かったのに、どうしてお前はこんなラストを書いた?」


 そんなことを言われたのは初めてだった。

 それどころか、自分の書いていたものを読まれるのも初めてだった。どうして、と言われる筋合いも、それに答える義理もない気がした。


「不幸になって欲しいから」

「不幸?」

「みんな心のどこかで誰かが自分より不幸であることを望んでる」


 それは真意だ。真意であり、真理であり、人間の性でもある。

 何か言いたげな在原の表情から視線をそらし、今度こそ香坂は踵を返した。








 講義室の後ろから教室全体を見渡す。人間観察は面白い。前に映し出されたパワーポイントが切り替わる。三限は殆ど皆眠っている。

 この教授は出席に重きをおいているので、とりあえず学生の出席率は高い。くるりと回したペンの先が、参考書に擦れて線を描いた。


 香坂はその線を見ながら、先日この講義室で起きたことを思い出していた。


 知らない男に物語を勝手に読まれた。しかもその結末にケチまでつけられた。どこかのアニメに、こんな風に始まるものがあったと思い出す。いや、始まらなくて良い。


 ……始まらなくて良い、のだが。


「よ、香坂五月」


 終鈴が鳴って、学生たちが起き始める。教授がレポート提出の勧告をして、映像は消された。香坂も参考書を閉じると、隣にすとんと腰掛ける人物。


 ひらりと振られた手の大きさに、その身長の高さが窺える。くっきりとした目鼻立ちとその朗らかな笑顔から、交友関係の広さを感じ取った。

 先日感じた、嫌な予感も。


 香坂は言葉を返さず、参考書をトートバッグに入れて在原とは反対側から出た。


「えー、さーつきちゃーん」


 違うアニメになった。

 ぴくりと眉を動かし、在原の方を見る。


「誰ですか?」


 同じ学部に見たことのない顔だ。同じ学年かどうかも定かではない。在原は香坂と同じ通路に出る。上下差のある講義室で、香坂が下に居て在原が上に居ることが殊更、在原の高身長を際立たせていた。


「法学部二年の在原真澄。趣味は映画観賞、将来の夢は映画監督」


 自己紹介を終える。在原の将来の夢なんかに興味はないが、同じ学年だということだけは分かった。講義室から学生が出て行き、どんどん人が少なくなっていく。

 香坂は顔をついと背け、何事もなかったかのようにして出口へと歩き始めた。


「えー、シカトっすか」


 後ろからついてくる在原。講義室に残った学生たちの視線が集まる。

 廊下に出てからやっと香坂は振り向いた。


「何か用?」

「この前の、書いてたやつ見せて」


 この時、香坂は般若のような顔をした。普段が表情の抜け落ちた顔をしていることが多いので、それはとても珍しいことだった。在原はそんな表情にもからりと笑う。


「何のことだか」

「小説書いてたやつ」

「あなた、気に入らないって言ってたじゃない」

「気に入らないとは言ってない。どうして、とは聞いた」


 その言葉に、香坂はゆっくりと首を傾げる。


「その言葉に『気に入らない』の感情が含まれていた」

「それは想像と偏見の賜物だな。香坂、脚本書いたことねえ?」

「ない」

「これから書く気は」


 何を問われているのか、と在原の顔を見上げる。それから、やっと引っ掛かっていたモヤモヤが晴れた。

 在原真澄。確か女をとっかえひっかえしているという噂の。香坂の唯一の大学の友人である大津百合香から聞いたことがある。大津のサークル仲間も在原と付き合ったが、他にも女が居たとかなんだとか。

 一度、大津と食堂で昼食をとっていた時に「あれが在原だよ」と教わった。香坂はくだらないな、とその顔をすぐに忘れていたことを、今更ながら思い出していた。


「……興味ないです」


 一気に距離を取る。完全に近づきたくないタイプの人間だと判断し、香坂は顔を逸らした。

 在原もそれに気づいて尚、苦く笑う。


「じゃあ気が変わるまで待ってるわ」


 背中を向けた姿に安堵して、香坂は反対の廊下を歩いた。





 経済学部に進学したのは、一番無難だったからだ。そう進学理由を答えたら、何人から刺されるだろう。香坂は本当は文学部へ進学したかった。そうしなかったのは、母親からの牽制と、本当に好きなものは傍に置くべきではないという持論からだった。

 上京することに母親から小言をぶつけられながらも、東京へ進んだ。こちらへ出てくることが目標というよりも、家を出ることが一番だった。

 良い母親であり続けてくれた、と香坂は思う。女一人で香坂を育て、大学まで行かせてくれた。ただ、母親は物語を嫌っていた。

 家でテレビが点いていても、ニュースかバラエティ。香坂が録画したドラマや映画が勝手に消され、度々喧嘩をした。テレビだけでなく、小説や漫画も置くのを嫌がられた。その度、香坂は早く家を出たいと思うのだった。

 母が物語を嫌う理由は分かっていた。



「バイト行くのだるーい」


 大津が大学テラスのテーブルに腕を広げる。いつものことなので、香坂は特に大きく反応はせずテーブルに弁当を広げた。

 おにぎり一つと、小さなタッパーに詰められた肉団子とブロッコリー、トマト。

 それを見て思わず大津は「おいしそー」と呟く。


「交換なら応じるよ。等価交換」

「コンビニ行ってくる! 因みに具なに!?」

「おかか、だけど」


 おにぎりと交換するつもりか……? と、香坂はそれから手を放す。だるいと言っていた大津は財布を持ち立ち上がり、構内に入っているコンビニへと向かった。

 一人になった香坂はトートバッグから小説を出す。大きい大学の良いところは図書館が大きいところだ。地元の中央図書館では見られなかった本がずらりと並んでいる。

 持ち歩くには短編集が良い。近くのテーブルには試験範囲を嘆く声、恋愛話に花を咲かせる女子たち、サークルに勧誘する上級生たちがある。その中で、香坂は静かに小説を読んでいた。

 隣にすとん、と在原が座るまでは。


「五月ちゃーん。偶然」

「……偶然じゃない」

「あ、運命か」


 んなわけあるか。香坂は心底嫌そうな顔をしたが、頑なに在原へと視線を向けることはしなかった。

 在原はテーブルに頬杖をつき、こちらへ向かない香坂の横顔をじっと観察した。


「肉団子、食べて良い?」

「……駄目」

「お、海山隆の短編面白いよな。映画の『アン・ハッピー』は泣けた」


 その言葉に、本日初めて香坂が目を向けた。


「……劇場で観た?」

「観た、都内は結構数やってたから。観てねーの?」

「地元の映画館では、やってなかったから……」


 新しい映画が入るのは、歩いて三十分の場所にあるショッピングモールの映画館一つだけ。ミニシアターが商店街にあり、低料金で金のない学生には行きやすかったが、母にバレると面倒なので殆ど足を運ぶことは無かった。

 そんなことをぼんやりと思い出す。酷く哀愁の漂った視線に在原は何も言えず、近くまで来ていた足音にも気付けないでいた。


「ちょっと、五月から離れて」


 大津が在原を睨みつけた。




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