寄る辺なきものⅡ
それから何日か経った。具体的に何日だったか、3日を越えてから数えるのを止めた。愛希の身体に巻き付いた包帯は医者に外され、食事もようやく喉を通るようになった。まだ唐突に泣き出すことはあるが、少しずつ落ち着いている。だからか、昨夜の食事の後号史郎は愛希に「これからについて話そう」と提案してきた。迷わず、愛希は頷いた。この数日間、愛希は何度も小田桐の家に帰してほしいと言ったが、号史郎に拒まれた。理由についても「話せない」と頑なだった。ようやく、その理由を聞けるかもしれない。
虚ろな表情を浮かべ、愛希は布団の横に畳まれた灰色の和服を見据える。2、3日前から愛希に
和服を持ち上げ、広げて袖を通し、羽織る。慣れた手つきで帯を結び、そのまま襖を開けて廊下に出る。初めてこれを着た際は上手くいかず、号史郎に直してもらう羽目になった。その時のことが恥ずかしく、時間も持て余していたという事情も重なり、丸一日ひたすら練習して覚えた。
(昔なら・・・・・・)
小田桐の家にいたことも、綾乃と話していたことも、校庭でサッカーをしていたこともひどく昔に思えた。心は虚ろで、感情を灯さない。どうすれば笑えるのか、喜べるのか分からない。自分は誰だろうと、何をしているのだろうという自問を延々と繰り返す。
ふらついた足取りのまま廊下を歩き、居間の前で立ち止まる。
「・・・・・・入れ」
返ってきたのはため息の混じった
「楽な姿勢でいろ」
号史郎の言葉に頷き、正座をする。正座や座礼は、
居間には本棚が置かれており、その中で一冊だけ読むことを許された本の序盤に記してあった。采女とは本来朝廷、つまり天皇や皇后の身の回りを世話する人間らしい。つまり、日本式のメイドだろうと愛希は解釈している。
「それで、今日こそ話してくれるんですか?」
「いつも言っているが、強制するつもりはない。現実は時に残酷だ。自分を守るため、逃げるのまた一つの道だろう」
愛希の固い言葉に対し、号史郎はぎこちない、心底彼女の気遣うような言葉を返した。
脳裏にクラスメイトが殺される瞬間の光景が過る。表情が強ばり、身体が震え始める。
もし帰れると言われれば、迷わず真実を知らない道を選んだだろう。けれど、心のどこかで分かっている。愛希はもう、小田桐の家には帰れない。ここでしか生きていけないのなら、そして龍馬が何故あんな凶行に走ったのか、知らないまま過ごすことは耐えられなかった。
今にも崩れそうな虚勢を張り、言葉を紡ぐ。
「教えて、ください」
「・・・・・・分かった」
静かに、号史郎が頷く。テーブルに置かれた湯飲みを掴み、口をつける。ゆっくりとその中身を傾けて飲み干し、湯飲みを戻す。
「君の同級生は、龍馬が全て殺した」
その言葉に身体を震わせながら、けれども愛希は頷きを返す。忘却できる記憶ではない。目を閉じればすぐさま脳裏に浮かぶ鮮烈な記憶であり、傷跡だ。
「知っています。わたしも、そこにいました。全部見てました」
震えた唇から、愛希はかすれた声を必死に絞り出す。
「どうして龍馬くんがみんなを殺したか、教えてください」
号史郎はそんな愛希を見据え、笑みを浮かべた。哀れむような、悲しむような、暗い笑みだ。
「龍馬に罪はないと言わん。それでも、本来それは私が負うべき
「いいや」と号史郎は苦々しい表情で首を振る。見れば彼の右膝の上で固められた拳は震え、血がに
号史郎がゆっくりと、言葉を紡ぐ。愛希は震えながら、けれども一言一句逃すまいと意識を集中させる。
「龍馬が人を殺すようになったのは、私が育て方を間違えたからだ」
