第42話 唯一無二

 

 

 アロイスはノワールの領地と伯爵位を与えられることが決まり、授爵のためにパトリスを伴い王都に赴くことになった。


 出発する前の晩に、アロイスは変わり果てた自分の姿を私に見せる決断をした。


 私は金色の長い髪を結い、彼から贈られた美しいドレス――薄荷色ミントグリーンに蔦模様の柄の緞子ダマスク織のデコルテ――を着て、おずおずとアロイスの待つ居間に入って来る。

 窓際に立って夜空に浮かぶ月を眺めていたアロイスは、振り返って私を見た。


「アロイス!」


  海緑色シーグリーンの大きな瞳に涙を浮かべた私が、アロイスに駆け寄りしがみつく。

 アロイスの紅い瞳が見開かれる。


「わ、私、もうアロイスに会えないのかもって、思って……」


 不死者に成り代わった彼を、何の躊躇見なく腕の中に飛び込んで来た私に驚いて一瞬ためらう。

 それから泣きじゃくる私の背中に手を回し、優しくさすった。


「ソフィ、僕は」


 血の通う温かな私を抱きしめると、彼の鼻腔に草原に咲くモカル草のような爽やかな香りが広がり、アロイスの吸血本能は耐えがたいほど高まった。

 強靭な意志の力で私から身体を引き離すと、血を欲して伸びた牙を隠すように手で口を覆った。


「どうしたの……?」


 怪訝な顔をして彼を見みる私の瞳に、不死者のアロイスの姿が映る。

 蒼ざめた白い顔、白銀の髪、真紅の瞳の……。


「――僕は、もう怪物になってしまった。こうしている今も、君の血が欲しくてたまらない。君の首筋に咬みつきたい衝動を抑えているんだ。だから、僕から離れて――」


 すると私は、柔らかな腕をアロイスの首にまわし、彼の胸に顔を埋めた。


「私の血があなたを生かすのなら、どうかそうして」


 アロイスは私を掻き抱くと、首筋に牙を当てる。

 私の心臓の鼓動が大きく鳴り響いているのを感じながら、彼は目を閉じた。

 気づけば、するどい牙が柔らかな皮膚を突き破るのを感じた。

 口の中いっぱいに広がる、芳醇で甘い彼を生かす熱い血潮、命の水、力の源。

 閉じた瞼の奥に、もう見ることのない青空が広がり、世界樹の木陰に座る私が見えた。

 

 ――失くしたと思ったものがここに、ソフィの中にあったんだ。僕たちの故郷、懐かしい人たち……。


 彼を養う血と共に、私の感情が流れ込んでアロイスの傷ついた心を優しく包み、癒していくような気がした。


「アロイスが生きてさえいてくれれば、それだけでいいの」


 不死者の耳に優しく響く声。

 紅い血の涙が止めどなく、彼の頬を伝って落ちる。

 私の血が彼の中を駆け巡り、身体が熱く燃え上がるようだった。


 アロイスは静かに決意していた。

 これからは残された私とヴィーザルの民たちを、どんなことをしてでも守って行こうと……。


 ゴブラン織りの長椅子に私を座らせ、その隣に座るとアロイスはこれからのことを話した。


「助かった村の子供たちは、このクレモンの城下町の孤児院に入ることになった。あの子たちが成人して自立できるよう、手を尽くすつもりだ。

 ソフィはこの城にいて欲しい。君が居れば僕は、人の心を失わないでいられる」


 私が頷くとアロイスはほっとして続けた。


「必要なもの、欲しいものがあれば何でも言って。

 それからヨハンを君の使用人、従僕としてつけるから、面倒を見てやってくれないか?

 ヨハンが僕の弟だということは、公にしないつもりだ。

 僕の庇護のもとで、出来るだけ自由に生きて欲しいから……もちろん、君も」


 さらに私たちは話し合い、孤児たちの中でヨハンに次いで幼いアンヌも私の側に置くことにした。

  

 

 翌日、日没と共にアロイスはサシャ王たちと長距離移動用の馬車に乗り出発した。

 馬車を引くのは、八本の脚を持つ神馬スレイプニルだ。


 王都に至る旅の途中、王の一行は近隣の領主の城に立ち寄り歓待された。

 アロイスは、王より領主や高位の聖職者たちに紹介された。

 新ノワール領主として挨拶し、今後の有事の際にはお互いに連携して助け合っていくことなどを約束する。


 サシャ王の統べる王国は、それぞれの領地を支配する特権を臣下に与えられている。

 爵位は領地の支配権に紐づけられた称号であるので、アロイスは今後ノワール伯爵を名乗るのだ。


 美丈夫の領主はにこやかに、取って置きの特別にブレンドされた血を瓶からゴブレットに注いでアロイスに勧めた。


「人は脆い。魔獣達から守ってやっても、すぐに流行り病や災害、飢饉などで大きく数を減らしてしまう。

 だが我々が力を合わせてすれば、一定の成果を出すことが出来るでしょう」


「僕の領地では、しばらく前に疫病が大流行しました。色々ご教授いただければ幸いです」



 またある領地では絶世の美女が治めていた。

 王の一行が滞在することに、この上もない名誉なことと歓びまた怖れ畏まっていた。


「陛下が新たに子供を作るのは随分と久しぶりなのです、ノワール伯爵」


 月夜に女侯爵と共に城の中庭の薔薇園を散策しながら、彼女の話に耳を傾ける。


「そうなのですか?」


「貴方はまだお若いですが、与えられた王の血によって年を経るごとに力を増していくのを実感されることでしょう」  

 

