第2話 たわわな誘惑

 ――臭い。


 アルフはすすり泣くような音に気付くよりも先にそう思った。


「う、う~ん……」


 目を開けると茶色い天井が見えた。剥き出しの木材の色だとわかるのにそう時間はかからず、ゆっくり体を起こして周囲を確認する。


 見知らぬ狭い部屋で硬いベッドに寝かされていたらしい。

 ただの穴と間違えそうな窓が二つ、明かり取りも兼ねているのだろう、人影のちらつくそれから昼間だとわかる。

 また、扉に鍵はなく、すすり泣く声はその向こう側から聞こえてくるようだった。


「……臭いのはこれか」


 悪臭のする草を束ねた枕らしきものに顔をしかめてベッドから降りると、ぎぎ、ぎぎぎぎ、と大きく床が鳴る。


 するとすすり泣く声は止み、ガサガサ動く音を立てた後、しずしずと足音が近付いてきた。

 といってもそれは数歩。遠慮気味に開かれた扉から一六、七歳くらいのほっそりした美人が入ってきた。


 今日は祭なのだろうか、丁寧に編み込まれた茶色い髪を青紫の花が彩り、質素だが上品な緑の刺繍が入った白いワンピースドレスを着ている。頬にも薄く紅が入っていた。


 また、入ってきたのが蛇獣人ではないことも不思議だった。


「あっ……頭は大丈夫ですか?」


 一瞬、喧嘩を売られたのかと思ったが、そういえば後頭部に何かがぶつかったのだ思い出し、平気だと答える。


「どうぞこちらへ」


 言われるまま隣の部屋に移り椅子に座る。ここにも蛇獣人はいない。


「水しかありませんが……」


 拙く花の模様が彫られた木製のカップを置きながら隣に立った彼女は、そのまま頭を下げて謝罪を口にした。ゾンビと間違えて岩を投げたのは自分だと。


「ゾ、ゾンビ……」


 岩をぶつけられたことも、出された水が木屑でやや濁っていることも、枕が引くほど臭かったこさえどうでもよかった。

 しかしゾンビと間違えただなんてあんまりだ、とアルフは俯いてしまう。


「本当に申し訳ありませんでした。最近はゴブリンだって出ないのに……あ、私はルァンシーって言います。あなたは?」


 謝罪の返答はまだしていないのにやたらとグイグイくる。

 ああ、またかとは思ったが、名乗られたからにはこちらも名乗るべき。

 そう思い顔を上げると、ルァンシーはなにやらアルフの背後に向かって、どっか行けみたいな表情をしていた。が、すぐに誤魔化すような笑顔になった。


「ア、アルフだ」


 背後は気になるが先ずは名前。つい、隠している本名を言ってしまいそうになったがなんとか持ちこたえ、普段使っている名を名乗る。


「素敵な名前ね。ねぇ、頭は大丈夫って言ってたけど、やっぱり心配だからしばらく家に泊まってって」


 アルフは少し迷った。

 しかし、帰宅禁止が解けるまでここにいるのは良い考えだし、餓えることもなさそう。

 それに負い目のあるルァンシーになら多少無理を言っても了承してくれる気がする。


「ありがとう。悪いけどしばらく厄介になるよ」


 ルァンシーが弾けるような笑顔になったのと、背後から黄色い声が上がったのは同時だった。

 それから右手にある扉が勢いよく開かれて、外からなだれ込むように女の子たちが入ってくると、あっという間にアルフは囲まれてしまった。


 どこから来たの、私はエミリー、さっきはありがとう、こんな開拓地へ何しに来たの、趣味は、好きなタイプは、私はナリア、恋人はいるの、なんて返事をする間もなく質問や自己紹介が飛んでくる。