その意味を理解できず、愛希は戸惑う。言葉通りの意味で捉えれば龍馬は悪人で、残虐で、人を殺すことすら楽しむような人物、ということだろう。それは違うと思う。愛希が龍馬をヒーローと感じたのは多分誤解だった。それでも彼は悪人ではなかったと思う。
「分かっている。あの子は決して悪人ではない。ただ、純粋だっただけだ。私の期待に応えようと、風牙の名を背負おうと」
そうだった。龍馬はいつだって何かに必死で、苦しんでいた。きっとそれは彼にとって大事なもので、「修学旅行に行きたい」という愛希の我が儘を押しつけてしまった。今更、後悔している。
「そう願う一方で、あの子の中にどれだけの寂しさがあったか、悲しさがあったか、憎しみがあったか・・・・・・私は分かっているふりをしていた」
だからそれは、愛希も一緒だった。そして、クラスメイトも一緒だった。誰も、龍馬を理解しようとしなかった。理解していないから、あんな言葉を浴びせてしまった。全員で取り囲むように八つ当たりをしてしまった。
「君は、風牙家がどんな家か知っているか?」
唐突な質問に首を振る。
号史郎は苦笑を浮かべ、立ち上がった。
「その昔、イザナギとイザナミという夫婦の神がいた」
左を向き、本棚に近づきつつ号史郎が言葉を紡ぐ。
「二人の夫婦は愛し合うことで、多くの神々を生み出した」
そうして本棚の前に近づくと、号史郎はA4サイズのファイルを取り出した。
「その最中、ある神を生んだ負傷が元でイザナミはこの世を去ってしまう。イザナギはイザナミを追って黄泉の国に行き、イザナミと再会する。されど、変わり果てた姿を見、彼女を拒絶するままに逃げ出した」
愛希が龍馬から聞いた話とは別の話だ。かろうじて、イザナギとイザナミが夫婦だったという記憶はある。合致するのは、そこだけだ。
「イザナミは言った。イザナギの国の人間を毎日千殺すと。イザナギは言った。ならば毎日千五百を生み出す。これが、生死の法則となった」
テーブルの前に再度胡座を掻いた号史郎がファイルを開き、中身を見せる。
ファイルの中には数枚の写真が並べられている。それらは一言で表すと、不快感の塊だった。見るだけで怖気が走り、吐きそうになる。まさに、化け物という言葉が相応しい。
「これが死者の使いであり、イザナミの子だ。古くから、化外と呼ばれている」
そこまで説明されれば、愛希も納得できた。
つまり、風牙家は化外と戦うための一族だったのだろう。だからこそ、龍馬が何故クラスメイトを簡単に殺せるほどの力を持っていたか納得できる。そして、龍馬が学校に来られない理由の一端も推し量れた。こんな化け物と戦っていたのだ。学校に通うどころではないと思い込もうとする。
「我ら風牙の一族は、
肩を震わせながら、愛希は頷く。
「そして稀に、異能と呼ばれる、退魔として強い力を持つ人間が生まれる。龍馬もその一人だった」
なるほどと愛希は必死に納得する。納得してるのに、違和感が拭えない。この先には何故か、悲しく、目を逸らしたい事実が
「本来、異能を宿した人間は極力化外から遠ざけることが習わしだ。龍馬は良い子で、素質もあった。されどいくら良い子であろうと、否、良い子であればあるほど、苦しみや悲しみといった負の感情もまた強大になる。そして、その闇に呑まれれば――」
「だから、龍馬くんはみんなを殺したの?」
泣きながら、けれど自分でもぞっとするほど冷たい言葉を紡いでいた。真っ向から号史郎を睨み付け、愛希は言葉をぶつけていく。
「あなたのせいで、龍馬くんがあんなことしたんですか?」
「その通りだ」
号史郎が苦々しい表情で頷く。その態度に、心底腹が立った。目の前には包丁があれば、殺したいとさえ思った。
「龍馬くん、自分が役立たずだって言ってた! 子どもは大人の役に立たなきゃいけないの? 自由に生きちゃいけないの? 当たり前に、ふつーに、学校に行っちゃいけないの?」
