第48話 ベルジュ島とダンジョンの孫
海の音が聞こえる。
もにゅっともザラっとも言えない濡れた細やかな砂の感触。足首に当たっては「一緒に行かない?」と言いた気に引き返していく波たち。
さらには柑橘を思わせる
アルフは大きく深呼吸すると、勢いよく目を開いた。
「海だー!!」
ちょっと海を離れていただけなのに、謎の解放感に包まれたアルフはシュローを放ったらかして海岸を走り始めた。その姿はどう見てもあどけなさの残る少年、もしくは大人へと変化していく途中の青年であった。
「あ、お義父さん! あまりそっちには――」
「うわっ!?」
はしゃぐ義父をどこか羨ましそうに見ていたシュローの忠告は間に合わなかった。
アルフはズボッと波打ち際の砂に姿を消してしまったのだ。
シュローとレノンの住むベルジュ島は、砂浜に中型の蟹が多く生息している。
アルフが落ちたのはベルジュ島の固有種であるレモンオオアナガニの巣穴。黄色い体と太い脚、それとハサミの変わりにスコップを持つその蟹は、自分の体をよりも数倍大きな縦穴を堀りその中で生活する。
巣穴には薄い砂の膜で蓋がしてあるため、素人にはただの砂と見分けがつかない。アルフは見事にその蓋を踏み抜いたのである。
幸いレモンオオアナガニは魔物ではなく、主食も砂に混じる微小な魔石の成り損ねと海水。ただただ迷惑そうな素振りでアルフを大切な家から追い出していた。
「うへぇ、そういえばこの島の海水は濃いレモン水だったな。めちゃくちゃ酸っぱい」
ずぶ濡れになったアルフが顔をしかめながらペッペッっと海水を吐いていく。
「ベルジュ島は
「目も染みるんだよなぁ……」
目を擦りながらまるで初めての失敗みたいな態度を装うアルフだが、孫の出産祝いに来た時も同じようにレモンオオアナガニの巣穴に落ちていた。
「ついでにそいつも持って帰りましょう」
せっせと家の入口を直していたレモンオオアナガニは、可哀想に、家を荒らされただけでなく美味しいお土産にもされてしまうらしい。
海岸からシュローの住むコノス村へ続く坂道は、シラナミホタルブクロとツリガネハマユリ、それからいくつかの植物が絡み合ったアーチが所々空を覗かせながら続いている。
今はちょうど花の時期らしく、たまに通り抜ける海風が揺らす花から光の粒が落ちたり、鐘声に似た心地よい音が聞こえてくる。
そこを抜けると緩やかな斜面に作られた果樹園が広がり、さらに進めば石造りの階段や背の低い壁が目に入る。そこから三つほど短い階段を上れば村の入口だ。
コノス村は白い壁に青い扉や窓が特徴的な石造りの家が建ち並んでおり、斜面に作られた村であるがゆえ狭い道や坂道が多い。
そんな狭い道を村人のマーマンだったりマーメイドがびったんびったんと尾ビレを鳴らし慌ただしく走り去っていく。
ここまで感動しっぱなしだったアルフは彼らを見て不思議そうな顔になった。加えて急ぐなら尾ビレを足に変えればいいのにとも思った。
「今夜から
疑問を察したシュローが嬉しそうな様子で教えてくれる。自分の住む島を楽園かのように楽しむアルフを見ていたからだろう。
「
聞けば毎年この時期に
「ちなみに皆が尾ビレで走ってるのは悪足掻きです。お祭りでたくさん食べるから少しでも消費しておこうっていう」
「へぇ……」
話を聞いたアルフは、お祭りや尾ビレ走法よりも
しかしちょうどシュローの家についたので、詳しいことは後回しになった。
シュローが青い扉を勢いよく開けると家の中に一瞬だけ風が吹き抜けた。
窓に取り付けられた地の薄いカーテンがふわりとそよぎ、奥の部屋で崩れるように座したまま祭壇を整えていたレノンがそれを見上げる。その虚ろな表情は南国の光に照らされてもなお、冷たい影が落ちたままだった。
