アカシ

流上進

第一章 烙印

境界Ⅰ

 枕元に置いた目覚まし時計の音が大きく部屋にに鳴り響く。と同時に心地よい静寂の中で微睡まどろんでいた意識は急速に現実へと引き戻され、閉じたまぶた越しに、窓から差し込む日光の眩しさを感じ取った。

 彼女、小田桐おだきり愛希あきは「うーん」と小さくうなりながら目をこすり、身体にかけていたタオルケットごと上体を起こす。手を伸ばし、敷布団の近くでけたたましく音を鳴らす目覚まし時計を叩いて音を止めた。半径五センチほどの水色の円形、下側の左右には四角形の足がつけられ、上側にはオンとオフを切り返る黒いボタンが付けられている。愛希の姉美希のお古ということもあって見た目はボロボロだが、今日も役目を果たした。


「おきたくなかったぁ……」


 両腕を大きく伸びをしながら欠伸をし、愛希は嘆息する。百五十程度の背丈、短い黒髪に黄色のTシャツ、水色の短パンと寝巻まで動きやすそうな格好は彼女のお転婆てんばさを表している。だからこそその言葉は、いつだって外に行きたがる彼女らしくもない。


(いい夢だったのに……)


 周囲を見回し、そこがやはり自分の部屋でしかないことに気づき、改めてがっくりと項垂うなだれる。六畳の和室の上には薄桃色の絨毯じゅうたんかれ、愛希は部屋の奥側、窓の近くで布団を敷いて寝ていた。引き戸側には勉強机と椅子、真正面の押し入れはプラスチック製の収納ケースで敷き詰められ、彼女の服や日用品、漫画やおもちゃなどが入れられている。当然だが、夢の手掛かりとなりそうなものは見当たらない。仕方なしに顎に手をやり、思案する。何故だが今回は名残惜しい。どんな夢だったか思い出し、少しでも余韻にひたりたかった。同時に頬が熱くなるのが、内容は一切思い出せない。数分ほど粘っても徒労に終わった。脳に刺激を加えようと首を回したり、右手でぽんぽんと側頭部を小突いてみたが、ダメだった。


「しょーがない、うん!」


 沈みそうになりそうな気分を叱咤しったするように声を出し、立ち上がる。考えるより行動だと思考を働かせ、手慣れた手つきで布団を折りたたむ。畳み終えると次の目標だと言わんばかりに右腕をぶんぶんと回しながら歩を進め、引き戸を引いて部屋を出る。


(あ……)


 と同時に、愛希はあることに思い至る。

 今日の日付は六月十日。来週からは待ちに待った修学旅行だ。楽しみすぎて、最近は夜更かしばかりして昨夜は母に怒られた。


「なーんだ」


 夢の内容は、結局思い出せない。それでも彼女は笑みを浮かべた。前向きに、来週の修学旅行を一生忘れられない思い出にするぞ右手で拳を作って、天井へとかかげる。と同時に怒鳴り声のような音が脳裏を過り、反射的にしゃがみこむ。昨夜修学旅行の予定を立てるために夜更かしし、母に怒鳴られたことを思い出した。涙目になりつつ再度立ち上がり、周囲を見回す。

 目の前は空き部屋で、かつて兄が使っていたものだ。東京の大学に通うため一人暮らしを始めたのが三カ月前。それ以来、一度も会っていない。よく公園でサッカーやキャッチボールをしてくれた。「寂しいな」と心が沈みかける。

 いけないと首をぶんぶんと横に振って暗い気持ちを吹き飛ばす。兄のことは大好きだ。大好きだからこそ心配をかけてたまるかと両の拳を握りしめ、ぐっと力を込めて気持ちを奮い立たせる。意気揚々と隣の部屋の引き戸を引き、大きく開け放つ。


「おとーさん、おかーさん!」 

 声をかけつつ部屋の中を見渡すが二人の姿は見当たらない。あるのは和室の隅で綺麗に畳まれた布団二つと、衣装タンス、本棚などだ。たまには起こしたかったなーと唇を尖らせつつ引き戸を戻して、向かい側へと向き直る。


「おねーちゃーん」


 今度は姉の部屋だ。美希は中学三年生で、愛希の3つ上に当たる。


「おねーちゃーん!」 


引き戸の前で声を出しながらノックするが、反応はない。美希は朝に弱く、まだ寝ているのだろう。愛希は一度嘆息し、開き直る様に「入るよ!」と一際大きな声で引き戸を開けた。

