境界Ⅳ


 ――キエテシマエ、コワレテシマエ。


 呪詛じゅそのように脳裏へと響く言葉に対し、両膝をたたみについた彼は脂汗をにじませながら奥歯を噛みしめる。そしてゆっくりと呼吸しながら、自らの内からあふれ出そうとする力を強引に押さえ込んだ。しばらくしてから周囲を見回し、布団やタンス以外何もない和室が、変わらず自分の部屋であることに安心する。

 時刻は15時。修学旅行前くらいは学校に行きたかったが、不安定な状況では無理だ。


 ――キエテシマエ、コワレテシマエ。


 再度呪詛が脳裏に響き、荒く息を吐き出しながら両手の爪を畳に突き立てる。血が滲むほどの痛みに小さく悲鳴を上げると同時、呪詛はかき消える。

 なんて無様ぶざまなと、自らが憎たらしい。

 風牙ふうがの家に生まれ落ち、誇るべき使命を与えられた。父親は「お前が希望だ」と強い期待をかけられている。だからこそ己が力を積み上げることが彼の使命で、そのためだけに全てをささげてきた人生だった。だというのに、この体たらくだ。新しい力を制御することすらままならず、少しでも気が緩めば暴れ出しそうだった。


「ぐッ!」

「情けないな。まだ風王ふうおう手懐てなづけけられぬか」


 聞こえてきた威圧的な声に顔を上げると、部屋のふすまを開けた父、風牙ふうが号史郎ごうしろうが悠然と立ちながら冷たく、彼のことを見据えていた。


「お前が初めてだぞ。契約の儀で三度も失敗し、契約を終えて尚、けがれに屈する軟弱者は。愚か者よ、恥を知れ」


 怒りに一瞬、視界が赤く染まる。噴き出る衝動に抗おうと右手の拳を、血が滲むほど強く握りしめた。違うと、必死に自らに言い聞かせる。憎んでなんかいない。目の前にいるのは尊敬する父親だ。だから殺してはならないと、ブレーキを踏み続ける。


「・・・・・・仰るとおり、です」


 そうして声を震わせながら、告げるべき言葉を絞り出す。


「申し訳、ありません」


 対し風牙号史郎が一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべたことに、彼は気づかなかった。本当に望んでいたものの一端が見えたのに、肝心なそれを掴み損ねた。


「お前の通っている小学校の近辺に化外けがいが発生した。等級はだ。風牙家次期当主として、風王の初陣として、相応しい舞台だ」

「それは・・・・・・」


 言われた瞬間、彼は迷った。自分が今危うい状況だと分かっている。少しでも制御を間違えれば、どれだけの被害をもたらすか分からない。もう一度風牙の家に戻ってこれるか分からない。あれだけ行きたかった修学旅行が、クラスメイトと作れる最初で最後の思い出を残せなくなる。


「わかり、ました」


 迷いながら、けれども彼は条件反射で答えた。それが風牙という一族であり、化外を退ける退魔の一族としての責務だ。何のために人知れず化外と戦ってきたか。何のために、血反吐を吐きながら力をつけてきたか。それらの理由全てが、退魔という一族の責務だからだ。

 無論、彼――龍馬りょうまにとってもそれは大事な責務だ。何より、もし自分が化外を倒さなければ犠牲が出る。

 退く理由など、一つも存在しない。


 ・・・


 時刻は15時15分。帰宅を間近に控えた生徒達の前で、先生が長々と話している。来週の修学旅行での注意やそれまでの体調管理等、難しく、頭に入らない話は聞いた振りでごまかした。愛希の関心は別にある。結局、龍馬は今日も来なかった。よって、愛希、綾乃、香奈三人での風牙家訪問は決行となる。

 香奈ははじめ「どうしてわたしまで」と渋ったが、小学校近くの駄菓子屋で好きなお菓子を買うと伝えたら納得してくれた。山中にある小学校の付近には店が少なく、一番近いスーパーマーケットでも歩いて30分ほどかかる。だからそこは小学生達にとってもいこいの場で、だからこそ教師達も小銭程度の持ち込みは黙認していた。


(えっと・・・・・・)


 右手で鉛筆を握り、ノートに情報を書き込んでいく。

 愛希の家から小学校までは約5キロで、1時間20分ほど時間がかかる。香奈の家は小学校から約10キロで、2時間40分と計算する。

 今すぐに小学校を出たと仮定すると、龍馬の家に着くのは18時頃となる。丁度愛希の門限と同じ時間だ。幸い、綾乃の家族が近くで仕事しているらしく、帰りは車に乗せてもらえる話だ。それでも門限超過は確実で、今の内に上手い言い訳を考えなければならない。

 どうしたものかと愛希は首をひねる。本当のことを言えば案外許してくれそうだ。しかし、男の子と会うために門限を破ったなどと知れば朝食で母親と姉から執拗に揶揄からかわれるだろう。それは避けたい。