 物語の主人公や理想に溢れた夢、自分勝手な空想の中ですら出会わなかった現実離れ凄まじい、とびきり以上それ以上の端整極まりないアルフに興味が湧かないわけがない。

 皆がお祭りの時にしか着ない晴れ着でいるのはその為だったのだ。


「ちょっと! ここは私の家でアルフは私のお客さんよ! 皆出てってよ!!」


 部屋の隅に追いやられたルァンシーが叫ぶもそれは止まらない。

 それどころかもっと広いとこへ行きましょうよ、とアルフの手を取り背を押して出ていこうとする。


「ル、ルァンシーも行こう。それと素敵なカップをありがとう」


 彼女たちを力ずくで止めるにはお腹が減りすぎている。気を失う前より力も出ない。

 アルフは少し困ったような、だがとても魅惑的な笑顔を見せた。


 誰よりも容姿が飛び抜けて優れていると自覚のあるアルフは、それを利用することに躊躇いがない。

 昔から老若男女問わず自分に向けられる好意にもすこぶる敏感であった。


 故に少しでも自分の気を引こうとルァンシーがカップに花を彫っていたことも当然気付いていた。

 あれはすすり泣きではなく木を彫る音だったのだ。


 ルァンシーは顔を赤らめると、普段は仲の良い友人たちハイエナどもを掻き分けてアルフの横にやって来た。


 外に出ると出来はともかく建物が多いのがわかった。

 村と呼ぶには少々規模の大きなそこには、立派すぎる教会とそれを挟むように建てられた物々しい砦が二つ。

 その前を練り歩くようにして連れて行かれたのは、村の外れにある切り株だらけの広場。というか、伐採跡地だった。


 眼前に広がる無数の切り株と、その隙間を埋める背の低い草花。

 ずっと向こうで作業しているのは男たちだろうか。斧を打ち付ける音が小さく聞こえる。

 こちらを指差しているようにも見えるが、はっきりとはわからないし、誰も気にしていないのでアルフもそれにならった。ただ本音は、『向こうの方が楽しそうだなぁ』であった。


 申し訳程度に伸びた切り株の萌芽ほうがが無惨に折られていき、アルフを中心に腰掛けた女の子たちから質問攻めが再開される。


 それらに笑顔で回答しつつ逆に質問もしていくと、ここが自分の住む国から大海溝を越えた先の、さらに大陸を二つも跨いだ反対側、リンゲッタ王国の北西部に位置する開拓村だとわかった。


 リンゲッタ王国は比較的新しい国で、風の神フデュルと死の女神アニタを信仰している。

 死と聞けば物騒なものと思うかもしれないが 、『生を謳歌し安らかな死を迎え、風に乗って生まれ変わる』というのがこの国の考えらしい。


 今の王に代替わりしてから国土拡大を掲げて移民を大量に受け入れているとかで、人間に混じってちらほら他人種がいるのはその為かとアルフは思った。


 また、移民のほとんどは彼女らのように開拓民として国境沿いに配置されるので、幾分か混乱はあるものの国内は概ね安定しているという。


「ねぇアルフは行商人なの?」


 恋愛絡みの質問が一段落したところで、アルフの隣を断固譲らないあの蛇獣人が舌をチロチロさせながら胸を押し当ててきた。ブラコという名の彼女は 、皆の大顰蹙など完全無視で誘惑してくる。


 しかし悲しいかな、アルフからも大顰蹙だった。顔に出してはいないものの、たわわなおっぱいなど糞ほども興味がない。むしろ大嫌いだった。


 王子時代のアルフは、無能を嘲りつつもその地位と体目的で迫ってくる老若男女を嫌悪していた。幼少より続いたその経験が、股間や胸が大きいのは邪悪が詰まっているからだという偏見を持たせた。

 無垢な赤子だった弟たちが、成長するにつれて兄である自分を見下すようになったのもそう。白いものを出す器官は邪悪の根源。己の白濁を飲ませたがる男から母を通じて邪悪が感染すると信じていた。


 まあ、かつての婚約者に出会ってから、我が身をもってそうではないと理解したのだが、柔くたわわな胸だけは今でも無理だった。

 裏切りの召喚師が巨乳だったことも影響しているのかもしれない。


「……ちょっと違うかな。行商もしてるけど基本は自分の店で商売してるよ」

「え、その歳で自分のお店持ってるの!?」

「大きな店じゃないけど高級品も扱ってるんだ」


 皆の目がいっそうギラついた。アルフを射止めれば今よりも豊かな生活ができるのは間違いないと確信したのだろう。


「何を売ってるの?」

「見せて見せて」


 アルフは腰袋に入っているから、と露骨にむぎゅむぎゅしてくるブコラから距離を取り立ち上がる。

 そして座っていた切り株に商品を並べていった。


「卵……?」

「そうだよ」


 ほとんど全員が、がっかりしていた。

 場所によっては高級な部類なのかもしれないがたかが知れているし、この村では普通に食べられる。

 それより彼女たちにとっては木材の方がよっぽど高く売れる高級品。

 しかしアルフは「なんだ」という空気など想定済。得意気な様子で説明をしようとした時――


「ゴブリンだ! ゴブリンが出たぞーーー!」


 男たちの絶叫が飛んできた。

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