境界Ⅱ

「いってきまーす!」


 朝7時。元気なかけ声と共に、赤いランドセルを背負った愛希あきは玄関をa開け、駆けだした。草木や野菜を育てている庭や、ベランダに見える洗濯物は一顧いっこだにせず、けれども背後で手を振る母や美希に対しては振り返りつつしっかりと手を振った。

 前へと向き直り、目の前に十字路を確認した。遠くにお爺さんの姿が見え、


「おはようございますッ!」


 愛希は手を振りつつ元気に声をかけ、十字路を右に横切った。この付近は小規模な住宅街だ。行く先々で人とすれ違い、その度にあわただしく愛希は「おはようございます!」と言っては、返事も待たずに走り続ける。

 やがて住宅街を抜け、車道に出る。今度はしっかりとコンクリートで整備された道だ。とはいえ、所詮しょせんは田舎道。両側から来た車がすれ違うほどのスペースはない。両車線が対面した場合、片方が脇に車を寄せて通すのがつねだ。


「よし!」


 息を吐きつつ、愛希はランドセル越しに後ろのへいに寄りかかる。いつものように真っ正面へと視線を向け、山の合間に見える遠くの景色に目を細める。見えるのはビルやマンションなどの白い町並みだ。毎日見ている景色だが、都市部分が徐々に山を浸食しているように見える。愛希が住むのは宮崎の田舎町だ。ここでの生活に不満があるわけではない。けれど、いつかこの町を出て行かなければなと考えている。兄の夢は弁護士だ。夢を追い、東京の大学に進学した。姉の夢は小説家だ。見聞を広めるために、いつかは東京で一人暮らしを始めると言っていた。愛希の夢ははっきりと決まっていない。けれど、いつかは国内だけでなく、海外にも行ってみたいと考えている。もちろん、この町は大好きだ。だからこそ色んな世界を知ることで、より一層この町の良さに気づければと思う。早ければ高校を卒業する六年半後には家を出る。


「愛希ちゃーん!」


 声に振り向くと、いつも待ち合わせていた友だちが手を振りながら歩いていた。名は黒木綾乃。黒のスカートに青のノースリーブ。背丈は愛希より少し低い程度で、髪はロングのポニーテール。お転婆な愛希とは対照的に、女の子らしい子だった。


「おはよ、綾ちゃん」


 歩み寄る綾乃に対し、満面の笑みで答える。


「おはよう、愛希ちゃん。待った?」

「大丈夫、行こう!」


 どちらからともなく頷き合い、学校に向かって歩幅を合わせて歩き出す。


「愛希ちゃん、昨日は大丈夫だった?」


 昨日とは、修学旅行の打ち合わせで二人してガラケー片手に怒られたことだろう。 一瞬苦笑を浮かべ、けれども次の瞬間にははっきり笑顔を浮かべ、


「おかーさんに怒られちゃった・・・・・・。綾ちゃんは?」


 それに応じる綾乃もまた、苦笑を浮かべる。


「今度やったら携帯没収だって」


 そしてどちらからともなく笑い合う。

「福岡なんて、わたしは初めてだもん。いろいろ行きたくなっちゃって」

「あたしも。ここ田舎だし、都会ってどんな感じなのかなって」

「だよね。宮崎の都市部だって栄えているところはあったけど、みーんな福岡はすごいって言うもんね」


 と言いつつ、目の前に二メートルほどの塀を見つける。コンクリート製で幅も20センチほどあった。笑みを浮かべ、素早く駆け出す。勢いのまま塀の縁へと手をかけ、よじ登る。


「愛希ちゃん」


 駆け寄り、心配そうに見つめる綾乃に対して「大丈夫大丈夫」と言わんばかりの笑みを浮かべつつ、塀の上からしがみつくような格好になる。下を見ながら慎重に身体を起こし、ゆっくりと塀の上で立ち上がった。


「行こう!」


 すこしふらつきながら、愛希は言った。対して、綾乃は不満げに頬をふくらませる。


「またそんなことして、危ないよ」

「大丈夫大丈夫。わたしは塀歩きのプロだもん」


 自信満々に言って、両腕を左右に大きく広げて歩き出す。


「もうー」


 呆れたように嘆息たんそくし、けれども綾乃も後を追うように歩き始めた。


「そういえば、綾ちゃんってさ・・・・」


 そしてふと疑問に思ったことを言葉に出す。

「将来の夢ってある?」

「どうしたの? 愛希ちゃん」


 心底不思議そうに小首を傾げる綾乃。当然だ。誰とも将来の夢について話したことはないし、今までの会話だって勉強のこと、クラスメイトのこと、先生のこと、家で見たテレビのことなど、当たり障りのない内容だ。性格も正反対で、けれども何故かお互いに居心地が良い。そんな関係である。


「ケーキ屋さん、かな?」

「綾ちゃんらしいね!」


 右手で指パッチンして笑顔を浮かべつつ、愛希は心底納得する。


「今年のバレンタインデーで綾ちゃんが作ったチョコレートケーキ、おいしかったもんね」


 3年ほど前から愛希は食べさせてもらっているが、3年前はケーキとしての形をとどめず、2年前は味が薄く、去年は甘すぎて胸やけがした。


「まだまだだよ」


 綾乃は苦笑を浮かべながら謙遜する。


「すごいって! 失敗してもめげずにチャレンジしてさ、わたしだったら3日で飽きちゃう。綾ちゃんきっといいケーキ屋さんなるよ。わたしが保証する」


 と言いつつ、塀の上からピースサインと共に笑顔を向ける。偽らざる本音だ。努力は裏切らない。3年間積み上げたの成果を目にした愛希だからこそ、その努力の尊さを知っている。綾乃も、彼女にとってこれ以上ないほどの賛辞を受け、嬉しそうに表情をほころばせる。