 部屋の中に大股で踏み込むと同時、思わず引きつった笑みを浮かべる。美希の部屋が散らかっていたからだ。漫画や雑誌、教科書やスナック菓子の袋。家具の量や配置は愛希とほぼ一緒なので、何故こうもゴミ屋敷になるのだろうか。これはまた今週末も大掃除だなと苦笑を浮かべた。

 仕方なしにズカズカとゴミ山の中を歩き、うつ伏せで布団に突っ伏してる美希の前で座り込み、胡坐あぐらく。


「おねーちゃーん、朝だよー」

何時なんひいー?」


 気だるそうな、同時に枕に口を塞がれた影響か、くぐもったような声が聞こえた。


「六時」

「あと三十さんひゆつふん……」

「だーめ」 


 これもいつもの光景だ。だからこそ愛希も強行手段を使う。ゴミをどかしつつ、ゆっくりと美希の足へと移動。掛け布団をめくり、美希の裸足を両手で掴む。親指を動かし、かかとのあたりを思い切り押し込んだ。


「いっったあッ!?」


 途端に大声を上げ、掛け布団を跳ねのける勢いで足をジタバタと動かし、上半身を震わせる美希。母親から教わった秘伝の目覚ましだ。初めて教わった日から数えて早1年、ようやく美希を起こせるまでになった。


「やめてやめてやめてやめて!」

「起きる?」

「起きるからッ! すぐ起きる。だからね勘弁してッぎゃあッ!」


 大変申し訳ないと思うが、愛希は意外と楽しんでいる。姉妹仲は良く喧嘩けんかほとんどないが、いつも愛希が主導権を奪われ、いじられている。だからこそ、美希が抵抗一つなく要求を飲む様は痛快だった。


「しょうがないあ……」


 と言いつつも、さらに親指へと力を込める。

 余談だが、愛希が押したツボは生殖器と対応しており、生理不順や生理痛と関係が深い。その点は小田桐美希の悩みの一つであるが、夜更かしばっかりしている彼女の自業自得でもある。

 そうして、小田桐家には今日も元気な苦痛の絶叫が数分間鳴り響いた。


 ・・・



 居間では木製の長いテーブルを置かれ、その上に桃色のテーブルクロスが敷かれていた。愛希は背後のキッチンから響く母の声に元気よく答えながら、手際よく料理を並べていく。まずは豆腐と滑子の入った味噌汁を運び、次は焼き魚と卵焼き、梅干しが置かれた皿を配り、炊き立てのご飯は母がお櫃ごと持ち出し、中央へと置いた。


「愛希ちゃん!」

「うん!」


 答えると同時にすぐさまキッチンに移動する。まずしゃもじを一つとお箸を五人分回収し、今までと同じくトレーに乗せる。次に食器棚に移動し、慣れた手つきで五人分の茶碗をトレーに重ねたところで、自らの失敗に気づいて苦笑を浮かべる。


「いやー、愛希ちゃんは妹なのにしっかりもので助かるわねー。ね、美希ちゃん」

「うっさい。ママがあんなもん仕込むから、今痛いの、涙出てんの、歩けないの」

「お嫁行けないわよ。イケメーンが好きなんでしょ」


 家族のやりとりに苦笑しつつ、「兄はもういない」と再度自らに言い聞かせた。物心ついてからずっと手伝ってきて、ずっと五人だった。まだ、その空白に慣れていない。


「あたぼうー。イケメン好きで何悪いの。面食い上等ー」

「あんたさー、そんなんだと駄目な男に引っかかるよ。ね? お父さん」

「確かにな。顔が全てではない・・・・・・な」


 一人分の箸とお茶碗を抜いたところで愛希はキッチンからリビングへと向き直り、苦笑を浮かべる。LDKの間取りの内キッチン部分のみがフローリングで、テーブルの置かれた六畳程度のスペースは畳だった。奥の窓際にはテレビが置かれ、美人アナウンサーが今日のニュースを紹介している。眼鏡をかけた細身の男性、一家の大黒柱である父小田桐昭鷹は新聞を見ながら、マイペースに言葉を返している。その隣、ボブショートカットに小柄な身体の母、小田桐由希が座り、真向かいにはくせ毛のショートカットに細身の身体、藍色が基調のセーラー服を着込んだ美希が座っている。