 思案するままもう一度首を捻ると同時、「起立」という日直の声が聞こえた。立ち上がるクラスメイトの動きに一拍遅れ、愛希も慌てて立ち上がる。

 同時だ。教室の天井にあるスピーカーの音が一度ハウリングを起こし、直後にはっきりと、明瞭な言葉が告げられる。


『緊急警報。緊急警報。化外が発生しました。生徒たちは担任の指示に従い、指定の区域まで避難してください』


「えー」


 愛希が驚きのあまり口をあんぐりと開けた。

 その間に担任が素早く指示を出し、クラスメイトたちも次々にランドセルを背負い、廊下に整列する。


「愛希ちゃん」


 綾乃が苛立った様子で愛希の手を握ってくる。


「はあ・・・・・・」

 ため息をつきながら愛希もランドセルを背負い、綾乃に手を引かれるまま教室を出る。

 化外発生の頻度はまちまちだがこの付近だと月に2、3度発生している。安全確認も含むからとの理由で、短くとも2時間程度は待機を強いられる。授業中であればラッキーだか、下校直前は最悪だ。龍馬への訪問はキャンセルだ。

 と、愛希の思考は状況に反して脳天気のうてんきだったが、無理もないことだ。知識として、化外という災害の危険性は知っている。人が亡くなることや、地形が変形することも知っている。けれど実際に人が死んだ話は聞いてないし、変形した地形も見たことがない。だから彼女にとって化外とは、時間さえ経てば勝手に終わるもので、自分には何も関係がないことだった。


 ・・・


国守くにもりから報告を受けた。住民の避難は完了。魔除まよけの結界は各避難所に構築済みだ』

諒解りょうかい


 小学校の屋上に降り立つと同時、せこけた青白い肌に、短い黒髪。緋色ひいろの瞳をした彼は右耳に着けたインカム越しの言葉に、頷きながら相づちを打った。黒のズボンに灰色の長袖、化外用の防具として上半身には軽量の黒い鎧をまとい、胸には風牙の家紋が記されている。

屋上から化外を見据えると、小学校の正門前から体長5メートルほどの黒い狼が威嚇いかくするように龍馬を睨み付けている。

 狼が一度低く、唸るような声を上げる。同時にその左右から黒く大きな刃が生えた。金属のような鋭利さはなく、泥を固めたかのような紛い物だ。刃から黒い滴が落ち、アスファルトの道路に黒い染みを作っていく。

 化外の本体は黒い泥だ。状況から推測すると、近くにいた野生の狼に化外が寄生し、ここまで肥大化したのだろう。本来人が集まる場所であるここは、化外にとって格好の餌場えさばだ。無論、龍馬を殺し次第残りを頼りにまた餌を探すだろう。


(させるか・・・・・・)


 両手の拳を強く握りしめる。

 ここには龍馬が憧れていた日常があった。これ以上、穢させはしない。


 ――キエテシマエ。

 

 まだ、脳裏に呪詛が響いてる。

 けれどもう堪える必要がないと、笑みを浮かべた。

 彼が今見下ろしているのは敵だ。憎むべきだ。破壊すべきだ。そのための力だ。


 ――コワシテシマエ。


 全身が沸騰するかのような熱さに龍馬の全身から白い煙が噴き上がる。息が詰まり、視界が揺らいだ。構わず龍馬は地を蹴り、屋上から校庭へと跳び降りる。

 落下と同時、龍馬に変化が生じる。黒い光が彼の全身を纏い、着地と同時、彼の身体を白い甲冑かっちゅうが包み込んでいた。

 唸り声を上げながら化外が龍馬へと地を蹴り、両翼を振るう。

 対し、龍馬は「風の刃」をイメージし、両腕に旋風せんぷうを纏わせる。


 ――ホロビロ。


やみさかえ、ひかりしっした。故にこそわれ、今一度――やみを切り払おう。風之かぜの戦技せんぎ螺旋らせん牙走がそう


 加減はいらない。一息で消し去ろう。インカム越しに制止する父の声が聞こえたが、黙殺する。目の前の敵を滅ぼす以上に、価値のあることはない。だからこそ風王の力と自らの力を高密度に掛け合わせる。

 龍馬の両腕が振るわれる。同時に旋風が黒く変色し、螺旋らせん回転しながら空間を駆ける。破壊は一瞬。旋風はうなりを上げながら校庭をえぐり進み、化外も攻撃ごと飲み込んで切り刻み、灰燼かいじんと帰した。

 破壊の奔流ほんりゅうは止まらず、そのまま正門を消し飛ばし、道路を陥没かんぼつさせ、山々を切り裂いていく。そうして破壊される様は何にも代えがたい悦楽で、知らず知らずの内に笑みをこぼす。まぎれもなく、これは力だ。風牙龍馬が全てを賭してようやく手にした成果であり、彼という存在の寄る辺であった。もっと振るおう、もっと破壊して己が存在価値を示そうと再度右腕に力を込める。


「・・・・・・れ者が」


 同時に、心底悲しそうな父の声が聞こえた。

 ぷつりと龍馬の中で緊張の糸が切れると同時、彼の全身を覆っていた白い甲冑が消え失せ、疲労感のまま校庭へと片膝をつく。


「何を考えている?」


 まったくだと、肩で呼吸をしながら右手で地面に爪を立てる。


「力に振るわれたな」


 返す言葉もない。不幸中の幸いだ。彼の攻撃した先に民家はなく、人もいない。だから誰も殺さずにすんだ。だが例えそれらが存在したとしても、龍馬は止まれなかっただろう。

 けれど、不思議だった。以前であればもっと傷ついたであろう言葉が、どこか空虚に感じる。父の言葉に対し、何故だか失望さえ覚えていた。

 無言で立ち上がり、周囲の気配を探る。

 化外の気配は皆無だ。役目は果たしたと息を吐き、その場から跳躍して素早く離れた。

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