境界Ⅴ
「
結局、愛希が家に帰り着いたのは19時半だった。警報が完全に解除されたのが18時過ぎ。その後は教師引率の元集団下校となり、
「よしよしー、怖かったね! もうだいじょーぶううううううう!」
涙ながらの言葉に愛希の思考は追いつかない。ちゃんと避難していた以上、怖がる理由もないと思う。だというのに母はわんわんと泣きながら愛希を抱きしめ、先生は
「安心させてやるんだぞ」と無責任なことを言って去ってしまう。
結局、そのまま30分ほど母に泣きながら抱きしめられることとなった。
何故由希がこんなに泣いて
・・・
そうして夕食の席。
メニューは生姜焼きに味噌汁とポテトサラダ、小皿に漬物が盛られていた。父は仕事が長引いたらしく、今夜は帰らないとのことだ。先ほど愛希は母に言われるがまま職場に電話をかけ、父は心底安心した様子で話をしてくれた。それから、「しつこかっただろうが、母さんのこと責めるなよ」と釘も刺された。
「いやー、にしてもあーちゃん近くに出ただなんてドンピシャだね」
お
「・・・・・・」
愛希の隣で、由希がむすっとした表情を浮かべている。当然だろう。泣くほど心配した事案に対して、美希の心底楽しそうな表情は不謹慎だ。もっとも、由希本人とて娘たちにとっての化外が脅威でない自覚はあるから、怒りはしない。
「そうなの?」
と、小首を傾げる愛希。
本来、小学校の体育館が避難所の一つだったが、付近に化外が発生したことで無理になった。そのため小学校の離れにある複数の地下シェルターに、それぞれの学年に別れて避難した。警戒の完全解除と同時に下校となったので小学校に寄ることもなく、小学校にどんな被害があったかも分からない。
「いやさ、さっき友だちからメールで聞いたの」
「
「そうそうー、でさー。校舎は無事だったけど、正門は完全に破壊されて校庭なんて当分使えそうもないって」
「そりゃ災難なんだね。でも誰もケガなくて何より・・・・・・」
そこまで話を聞いたところで、愛希の箸と思考がピタリと静止した。
「あーちゃん?」
「愛希ちゃん?」
愛希らしからぬ反応にすぐさま気づき、二人も思わず話を止めた。
「それ、ほんと?」
唇を震わせながら、愛希は問うた。
「マジ」
対し、美希は頷く。と同時に愛希の思考がようやく回り始める。正門は破壊され、校庭は使えない。まず、裏門の山道から登校することになる。普段より15分ほど時間がかかって面倒だ。校庭が使えない以上、、体育の授業は全て体育館で実施されるだろう。
「あ・・・・・・」
そして、愛希にとって致命的な結論が導き出される。
箸とお茶碗をテーブルに置き、一度大きく深呼吸をし、そして――
「サッカーできないじゃんッ!!」
と、大声を目の前の美希に叩き付けた。美希はお椀こそ落とさなかったがびくりと身体を震わせ、涙目になりながら口を開き、
「どうしたの、あーちゃん」
か細い声で答えた。同時に「うるさい」という耳に
「いったあああ!!」
いつも通り想像を絶するような痛みだった。頭頂部がひりひりと痛み、座布団の上で頭を押さえながら左右に転がる。咄嗟の判断で、座布団からはみ出さないようにと配慮はした。最悪の場合、もう一度拳骨を食らう羽目になる。今度こそ頭を割られそうだ。
実時間で1分ほど転げ回ったところでようやく痛みが引き始め、愛希は涙目で座布団に座り直す。
「で、どったの?」
呆れた様子で聞いてくる美希。対し、愛希はため息を吐き出した。全身を使って大きく、深く、憂鬱な気持ちを表現し、そして一言ぽつりと、
「サッカー・・・・・・」
「なるほど。そりゃ愛希ちゃんにとって死活問題ね」
ぽかんと口を開けて静止すると美希とは対照的に、両腕を組みながら心底納得する由希。
「え? 何? サッカーがなんなの?」
「校庭だめじゃできないじゃんッ!」
畳に両手を叩き付けながら抗議する愛希。本当は目の前のテーブルをひっくり返したい心境だったが堪えた。母親の拳骨が恐ろしい。
「またサッカー? うち、インドアだし分かんないよ」
苦笑しながら言う美希に少しだけ苛立つ。テーブルに両手を叩き付け、立ち上がる。今日こそはサッカーの魅力を分かってもらおうと思った。兄とやっててあんなに楽しかったのだ。姉とやっても楽しいに決まっている。というか、校庭でできない以上、近所の広場でやるしかない。そのためにも、サッカー人口は増やしたい。学校でできない時間を補いたい。
「サッカーはすっごい走るよ。もう、走って走って走って! 走りまくるのッ!」
「うわあ・・・・・・最悪」
「そりゃあもちろん、走るのは辛いよ。でもその果てにつかみ取ったゴールが! 栄冠が! すっごい気持ちいいの!」
「はあ・・・・・・」
大きくため息を吐き出す美希。
「やろうよ!」
「やんないよ」
案の定、当たれば響くようなスピードで却下する。何がおかしいのか、隣では由希が必死に笑いをかみ殺している。
「うち、外嫌い。日光嫌い」
小田桐美希は生粋のインドアであり、小田桐愛希は生粋のアウトドアである。対照的な理由は、幼少期よりマイペースで兄の言うことを聞かなかった美希、素直に聞いていた愛希の違いだろう。もちろん、当人に自覚はない。
「人間は太陽と生きるの!」
「うちは月と生きてるよ。いや、豆電球。むしろ太陽浴びると溶けちゃうよー」
「お姉ちゃん
「あ、いいねそれ。学校行かなくていーじゃん。ずっと小説書いたり読んだり、マンガ読んだり、ゲームができる! さいっこー!」
「このダメ人間!」
「ふ、ウチの人生はウチが決める!」
「もうさー」
と、唐突に由希がニヤニヤした顔で会話で割り込んでくる。同じ母親から生まれた姉妹なのに何故正反対か、誰より彼女が疑問だろう。だが生来朗らかで大雑把な性格もあって悩むことはせず、むしろこの状況を楽しんでいる。
「お互いやっちゃえばいいじゃん? 愛希ちゃんは本読んだり自分で小説書いたり、美希ちゃんは少しだけサッカーやったりってさ」
と、正反対の姉妹はそこだけ息が合ったかのように険しい表情を浮かべ、ほぼ同時に母を睨み付けてると、
「「ぜったい、やだ!」」
と、綺麗に声を
「あらそう」
由希は苦笑を浮かべ、その後2時間ほど続く娘の下らない喧嘩を見続けた。
尚、結果は引き分けだった。夜も遅いからという理由で由希は強制解散を指示し、二人は渋々と従った。大した喧嘩ではない。二、三日も経てばお互い忘れているような、その程度の争いで、これもまたありふれた日常に過ぎない。同じ日常が永遠に続くことはない。子どもが大人になっていつか家を出るように、全てのものが変化し、移ろっていく。そのことは、愛希だって理解していた。けれどもそれはあまりにも唐突にもたらされて、別れを言うことさえ許されなかった。今日この日が、小田桐愛希にとって最後の夜となった。
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