第7話 パンと美術館

 次の日曜日。

 築三〇年は過ぎていると思われるぼろアパートの前にエリハは立っていた。

 錆びだらけの外階段を上がり、そのまま解放廊下を通って目的の部屋の前で立ち止まった。少しの間、部屋の様子を伺っていたが、中に人がいるらしいことがわかると笑みを浮かべた。薄い合板のドアをリズムよく叩く。

 来訪者が誰なのか確かめもせずにドアが開いた。ジーパンとバンドカラーのシャツ姿で食パンをくわえたまま顔を出したコウはエリハと目が合うと一瞬動きが固まった。

 エリハは、何もなかったような明るい声でコウに話しかける。


「おはよう。ねえ、貴方は今日暇なんでしょ。街まで一緒に出かけません? まあ、貴方に断る権利はないですけど。この前のこともあったので、一般的な女子高生的な誘い方で命令しているのですけどね」


 ワンピースを着たエリハは、春風のような爽やかな笑顔だった。その可憐な姿を目にしてコウは思わず顔を赤らめた。喋ろうとするがパンを口にくわえていたことを思い出し口ごもる。


「ぼうっとしてないで、おはようぐらい言いなさいよ」エリハはコウの口から食パンをかすめとった。そして口のついていないところを三口かじるとコウの口に再び食パンを返す。「外で十分だけ待ってあげるから、急いで身支度を整えて出ておいでなさい」


 エリハはコウの都合なんて聞くつもりはなかった。それだけ言うと軽い足取りで階段をかけ降りていく。

 コウはぼやきながらもちゃんと十分で外に出てきた。

 まだ調子がつかめないという表情をしているコウにエリハは顔を近づけ人差し指を眼前で突き立て宣言した。


「突然ですが、今日は私に付き合ってもらいます。しっかり護衛もお願いします」


「確かに護衛をする約束はした。でも、護衛されるべき人がノコノコと一人で出向いてきてもいいのか。しかも、約束(アポ)なしの突然の訪問だ。もし、自分が不在の時はどうするつもりだったんだ。電話くれればこっちから行ったのに」


「心配しすぎ。この辺りは宇宙局の皆さんがすでに探索済み。もうこの近くにはいないと報告は受けている。それに襲撃されるときは襲撃されるものなの。ほら、こうしてちゃんと無事についたでしょ。そんな話はいいから行きましょう」


 エリハはコウの腕を持ってさっさと歩き始める。


「どこに行くかまだ聞いてないよ」


「大丈夫。これから相談して決めるんだから。まずは歩きなさい」


 二人はとりあえずショッピングモールや文化施設が点在する繁華街へと足を向けた。

 初夏の始まりを告げる日差しと乾いた空気、繁華街に通じる広い歩道には楽しそうに会話しながら行き交う家族連れやカップルの姿も多い。

 エリハも歩きながらありったけの身の上話をコウに聞かせた。しっかり者であり統治権限保有者の母、母の従者でもあり、優柔不断だが思慮深い父親、エリハの方が向いているからと太陽系統治権限継承権を譲ってくれたライバルでもありよき理解者である姉、太陽系統治権限保有者としての生活ぶり。自分が“星を動かす者”と呼ばれる能力者であること。そして、その能力は女性にだけ遺伝して継承されていくことに対しての私見など、地球人には気軽に話せない内容だけに安心して話せるコウの存在はエリハにとって嬉しかった。

 コウも最初の気後れはどこかに消えて地球に来て驚いたことや楽しかったこと、東銀河帝国私設警察官になってからの武勇伝をエリハに面白おかしく語る。

 一緒にいて楽しい人とエリハは感じる。もう少し仲良くなってもいいかもしれない。いや、もう少しだけ近づいてみたいと思った。


「貴方って呼び方も窮屈です。これからはコウと呼ぼうと思うのだけどいい…?」


 エリハは立ち止まり頬を染め少し俯きながら小声で言った。


「いいよ。俺は君のことをお姫様って呼べばいいのかな」


「エリハでいい。友達も両親もそう呼んでいるから。コウは家族に何て呼ばれているの?」


 コウは少し困った表情を浮かべてしばらく黙っていた。


「家族についてはちょっと話したくない・・・」


「ごめんなさい。私、変なこと言っちゃった?」


 コウは自分の家族について触れられたくないようだった。予想もしなかった言葉に力なくうつむいた。

 そんなエリハの姿を目にしたコウは慌てる。


「気にするなよ。そう深刻な話じゃないんだから。それよりもどこにも行く宛がないのなら美術館に行かないか」


「繁華街を抜けた所にある市立美術館のこと? 賛成。じつは一度も行ったことがないんだ」


「あそこに展示されている絵の中に一枚だけ東銀河帝国の王室から寄贈された絵があるんだぜ。もちろん公にはされていないけど。それに俺はその絵がけっこう好きなんだ」


「コウに美術を愛する心があったなんて驚きなんですけど」


 エリハは少しだけ皮肉を込めた。


「エリハは一言多いなあ」


「その言葉、よく言われる」


 二人は一緒に声をあげて笑う。


「じゃあ、決まりだね」


 繁華街を抜けて緑地公園内にある美術館に着いた。意外にも幼児を連れた家族連れが多い。美術館前のよく手入れされた広場を目当てに訪れたのであろう。二人は入場券を割り勘で購入すると館内に入った。

 二十五年前に建てられた建物にしては手入れもゆき届いており、古さは感じなかった。

 展示されている絵画を見ながら順路に沿って足を進める。二人はいくつかの小部屋を通り抜け一番最後の部屋に入ると身長の二倍ほどもある大きな絵画の前に立った。その絵は館内で一番派手で豪華にみえる額縁で飾られていた。

 コウは得意気に話し始めた。


「これがそうだ。東銀河帝国前王女から地球に贈られた絵だ。真ん中に描かれた天使に踏みつけられている人々。天使の周りを飛び回る羽の生えたロケット。意味深だろ」


「ふーん。で、何を表現しているの」


「たぶんそのまま。何も比喩的な表現していない。いや。もしかしたら、前王女は地球人に軽い屈辱感を与えるような絵をわざと描かせたんだと思う。当時の彼女は帝国版図を広げることしか興味を持っていなかったからね。きっと、絵を寄贈するという面倒くさい仕事を増やした腹いせじゃないかな」


「しかも題は……征服者! 悪趣味ね。そうだとしても、もう少しウィットに富んだ作品を贈ってくれればいいのに」


「帝国王室の悪趣味ぶりはよく知られていることだよ。ふつう何か寄贈してくれなんて誰も頼みやしない。地球じゃ突然東銀河帝国領に組み入れられ、しかもほぼ同時に帝国遺産惑星に指定されちゃったから、ついご機嫌取りにお願いしちゃったんだろうけど」


「私も一年前に王室の人に会ったことがあるけど確かに悪趣味ね」


 コウはその言葉を聞いて表情が強ばった。


「えっ、もしかして」


「ディーパよ。知っているでしょ」


「よーく知っているよ。王室の中でただ一人容姿を公にしている人だよね。・・・もう外に出ようか」


 コウはその話題はもういいよという感じでエリハの手をつかんで強引に引っ張りその絵から離れた。

 エリハはコウの態度を不審に思ったが、成り行きとはいえコウと手をつないだことに気を取られ心臓がキュッとなる。

 コウに言われるがままに足早に外に出た二人は食事をしに繁華街に戻ることにした。

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