けれど正味そんな勇気はないから、言葉を叩き付ける。全ての元凶を、精一杯の力で
「龍馬くんのこと、一つでも分かろうとしたの? 龍馬くんがほしいもの一つだってあげたの? 龍馬くん、認めてもらいたかったんだよ。多分、ほめてほしかったんだよ。なのに、どうして・・・・・・」
やがて愛希の言葉は力を失い、嗚咽に紛れて消えていく。
分かっている。元凶が号史郎でも、殺したのは龍馬だ。愛希がいくら号史郎を責めても、龍馬の罪は消えず、消え去った命も返ってこない。何より、殺された人間に対して、龍馬を許せなんて口が裂けても言えない。どんな状況でも、最後の引き金を引いたのは龍馬自身だ。何より、愛希もまた龍馬によってクラスメイトと帰る場所を失っている。事実から目を逸らすことが出来ない。号史郎を弾劾する愛希自身が、龍馬を恨んでいる。
「・・・・・・すまない」
謝罪の言葉だけが、被せられる。
「・・・・・・龍馬くんは、どうなるんですか?」
返答には、少しだけ間があった。言うべきか否か、号史郎も迷っている様子だ。
「龍馬は・・・・・・」
だがここまで語った以上、もう隠す理由もないのだろう。ゆっくりと、彼は言葉を
紡いだ。
「一ヶ月後、専門の組織の手で処刑される」
今度こそ、愛希の思考は真っ白になった。心のどこかで、時間をかけて整理をすれば、いつかまた龍馬を向き合えるのではと、甘い幻想にすがっていた。
「今は小康状態だが、いずれまた暴走するだろう。それは龍馬もまた望まぬこと」
やり直す機会などないと、真っ向から突きつけられ、我を忘れて呆然とするしかなかった。
・・・
それから一週間。号史郎と顔を合わせど、一言も話さない日々が続いた。
何もする気になれず、けれども死ぬほどの勇気もなく、また黙々と生活するだけの日々を続けた。2日前、愛希は号史郎から鍵とA4サイズのノートを渡された。ノートの最後の記載によると、鍵は今龍馬が閉じ込められている地下牢のものらしい。手書きの地図までノートに記されていた。確認はしたが、心の整理が覚束ない現状では龍馬と会う勇気が沸かず、行けずじまいだ。
他には、今後の身の振り方について記されていた。
大前提として、やはり愛希は小田桐家に帰ることはおろか、会うことすら許されないらしい。理由は、退魔の家計の特異性によるものだ。風牙を初めとする退魔の一族は、元々天皇家と同じ一族だった。しかし、歴史に記されていない古代、世の統治を行う一族と、穢れを背負う戦いの一族に二分した。統治者は徹底して情報を統制し、化外の情報が人々の手に渡らないようにした。そしてその中で二千もの間、戦い続けたのが退魔の一族だ。
人は死んだ後、神になれると言われている。そして死んだ命の行く先は冥界の神、伊弉冉が待つ黄泉の国だ。そこに行ったところで、救いはない。
(だから・・・・・・)
何度も何度も「帰りたい」という言葉が頭に過 《よぎ》りながら、けれども愛希は本当の意味で理解できた。この真相はどこまで残酷で、闇に葬らなければならないと。退魔の一族は戦いの一族であると同時に、秘密の守人でもあったと。
「ああ・・・・・・ああ・・・・・・」
声を押し殺し、自室で一人、愛希は体育座りで泣き始める。
叶うのならば、全てを忘却したい。退魔の一族のことも、龍馬のことも、全て。そうすれば帰える。風牙愛希でなく、お転婆で明るい小田桐愛希に戻りたい。
けれど、絶望はこびりついて離れない。何かも失った世界で、そして死んでも救われない世界でただ、打ちのめされるまま
アカシ 流上進 @Rshinya078
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