「レノン、シュノン! 帰ってきたぞ!」
シュローの声は思ったより大きくて、レノンにはそれが幻の類いに思えた。だとしても両手を広げ家に上がってくるシュローの胸に飛び込みたくて、弾けるように駆け出した。
込み上げた涙は後方に零れ、時が緩やかに流れているような錯覚に陥る。
諦めかけていた温もりは息苦しささえ愛おしく、無限の時を願わずにはいられなかった。
「遅くなってすまない」
耳元で囁かれた声に感情が押さえられなくなったレノンは両手でシュローの顔を包み、それから逞しい胸に額を当てるとそのまま胸を叩き始めた。
「馬鹿! 死んだのかと思ったじゃない!」
「すまない、厄介なダンジョンマスターに囚われてしまったんだ。また会えて本当に良かった」
「シュロー……」
見つめ合い再び抱き合うシュローとレノン。二人は存分に互いの温もりを伝えると、また静かに見つめ合った。世界は今、この二人だけのもの。
徐々に顔が近付き――
「なぁ、そういうのはせめて俺の見てないところでやってくれないか?」
空気の読めない、とういか思いっきり読まなかったアルフがシュローの後ろから顔を出す。その表情に申し訳なさなど微塵もなく、それどころかシュローの胸をグーで殴っていたレノンにどこか非難めいた視線を送っている。
「え……父さん?」
「や! 久しぶりだなコルキス!」
「レノンよ!!」
もはや条件反射。レノンもスピネルたちと同じく、コルキスと言われたことにムッとして訂正を要求する。
「あ、うん。久しぶりレノン」
母親になったからか、ずいぶん圧が強くなっているレノンにアルフはちょっと怯えた。さっきまであんなに甘い空気を纏っていたのにこの変わりよう。
アルフは然り気無くシュローの後ろに隠れようとしている。娘婿の背に隠れようとは、なんと情けないことか。
「実はお義父さんに助けてもらったんだよ。お義父さんがいなかったら死んでた」
言いながらシュローがアルフを前に出す。
レノンはまた泣きそうになると、今度はアルフに思い切り抱き付いた。
「ありがとう父さん!」
「ぐぇっ!」
絞め殺されたゴブリンのような声を上げたアルフは、即座にレノンの背中をタップする。
レノンはマーメイド。
遥か昔、
特にレノンはシュローと結ばれるべく、強引に決められた貴族との婚約を
「あ、あがっ……せ、背骨が………レ、レノン、そろそろ離してくれないと、頭と尻でカスタネットを叩く父親を見ることになるぞ」
「はあ? なに言ってるのよ。父さん弱くなったの? これくらいシュローでも平気よ」
それはそうだろう。シュローの背骨、いや、体には特別な強化処置が施されている。
防御力の調子がすこぶる良い日のアルフですら、だいぶ苦しいと思う怪力のハグをするレノンと結婚するのだ。普通の
新妻のハグで新夫が死んだなんて光景を絶対に見たくなかったアルフは、レノンに紹介されて直ぐシュローの防御力が天元突破するまで卵を食わせまくった。
そう思うと、シュローをボコボコにできた聖夜は案外攻撃力が高かったのかもしれない。モンスターなんかに頼らず、自分の力で立ち向かってきていれば、もしかしたら結果は違って……いや、それはないか。どのみちドロテナを巻き込んでいただろうから。なんてことを考え、アルフは地獄のハグから現実逃避していた。
「ところでシュノンはいないのか?」
ぎりぎりのところでハグから解放されたアルフが、鳴ってはいけない音を発していた背骨を気にしながら聞くと、祭りで披露する踊りの練習に行っているとレノンから返ってきた。
