第28話 崩壊
奥の部屋から、うなり声と共に覚醒したばかりの変わり果てた姿のマルクが、こちらの部屋に飛び込んで来た!
二人の衛兵は、腰のベルトから吊るしていた剣を抜いた。
「ソフィさま、お下がりくださいっ」
奥の部屋の扉から一番近い場所にいたカサンドラに、マルクが襲いかかる。
カサンドラの肩を鷲掴みにして、首の付け根に情け容赦なく、かぶりついた。
「いやぁああああああ!!」
カサンドラは悲鳴をあげ続けているのに、その手を緩めることもなく、音を立てて吸血し続けている。
「マルク! 私よ! ソフィが来たの! お願い、やめてっ。カサンドラが死んでしまう!」
マルクは、あの崩落事故の時のまま、泥と血に汚れた自警団の制服を着ていた。
ただしその姿は化け物じみて、肌は老人のように干からび、目は深く落ちくぼんでいた。
カサンドラの血を吸うごとに、徐々に生気を取り戻していく。
「お願い、マルクを止めて」
私は護衛の二人に頼んでみたけれど、二人は黙って首を振った。
「無理です。
「何てこと!」
護衛の二人のうち、一人は壮年の手練れた衛兵で、彼はマルクをよく観察していた。
「あの男の腕に無数の傷が付いています。
――じゃあ、やっぱりルニエ商会の黒い噂通り、違法な手段で『貴族の血』を得ていたのね。マルク以外にも、犠牲になった者が居たのかも……。
ついにカサンドラの悲鳴が鳴り止んだ。マルクは、ぐったりとした彼女の身体を脇に押しやると、血濡れた唇を腕で拭い、呟いた。
「心臓が止まってしまった。この女からはもう、血が吸えない」
そうして、私たちを見た。次の獲物を狙う、ゾッとする捕食者の目で。
「まだ、全然足りない。もっと血を! 俺に、お前たちの血を寄越せ!」
「マルクっ! 正気に戻って!!」
マルクは四つん這いになったままの格好で、床から跳躍した。
「ソフィさま、危ないっ」
私に向かって飛び掛かって来たマルクを、若い衛兵が間に入って、剣を振るう。
衛兵の渾身の一撃が、マルクの右手首に当たった。
手首からスパンと右手が切り落とされ、床に落ちて転がっていく。
「ぐぁぁあああっ」
恐ろしいうめき声と共に、マルクは素早く床に落ちた手首を拾い、後ろに飛び退った。
おびただしい血が傷口から流れ、マルクは憎しみと苦痛に満ちた顔でこちらを睨んだ。
それから、切り落とされた手首を切り口に押し当てると、ぴったりと合わさるように動かして調節した。
傷は見る見るうちに塞がり、具合を確かめるように指を閉じたり開いたりしている。
「ちくしょう、覚醒したばかりの
年配の衛兵が呻いた。
「ここは戦うしか、ありません」
若い傭兵は決死の覚悟を決め、剣を構えたままマルクに突進した。
マルクは部屋に置かれていたどっしりとしたオーク材のキャビネットを掴み、傭兵に向かって軽々と投げつけた。
傭兵は、キャビネットごと壁に吹き飛ばされ、そのまま動かなくなった。
「キャァアアアアッ」
さらに、もう一人傭兵の剣を振り切り、その首を絞めた。
私は開かないドアを必死で叩き、助けを呼んだ。
「アロイス、助けてっ、アロイス――ッ!!」
アロイスは西の砦に居るのに。気づけば無意識に、泣きながらアロイスの名前を叫んでいた。
ゴトリ――。
マルクは年配の傭兵を床に放ると、ゆっくりと私に近づいて来た。
ここにいるのは、変わり果てた
空腹に我を忘れ、まるで狂った獣のよう。
真っ赤に光る瞳、大きく開けた口からは伸び切った牙が覗いている。興奮したり飢えた時に伸びる牙が。
次の獲物を私に定めたマルクは、一息に距離を縮め、そのまま私を床に押し倒した。
