潜水

@malkovich

第1話

あの夜のことははっきりと覚えている。秋の匂いと、虫たちの声。高校からの帰り道、俺は加奈子と二人で歩いている。そっと加奈子の手が、ぼくの手に触れる。「鈴虫の声、綺麗やね」「せやね」加奈子に急かされるようにぼくは彼女の手を握る。


あの時、君の歌うような声が好きだなんて、そんなキザなセリフが言えたら良かったのになと、今になって思う。伸びやかで、どことなく可愛げのある加奈子の声。初めて同じクラスになって、現代文の時間、先生に当てられた加奈子が、中原中也の詩の朗読をした時に、僕はすぐに心を奪われたんだ。


「博人はもう、進路決めたん?」「うん、決めたよ」「やっぱり、ずっと大阪におるん?」「そのつもりやで」


加奈子が東京の大学に行きたがっていた事は、僕も知っていた。英文学が大好きな加奈子は、有名な教授がいるA大学の文学部を志望していたからだ。僕がそれを止める権利もないし、かといって僕が付いていく勇気もなかった。それに、シングルマザーになってしまった母を置いて遠くに行く事なんて、僕には想像できない。


「あんな、私、東京に行くことにしてん。博人とは離れてしまうけど、遠距離恋愛っていうのも悪くないんちゃうかなって」


加奈子は恥ずかしそうに、俯き加減でそう言った。僕は何も言えずに、ぎゅっと手を握った。しばらく、無言のまま歩き続ける。


「汚れっちまった悲しみに、今日も小雪が降りかかる...」加奈子がふと、中也の詩の一節をつぶやく。


「まだ雪なんて降ってないやん」そう言って僕が笑ってしまうと、加奈子もつられて笑っていた。「何となく、思い出したねんよ、いま」「確かに、もうすぐ冬やね。風も冷たくなってきたし」


それからとりとめもない事を話しをしていると、いつもの分かれ道に着いてしまった。また明日学校で会えるし、ここでバイバイしたところで、あんまり寂しい気持ちにもならない。けど、肌寒い風のせいか、今日は少し寂しい気持ちになった。加奈子も同じ気持ちだったろうか。


「また、明日ね」「うん、また明日」


彼女の後ろ姿を、僕はしばらく眺めていた。長い黒髪が揺れる。華奢な後姿を見ると、いつも心配な気持ちになった。そしてあの、歌うような声を思い出す。何故だろう、その時に僕は、加奈子の声にどこか憂いを感じていたんだ。心の底に沈殿した、決して表層には上がってこない、泥のような憂いを。

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