「ありがとう」


「それで」と、綾乃は言葉を紡ぐ。


「愛希ちゃんは夢、あるの?」

「分かんない」


 即答すると、綾乃は呆然とした表情浮かべ、その場で立ち止まってしまう。当然の反応だなと肩を竦めつつ、愛希もまた塀の上で立ち止まる。


「ごめんごめん」

「あ、えっと・・・・・・」


 何かを言おうと綾乃が顎に手をやり、思案する様子を見せる。何だか悪いことをしている気になり、愛希は慌てた様子で、


「あ、ほら! お兄ちゃん今年の春から東京行ったって言ったでしょ?」

「あ、うん」


 と、途端に今度は心配そうな表情を浮かべる綾乃。「失敗したな」と冷や汗をかく。今は大分落ち着いたが、兄が東京に行ってすぐの頃は毎日のように「さびしい」、「さびしい」と綾乃に愚痴っていた。さらに外で遊ばず、ずっと引きこもるようになっていた時期でもあったので、内気な綾乃が無理して外に連れ出したほどだ。


「もう大丈夫だって!」


 両腕をぶんぶんを振り回しながら言うと同時に身体がふらつき、慌てて体勢を立て直す。途端、綾乃は呆れるような表情を浮かべた。心配されるよりは楽だと愛希は苦笑を浮かべ、両手をそれぞれの腰に当て、胸を張る。「心配無用」との自己主張だ。途端、綾乃はくすりと笑った。釣られて愛希も笑い、また歩き出す。


「お兄ちゃんは、弁護士になるんだって」

「すごいね・・・・・・格好いい」

「うん、ほんとだよ! 正義の味方だもん」

「そっかー。愛希ちゃんのヒーローだったもんね。王子様は別にいたみたいだけど」

「ぐがッ」


 予想外の不意打ちに、真っ赤になりながら奇怪な声を上げる。左腕をぶんぶんと振り回しつつ、けれどもどうしようもなく高鳴る鼓動をごまかそうと口を開き、


「なっ、なななななーーーんのことお!?」


 動揺して口調は壊れたように狂っていた。


「はいはい」


 心底おかしそうに綾乃はひとしきり笑い、気を取り直したように、


「あたしは元々、ケーキが好きだったから」


 綾乃は語り始めた。その表情は同い年の自分より遙かに大人びていて、それと同時に愛希の未熟さを浮き彫りにする。


「昔、テレビですっごく大きくて、綺麗なケーキが映っててね。ママに食べたいってワガママ言ったんだ」


 嬉々と語る綾乃に対し、愛希は渋い顔を浮かべた。夢が見つからない愛希にとって、彼女の姿は少し眩しい。


「そしたらママが頑張っておいしいケーキ作ってくれてね。それがすっごいおいしくて、あたしも作りたいって思ったのがきっかけだったかな」


 そうして、綾乃はケーキ屋さんを志すようになったのだろう。

 似たようなことは、愛希にもある。彼女の場合は「ヒーローになりたい」だった。小さい頃から兄と特撮ものばかり見えていた影響だろう。悪者がヒーローに討伐される。そしてヒーローはいろんな人を笑顔にし、救うことが出来る。夢物語であっても、憧れは禁じ得なかった。 

 とはいえ現実は違うと、11歳の彼女でも分かる。世の中は、勧善懲悪では語りきれない。正義が必ず勝つとは限らない。ニュースや新聞では殺人事件や政治家の汚職などが触れられている。汚れを知らない愛希にとっては想像も出来ない世界だ。兄は語っていた「見えているもの全てが、真実ではない」と。歴史の積み重ねは少なからず嘘の積み重ねでもある。その中で、少しでも正しさを増やしていきたいと、世の中で戦っていきたいと兄は笑顔をつむいだ。愛希は、戦いたいと思えなかった。そんな世界は、怖くてたまらなかった。


「格好いいなあ、綾ちゃんは」


 恐怖に立ちむかってまで紡げるほどの夢も、憧れるまま何よりも好きになれたものも、愛希はまだ持たない。「何をすればいいのだろう」と不安になる。とはいえ、不安がって落ち込むのは自分らしくない。拳を握り、強く天にかかげる。


「わたし、負けない。お兄ちゃんにも、綾ちゃんにも」

「意味わかんないよ、何言ってるの?」


 綾乃は容赦ない。時々突っ込みが激しく、胸にぐさりと来る。それでも負けるわけにはいかないと自らを鼓舞するまま塀から飛び降り、綾乃と並んで歩き始める。


「いつか、二人に負けないくらいビックな夢を叶えるよ」


 途端に綾乃は噴き出し、心底おかしそうなに笑いながら  


「愛希ちゃんらしいね。じゃあ、ワールドカップに出場だ」

「それいいかも!」


 サッカーも好きだ。いつも男子と昼休みにしている。世界中のすごいプレイヤーと戦えると思うと、わくわくする。


「それとも、宇宙飛行士?」

「それもいい!!」


 目を輝かせる愛希。綾乃は呆れたように苦笑を浮かべ、明るい表情で、


「それじゃ、あたしをケーキ屋さんとして愛希ちゃんの船で働かせて」

「まっかせろ!」


 それは愛希と綾乃の親友としての形だ。

 いつかは終わりを告げる、泡沫のような日々。その切れ端の一つだった。

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