境界Ⅵ
翌日。
綾乃と共に登校した
「うそ・・・・・・」
非現実的な光景に息を飲み、背筋が凍る。遅れて窓を覗き込んだ綾乃も青ざめた表情を浮かべた。彼女と同じく窓から外を見た生徒たちは皆同じような反応をした。ここに来るまでの愛希はサッカーができなくなることばかり嘆いていたが、そんなことなど些事に思えた。夢を見てるか、とてもリアリティな映画を見ているような心地だ。ここに来てようやく、愛希は由希が心配していた理由の一端を
目を
同時にがらりと、ドアを開ける音が耳に届いた。
愛希はぼんやりとそちらを見据える。
痩せこけた青白い肌に、短い黒髪、
「・・・・・・
「? あ・・・・・・
途端、今までの暗い気持ちなんか綺麗さっぱり消し飛んだ。
「龍馬くん!」
反射的に立ち上がって龍馬に駆け寄る。戸惑った様子の彼に対して愛希は満面の笑みを浮かべ、
「久しぶり! どうしたの?」
「あ、えっと・・・・・・」
「ねえねえ! 校庭見た?」
「あ、うん」
「化外の影響だって、すっっごいね! びっくりした。ねえねえ、龍馬くんはだいじょぶだった?」
「愛希ちゃん、ストップ」
流石に見かねた綾乃が背後から肩を叩いてきた。
「ぎいえ!? 綾ちゃん!?」
女子にあるまじき汚い悲鳴と共に背後を振り返り、目を剥く愛希。動揺するまま息を荒げ、言葉を紡ぐ。
「あ、綾ちゃん! すごいね、ぜんぜん気づかなかった。忍者?」
「違うよ」
当然、綾乃が気配を消したわけでも、意図して足音を小さくしたわけでもない。彼女としては普通に近づいたつもりで、愛希が龍馬との話に夢中で全く気づかなかっただけだ。
「ごめんね、
苦笑と共に、すかさず龍馬に話しかける綾乃。
「あ、いや・・・・・・おれはべつに」
「ほら、愛希ちゃん! 今度はゆっくりしゃべってね」
と、右手で強く愛希の背中を叩く綾乃。背中に衝撃が伝わると同時に、少しだけ目頭が熱くなる。応援してくれているんだなと思った。気合いを入れようと背筋を伸ばし、口を開く。
「えと、ひ・・・・・・久しぶり! 龍馬くん」
けれど少し空回りしてか、声は上擦っている。
「あ、ああ・・・・・・久しぶりだな、小田桐」
龍馬の反応は未だ戸惑った様子で、ぎこちない。久しぶりだからだろうと考え、言葉を紡ぐ。
「家の用事は、大丈夫なの?」
「あ、うん。まあ・・・・・・」
歯切れが悪そうに龍馬が言い、視線を逸らす。
龍馬があまり登校できない理由は、家の都合と聞いている。風牙という特殊な苗字だし、何かの家業だろうとは愛希の姉美希の推測だ。同時に、他人の家のことだからあまり詮索しない方が良いとも釘を刺された。
「そっか」
愛希は苦笑を浮かべ、何か話題がないかと思案する。授業の話題とサッカーの話題どちらが良いかと迷い始めたところで、チャイムが鳴り出した。
「えー・・・・・・」
がっくりと項垂れる愛希。心底残念だった。久しぶりに会えたのに、もっと話したかったのに、時間はそれを許してくれないらしい。理不尽だ。いっそ授業をサボろうかという思考が頭を過ぎり、
「小田桐」
同時に、龍馬が言葉を紡いだ。変わらずぎこちなく、けれども彼の心から自発的に吐き出された言葉だった。
「また、あとでな」
「うん!」
満面の笑みを浮かべて勢いよく踵を返し、愛希は席に戻る。
そのせいで、彼が頬を赤らめていることに気づかなかった。
・・・
3時間目の算数の授業が終わるチャイムが聞こえると同時、愛希は一目散に龍馬の席に向かった。本当は1時間目が終わると同時に話したかったが、二時間目は体育の授業で着替えが必要なため、時間が確保できなかった。幸い、次の授業は社会で教室移動はない。教科書やノートは算数の授業が終わると同時、机の上に出しておいた。死角はない。10分間たっぷり話せるぞと鼻息荒く言葉を紡ぐ。
「りょ・う・ま、くん!」
「小田桐?」
戸惑いがちに振り向く龍馬。何やら難しい顔をしている。よく見ると彼の机の上には算数のノートと教科書が広げられ、びっしりと書き込みがしてあった。
「龍馬くん、勉強熱心だねー」
「まったく、分からないけどな。頭悪いなって思うよ」
心底申し訳なさそうに言う龍馬に対し、ズキリと胸が痛む。学校に全然来てないのだから、仕方がないと思う。
「どのへんがだめなの?」
龍馬の前の席が空席と気づくと、無遠慮に座り込み、真下から龍馬の顔を覗き込む。龍馬は赤い顔でそっぽを向き、「分数の計算だよ」と回答する。愛希は分数が何かとしばし思案し、それが彼女にとって一番嫌いな科目であったこと、一番成績の悪い科目でもあったことを思い出す。
「わたしも、わっかんない」
そうして、龍馬とは違って悪びれもせず笑顔を浮かべて見せた。
「龍馬くんはすっごいね。勉強熱心だ」
偽らざる尊敬の言葉に、龍馬は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、次の瞬間には少しだけ頬を綻ばせた。やっと笑ってくれたと愛希は嬉しくなり、言葉を紡ぐ。
「久しぶりの授業は、どう?」