 


 やがて一行は、大陸の屋根と呼ばれる山脈を街道に沿って進み、王都を望む展望台に辿り着く。


 そこで小休憩を取ることになった。

 パトリスが扉を開けると、護衛騎士が馬から降りて駆け寄り、馬車に折り畳み式の階段を取り付けた。


 アロイスが馬車から降りて進むと、そこは切り立った崖になっていた。 

 

 夜空には煌々とした満月、そして眼下に広がる巨大なメトロポリス。

 王都は三重の都壁によって魔獣達から守られていた。

 第一の壁は畑や果樹園、牧草地と村人たち。第二の壁は都街、第三の壁は王城と大聖堂を囲う。


 都の中心にあるのは、いくつもの尖塔が立ち並ぶ王城と大聖堂、そこから放射線のように街路が伸びている。

 家々の窓から零れる灯火が、無数の星のように輝いていた。 


 不意に空が陰る。

 見上げると、遥か上空に悠々と飛ぶ巨大な竜が中空の満月を横切っていく。


「あれはニーズヘッグ、古代竜だ。死者の岸ナーストレンドを行き来する、と言い伝えられている」


 真紅の飛竜の皮膜を鞣したマントを翻したサシャ王が、いつの間にかアロイスの隣に来ていた。

 魔力で跳ぶ古代竜は翼を広げ長い尾を揺らめかせつつ、夜空を泳ぐようにゆったりと移動していった。

  


 王都入りすると冥界の女神ヘル教の頂点、教皇でもあるサシャ王を熱狂的に迎える信者たちが街路地に溢れた。


「王国の偉大なる月、サシャ王陛下、ばんざい!」

「おかえりなさいませ、冥界の女神ヘルの御子、サシャ王陛下!」



 アロイスの王都での日程は、過密スケジュールだった。


 大聖堂ではミサが開かれ、アロイスはサシャ王から直々に洗礼を受け、ヘル教の使徒となった。

 その後、王城で授爵式と騎士の叙任式が行われた。


 これによってアロイスは、ノワール領を支配する特権を王の封建的臣下として承認され、ノワール伯爵を名乗る。

 またノワール騎士団の団長も兼任することになっていて、叙任式ではパトリスと共に王に剣を捧げた。

 副官のパトリスは、ノワール騎士団の副団長となった。


 さらに王城で盛大な晩餐会が開催され、おびただしい数のたちが招かれた。

 アロイスはここでも顔を売るために、積極的に外交をするように王よりアドバイスを受けていた。


 不慣れな新伯爵のために、王命で大司教の一人が彼に付き添った。

 大司教は、アロイスを次々に高位の貴族に引き合わせていく。

 美男美女の貴公子や姫たちは、眉目秀麗な新伯爵を好意的に受け入れたように見えた。


 そうした晩餐会の後で、大司教はアロイスに政略結婚を打診してきた。


「これは領地を治める上で、強固な協力関係を得るために必要なことなのです。

 なに、あまり深く考える必要はありません。契約結婚ですから期限も決められます。

 大抵は百年間ほどに区切って婚姻を結びます。

 普段はそれぞれの領地にいて自領を治め、年に二回程相手の領地を訪れ数週間ほど滞在して交流するのが一般的です。

 契約については教会が間に入り、こと細かく話し合いをして決めていくのですが……」


 あからさまに嫌な顔をしたアロイスに、大司教は口を噤んだ。


「僕は政略結婚など、する気はないんです」


 アロイスは彼の意志に反して、許嫁の私を裏切ることを怖れた。


「伯爵、これは高位貴族の義務ですよ。王の意向でもあります」


「なら、陛下に直接上訴します」


 大司教は呆れたように、肩を竦めた。


 

 ロートアイアンのシャンデリアが輝き、雪豹の毛皮を敷かれた私的な王の居間で跪くアロイス。

 謁見を申し込むと、さほど待たされずにこの部屋に通された。

 まだ寒い時期ではないが、暖炉には赤々と薪が燃やされていた。


 貂の毛皮の縁取りのある濃紺の天鵞絨のマントを身に着け簡易の王冠を頭に頂いた王は、威厳に満ち神々しいまでに美しかった。


 許されて暖炉の前の椅子に座ると、 古王国の王族の血ロイヤリティ・ブラッドゴブレットを勧められた。

 香しい血を飲むと身体が温まり、心も満たされていく。


「王都は気に入ったか? せっかくだから、パトリスと共にあちこち見て回るといいだろう」


 王は当り障りのない話から始めたが、気もそぞろなアロイスを見て単刀直入に切り出した。


「大司教から話は聞いている。特に見目麗しく有能な独身者を引き合わせるように言いつけてあったが、心に叶う者は居なかったか?」


「政略結婚は、ご命令ですか? 僕はそういう習慣がないところで育ちました」


「高位貴族の子の結婚は親が決めるのが一般的だ。其方のためにと思ってのことだが、まあよい。慌てることもあるまい。寿命から解放された我らの時間は、いくらでもあるのだから」


 アロイスはほっとして、胸を撫でおろす。

 そんな彼を、後ろからパトリスが気づかわし気にじっと見つめていた。


  

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