「ねえー、あーちゃんはどう思う?」

「何が?」


 キッチンから戻ると同時に声をかけられた愛希は思わず言葉を返す。格好いい男の人は好きだが、美希ほど夢中になる理由が分からない。むしろテレビを見る際、番組で好きなイケメン俳優が出るたびに奇声を発して喜ぶ美希に対し、いつも戸惑っている。人は外面だけでなく、内面も含めてだと思う。


「だからー」


 テーブルの端を指でパタパタと叩く美希を尻目に箸を配り、おひつの蓋を開いた母にしゃもじと茶碗を一つ渡す。慣れた手つきで母がご飯をよそい、それを隣の父が受け取り、自分の前に置く。


「でも無理じゃない。だってあんたぐーたらじゃない。料理も掃除もできないでしょ」


 と、再度愛希が手渡したお茶碗にご飯を乗せつつ、由希が痛烈な言葉を浴びせる。


「ぐっ」と言わんばかりの表情で美希は背後に大きく蹌踉よろめき、かと思えばすぐさま「でもお!」と言って勢いよく身体を戻し、


「ぜっえええったいいるもんッ! イケメンで、お金持ちで、料理できて、掃除もできて、うちを一生養ってるくれるプリンス様」


 と、妹の愛希から見ても駄目人間全開の言葉をかます。


「いねぇよ」


 問答無用で切り捨てる母、


「いないな」


 そして視線は新聞から離さず、けれども話だけはしっかり聞いていた父の無慈悲なコメント。


「いないよ、おねーちゃん」


 そして最後、由希から渡されたご飯入りのお茶碗を美希の前に置きつつ、愛希も止めの言葉を放った。


「うーわー」


 声のトーンを下げ、あからさまにショックを受けましたと言わんばかりに暗い表情を浮かべる美希。冗談半分、本気半分といったところだろう。何より、これまで何度も繰り返してきたやりとりだ。今更落ち込むほどショックは受けまい。だからか彼女は仕切り直すように、「でもさ」と天井へと突き出した人差し指でくるりと円を描き、言葉を紡ぐ。


「なんでもさ、優れてるにこしたことないでしょー。そのへん、ママはどうなの?」

「そうさねー」


 腕を組みつつ、由希が「うんうん」と頷く。そして隣の昭鷹をちらりと見、ため息をつきながらコメントする。


「そりゃ、不満はたくさんあるわよ。家事できないし、家計も丸投げだし、話もつまんないし・・・・・・」

「えー・・・・・・」


 哀れむような瞳で、美希が昭鷹を見つめる。愛希もまたひきつった笑みを浮かべた。新聞を畳に置いた昭鷹は味噌汁を飲みつつ、こめからみのあたりが小さく痙攣している。


「でも、一所懸命っていうかさー。あたしのためにがんばってくれるかね。もう大好きー!

 ずーっと一緒よ!」


 と満面の笑みで言い、隣の昭鷹に抱きつく。


「やっぱ惚気のろけじゃーん」


 ため息とともに美希が発したのは呆れであり、不満であった。初めての会話ではないし、分かりきった展開である以上、茶番にも等しい。いずれにせよ、由希からは二人して耳にたんこぶが出来るほど聞かされた話である。


「あー、パパ真っ赤」

「ほんと」


 けれど、何度も繰り返したやりとりの中でも昭鷹の反応だけ面白い。今日は真っ赤になているが、昔はその場で味噌汁のお椀を落として由希に怒られたり、硬直して瞬きすらしなくなっていた。


「あ、ありがとう」


 けれども、父は最後に必ずそう言う。恥ずかしそうな、けれども心底嬉しそうな顔で思いを伝える。はっきりと言われると怒っていようが、喜んでいようが関係なく、由希もまた真っ赤になる。夫婦生活を初めてもう二十年になるが、初々しい気持ちを忘れないからこそ、二人の中は円満なのだろう。だから愛希も自然、もし大人になって結婚するのなら、自分の両親のようにちゃんと心をつなぎ合わせて行きたいなと思う。それは美希も同様で、呆れるようでいながら、どこか安心したような表情を浮かべていた。

 いつもの光景に愛希も笑みを浮かべ、左手に持ったお茶碗から白米を箸で運ぶ。一口食べ、咀嚼した。温かく、少しだけ甘い味。生まれた時から食べてきた、何よりも親しんだ味だ。

 今日もまた、いつもの日常が始まった。

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