声を弾ませてしゃべりながら、けれども愛希は周囲の空気がぎこちないことに気づいていない。ぎこちない理由は二つある。一つは校庭の惨状、もう一つは龍馬の存在だ。風牙龍馬という存在は、大半のクラスメイトにとってよく思われていない。人は自分と異なるものを拒絶する。滅多に登校しない龍馬はクラスにとって異分子で、想いを寄せている愛希と、愛希から彼の話を聞いている綾乃、サッカーの一件以降龍馬に感心を寄せている健吾くらいだ。
愛希が初めて龍馬と話した日の翌日、愛希はクラスメイト全員を集めて抗議した。
「こんなのは間違っている」、「こんなのは弱いものいじめだ」と。彼らとて愛希の言葉が正しいと理解している。それでも見知らぬ存在への嫌悪感や恐怖感は数年間
「落ち着かないな」
「だよね。龍馬くんいっつも浦島太郎気分だ」
「浦島太郎?」
有名な話だと思ったが、龍馬は知らないようだ。よほど家の用事が忙しいのだろうと考え、ため息をつきつつも詮索は控えた、
「昔話の一つ。亀を助けた若者が海の中のお城に招待されたの。それでしばらくお城で暮らしてたらね、しょーがない理由で地上に戻ったら数百年経ってたって話」
愛希は説明をした。龍馬は顎に手をやり、しばし思案する素振りを見せる。
「・・・・・・なるほど」
しばらくして、納得したように頷いた。数ヶ月と数百年という規模の違いがあれど、今の龍馬に境遇の近いものがあった。
「小田桐は物知りだな」
心底関心したように龍馬が言う。
「そんなことないよー」
照れながら、愛希は屈託なく笑った。兄は良い大学に行ったし、姉は本を読んだり小説を書いている。そんな家族の中にいたし、一番年下だった愛希の持っている知識が浅いのは当然で、だからこそ龍馬の言葉は新鮮で、こそばゆい。
「龍馬くんは・・・・・・」
無意識で、愛希の声のトーンが少しだけ上がった。龍馬と話せて嬉しい。もっと自分のことを知ってほしいし、もっと龍馬を知りたいと思った。
「昔話って何か知ってる?」
一瞬だけ龍馬が表情を歪め、けれどそれに反応する前に彼は笑顔の仮面を被ると、
「
と語った。
「ひるこ?」
初めて聞く言葉だった。少なくとも愛希が昔聞かせてもらったり、読んだ物語には
存在しない。
「イザナミとイザナギ、この二人の最初の子どもの話だよ」
「・・・・・・ごめん。分かんない」
難しい顔をして愛希が答えると、龍馬は心底意外そうな表情を浮かべた。彼にとっては当たり前の知識なのだろうが、このクラスにそれを知っている人はいるのだろうかと愛希は疑問に思う。
「イザナミとイザナギは、
「めおと?」
「
「そうなんだ」
不思議ものだなと、愛希は首を
「イザナミとイザナギがたくさんの子どもを作って、それが今の日本になった」
「うえー・・・・・・」
話の内容がまったく分からず、思わず変なうめき声を漏らした。たくさんの子どもが日本になったとはどういうことだろうか。長男は東京都で、47男は沖縄県ということだろうか、そもそも都道府県を男女の性別で区別できたものか、愛希は真剣に悩んだ。
「それで、蛭子ってのはそいつらの最初の子どもなんだ」
今度美希に解説してもらおうと何とか頭を切り替え、渋い表情のまま頷く。龍馬の話についていけない愛希には、それしか出来ない。
「イザナミとイザナギは初めてできた子どもを捨てた。何故かわかるか?」
分からないと首を振る。兄や綾乃のような夢もなく、姉のように将来を見通してもいない。そんな自分が優秀だとは思わないが、捨てられるという可能性を一切考えたことがない。親は子どもを見捨てない。それが愛希にとっての常識だ。
「そいつが、どうしようない役立たずだからだよ」
それを嘲笑うように、龍馬が言葉を
「おれみたいにな」
「ちが・・・・・・」
反射的に立ち上がり、必死に否定しようとした言葉は、龍馬の冷たい目線に遮られる。「お前に何が分かるんだと」と責められるような気がして、頭がパニックに
だから言えなかった。不用意な言葉で、龍馬の表情を曇らせたくなかった。
・・・
席に着き、教科書を開く。ノートは社会用のものを一つ、そして算数用のノートを一つ後ろのページから開いた。教師が教科書の読み上げを生徒に指示する。順番は遠い。前の授業では最後に教科書を読んだ記憶がある。大丈夫と頬を叩き、気合いを入れる。鉛筆を握り、一番上の表題に大きく、「修学旅行でやりたいことリスト」と書き出した。
――そいつが、どうしようない役立たずだからだよ。
思いつくままに書き出しながら、その言葉を思い出す。
考えるのは、何故龍馬がそこまで追い込まれているのかだ。虐待という言葉が浮かぶ。不登校なのは、浦島太郎の物語すら知らなかったのは、親から暴力を受けたり、
(わたしは・・・・・・)
やがて授業のことは完全に
何度も鉛筆を走らせては、消しゴミで文字を消し、もう一度文字を書き出す。龍馬の好みはなんだろうか、楽しめそうなものは何だろうかと持てる限りの知識を総動員する。
数十分後、教師に注意された愛希はそのままずっと廊下に立たされる羽目となった。
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