「いやぁ――っ!」
床に叩きつけられ、身体に衝撃が走る。背中を強かに打ち、呼吸ができない。
その私に、マルクは伸し掛かって来た。
がっしりした体格のマルクに体重をかけられ下肢を拘束されると、ほとんど身動きもできない。
いやいやをするように首を振りもがこうとすると、肩を抑えつけられた。
それから、マルクは私の首と肩の付け根の辺りを、思いっきり噛みついた。
「キャァァアアアアア!!」
あまりの激痛に、意識が飛びそうになる。まるで猛獣に噛まれたような痛み。
牙が身体の奥深くまで突き刺さり、容赦なく血を奪われていく。
彼は、私の血を一滴も残さず飲むつもりだ、と分かった。
身体がどんどん冷えて、手足が冷たくなっていく。
むせ返るような、強烈な鉄錆のような血の匂い。喉を鳴らして私の血が飲み込まれていく音。
私はもうすぐ訪れるだろう、死を悟った。
今日、私はここで死ぬ。このルニエ商会の屋敷の地下室で。
アロイスと、遠く離れたままで。彼はどんなに嘆くだろう。
絶望と諦念に心が真っ黒に塗りつぶされ、私はゆっくりと瞼を閉じた。
バーン!
突然、廊下側の扉が吹き飛び、それと同時に叫び声を上げながら、誰かが部屋に飛び込んで来た。
「ソフィ――!!」
「……アロイス!」
西の砦に居るはずのアロイスが、黒衣のマントを翻し銀髪を振り乱して、そこに立って居た。
彼は素早く懐から白木の杭を取り出すと、私に覆いかぶさっているマルクの背中から心臓を狙って突き刺した。
「ぐ、は……っ!」
警備隊長の鍛えられた身体が一瞬強く押し付けられた後、首の付け根に食い込んでいた牙が引き抜かれた。
それから、マルクは仰け反るようにして痙攣した。
おびただしい血が口から吐き出され、私の顔に降り注ぐ。
血の涙を流すマルクの瞳から光が消え、飢えと怒りに狂っていた顔が無表情に変わる。
そして、あっという間に崩壊が始まった。
皮膚は干からびてミイラのようになり、瞳は死んだ魚の目のように白く濁る。
砂色の髪はごっそりと抜け落ちて、私の頬に当たった。
私は恐怖と嫌悪感が込み上げ、思わず小さな悲鳴を上げていた。
アロイスが崩れていく遺体を退かして、私を抱き上げる。
私たちは、背中に杭が突き刺さったマルクの身体が煙を上げ、見る見るうちに白骨化するのを呆然と見つめていた。やがてその骨も、灰へと変わっていく。
「――大丈夫か?」
私は黙って頷いた。
同郷のマルクの成れの果ての姿に、涙が止めどなく溢れる。それを手で拭う気力もなかった。
「でも、あなたは、どうしてここに?」
「血の絆のお陰だ。僕は、君の強い恐怖と絶望を感じた。だから僕は、日没と同時に君の元へと向かった。僕たちの絆が堅固だったから、君のいる場所も感じることが出来たんだ」
アロイスは私をかき抱き「本当に、間に合ってよかった……」と呟いた。
西の砦まで馬で一日以上かかるのに、アロイスはこんな短い時間で移動できるのかと驚いた。
「アロイス、侍女と衛兵たちも居るの! 早く手当てをしないと」
私を守るために傷ついた人たち――どうか、死なないで!
彼は私を長椅子に座らせると、キャビネットの下敷きになっている若い衛兵を助け起こした。
「あばら骨が折れたみたいだが、命に別状はない」
続いて床に倒れている壮年の衛兵と、カサンドラの脈を調べ「生きている」と教えてくれた。
彼らが生きていると知り、私は思わず安堵のため息をついた。
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