「そうか。でもお土産は目の前で出したいし……ちょっと行ってくるよ」
「待って父さん。お土産ってなに?」
「エパネブル蟹一〇体と他たくさん」
「本当に!? 嬉しい! シュノンはお祭りの会場にいるのよ。案内してあげる。ついでに父さんのお土産を皆に分けてあげなくちゃ」
レノンはにっこり笑って歩き始める。
だが、その発言に驚愕したアルフによって
「え、レノン!? どこだレノン!?」
妻の消失を目の当たりにしたシュローが騒ぐがそんなのお構い無しでレノンを鑑定するアルフ。蟹を食べるためならなんだってやってのけるあのレノンが、他人に蟹を分け与えるだなんて信じられなかったらしい。このレノンは偽物じゃないか、と。
「本物だ……」
「お義父さん、レノンが消えました! まさか見えない魔物に拐われたんじゃ!!」
肩を揺さぶってくるシュローを無視して、アルフはレノンを戻した。
「ちょっと、なんだったのよ?」
「いや、病気とかしてないかなと思って……」
「毎日蟹を食べてるから平気よ」
なにが平気なのかちっとも分からなかったアルフだが、元気ならまあいいかと思うことにした。また「今のはなんだったんだ」と煩いシュローには、レノン消失の理由をテキトーにでっちあげておいた。
今、レノンに連れられて歩くアルフは可愛い孫の姿を思い出してによによしている。
シュノンはマーメイドと
マーメイド譲りの美しい海色の髪に、見るものを魅了する金色の瞳。長い耳とそのやや斜め後ろから伸びる珊瑚の角は
シュノンの美貌は赤ちゃんの頃から群を抜いており、祭り会場の広場に差し掛かった遠目でも一発でわかる愛らしさ。久し振りに会う孫を見て、アルフはデレッと表情を崩した。
「でもなんで天使の格好をしてるんだ? あんな野蛮な種族、シュノンとは似ても似つかないだろ」
「
レノンと手を腕を組んで歩くシュローが教えてくれる。
「へぇ、悪魔か……」
聖夜にあげるはずだったお土産がそのままなのを思い出したアルフは少し考える。が、今はそんなこと置いといて久しぶりに会う孫に集中しようと決め、そのまま満面の笑みでシュノンを目指して走り出す。
「お~い、シュノン! 元気にしてたか~?」
「えっ……誰?」
しかし予想に反して返ってきたのは戸惑いの声。
それもそのはず、アルフが前回ベルジュ島に来たのはシュノンが生まれた時なのだ。
ただただ、ショックで固まるアルフであった。
◇
「ありぇ? なんか鐘檸檬の匂いがすりゅぞ」
つられてアドイードもクンクン匂いを嗅ぐ。
「本当だ……あっ、ありゅふ様がベリュジュ島に着いたみたいだよ」
「ベリュジュ島!? おいアドイード、こりぇは一旦止めて外に行くぞ」
「お外? なんで?」
ドアが急に大きな声を出したから耳を塞いだアドイードは、今やっている作業よりも大切なことなんてあるのかと疑問に思った。
「なに言ってりゅんだ。この時期のベリュジュ島っていえば鐘檸檬の母樹が出産すりゅんじゃないか」
ドアの言葉にポカンとしていたアドイードだったが、やがて心配そうな顔でドアの頭を撫で撫でする。
ドアの方がちょっぴり背が高いので、ぐぐっと背伸びして。
「頭おかしくなっちゃったの? 檸檬は出産しないよ?」
「鐘檸檬の母樹はすりゅんだ! いいかりゃ行くぞ!」
ドアはアドイードの手を払い除けると、シタタタタっと走っていった。
「あ……もう、アドイードがいりゅんだかりゃ、ここかりゃお外に行けりゅのに。クイン、ありゅふ様を見ててね」
アドイードは作業を手伝わせていた
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