第10話 儀式
部屋に帰るとアンヌは、私のために取って置きの入浴の準備をしてくれた。
普段の湯あみ――浴槽に座りお湯を掛ける――ものではなく、肩まで浸かれるほどのお湯が浴槽に張ってある。
魔獣から火魔石を得ているとはいえ、沢山のお湯を使うのは贅沢なことなので、普段は湯あみで済ませている。でも今日のように心身ともに疲労困憊した後では、アンヌの気遣いがありがたかった。
湯の中には今日収穫したモカル草の束を布の袋に入れて浸してあり、浴室に爽やかな林檎と新緑の香りが漂う。そのお湯に浸かれば、思わずため息がでた。
お湯の中で、緊張と疲労に強張った手足をそろそろと伸ばした。
両手首にはそれぞれ飾り輪が嵌められている。アロイスから貰った、守りの飾り輪。
「アンヌもゆっくりお風呂に入ってね。出たらヨハンにも声を掛けてあげて」
使用人の部屋には浴室がなく、お湯で身体を拭くしかない。
ふたりには、普段から内緒で私の浴室を使わせていた。
食事を済ませ、身支度をする。深夜の儀式に教会に行くなら、しっかりとした服装をしなければ。
アロイスは夜間の外出の許可をしてくれるだろうか。
絹の光沢のある青灰色のシンプルなドレスを選び、アンヌに手伝ってもらって髪を後ろ一つに纏めた。
それから化粧台の引き出しの中から、小ぶりの水晶の数珠を取り出した。
女神ヘルに祈りを捧げるとき、この数珠の水晶を一粒ずつ手繰って、一周させると成就に近づくと教会は人々に教えている。
コツン、と窓の方から物音がして振り返る。5階の
夜の中に、銀髪をなびかせた青白い顔のアロイスは、死の使いのように見えた。
急いで縦長の細い上げ下げ式の窓を引き開けると、夜風と共に細身のアロイスはするりと部屋に入り込んだ。
「どうして、こんな所から」
「この方が速いよ」
アンヌは一礼して、さっと部屋を出て行った。
「……良い香りがするね。モカルの花?」
アロイスは私の肩に顔を埋め、匂いを嗅いだ。
不死者は呼吸をしないのに、匂いが分かるのかしら。
昔、暖かな日差しの空の下で、モカルの花咲く草原を二人で過ごした幼い日々を、彼も懐かしく思ってくれるなら、私は。
「――あ、待って。アロイス」
彼の口元から覗く牙に気づき制止するけれど、彼はそのまま、私のうなじを咬んだ。血を吸われて、くらくらとめまいがする。
幻惑の力で痛みはなく、快楽だけが与えられる。
腰から力が抜けて、膝が砕け落ちそうになるのをアロイスが抱き留めた。
私を椅子に座らせると「今夜の儀式に、行きたい?」と聞いた。
「ええ、もちろん」
「なら、リゼットを同行させよう。儀式には他の騎士もニ、三人出席させる」
「夜は危険だ。日没後は城の中にいる約束をしたよね? どうしてもというなら護衛を付ける」
「ごめんなさい」
今日、彼との約束――日没までに城に帰ること――を破ったことを思い出し、謝罪した。
「僕は王都からの客人の相手で行けないが、代わりにソフィがマルクのために祈ってくれ」
アロイスは来た時と同じように、窓を開けて外に飛び出して行った。
取り残された私は、椅子にもたれゆっくりと息を吐いた。長い夜は、まだ終わりそうもない。
彼と入れ違いに、アンヌが私の嫌いなあの紅薔薇の実のジュースを持って入って来た。
◆◇
城から城下町の教会へ向かう馬車の中で、私とアンヌの向かいの席に女騎士リゼットが座っていた。
リゼットは窓から夜の街を眺めていたが、こちらに視線を戻した。
「警備隊長は、伯爵と同郷と聞いたが」
「ええ。私もヴィーザル村の出身です」
「ヴィーザル村の悲劇は、私も聞いている。気の毒だった」
「……ありがとうございます」
教会には深夜にもかかわらず、大勢の人々がマルクのために集まっていた。
マルクの知人以外に、神秘的な女神の御業をこの目で見たいという人々もたくさんいた。
私たちは、礼拝堂の入口で係の者から蝋燭を受け取り、地上階の礼拝堂椅子に座ったが、リゼットだけは決まりだからと上階の貴族席へ行くように促された。
リゼットから「帰るときは教会の外に出ず、入口で待つように」と念を押された。
クレモン城下町一の大教会の聖堂は、城の礼拝堂よりずっと大きい。
天井はドーム型で空間に広がりがあり、正面の奥の壇上は
内陣障壁には冥界の女神ヘルの像が安置され、その周りを飾るように
薄暗い聖堂内で、人々の持つ蝋燭の炎が揺らめいている。
こうして神に祈りを捧げるときには、魔石ランタンではなく、蝋燭が使われる。
人の手によってじっくり時間をかけて作られた蝋燭の灯りは、女神の憐憫を誘い、祈りを聞き届けてもらいやすいと信じられている。
零の刻になり、聖堂の鐘が鳴り響いた。
中二階の聖歌隊の厳かな歌声が上から降り注ぐ中、壇上の明かりが灯された。
魔法陣の上には、マルクが寝かされており、僧侶たちがその周りに膝をついて祈りを捧げている。
人間の司祭が講壇に上がり、聖句を読み上げる。
そして集まった人々に向かって、女神とサシャ王にマルクの
私は水晶の数珠を握りしめ、マルクの蘇生とその子供ジョスがどうか無事で成功して終わりますようにと、すべての神々に祈った。
壇上に、漆黒と真紅の金糸に彩られた祭服を来た司教マチアスが、ジョスを伴って現れた。
マチアスが
さらに柄に女神ヘルの象徴、三日月に薔薇をあしらった装飾の短剣で、マチアスは自らの手首を切った。
滴り落ちる血が、魔法陣を刻んだ御影石の窪みに流れると、床の二重の軌跡を描いた円に沿って筒のように青白い光が天井に向かって立ち昇った。
血濡れた手で天を指せば、
聖堂の中に
壇上に目を凝らせば、長身のマチアスが小さなジョスの首筋に牙を立て、その血を貪っているのがぼんやりと見えた。
周囲を見回せば、人々はこの光景に没頭し、すっかり魅了されている様子だった。
青ざめたジョスが、音もなく壇上の司教の足元に崩れ落ちるのに、気にする者は居ない。
次に司教は、冥界の女神ヘルの像へ向き、手を指し述べた。先程短剣で付けた傷は、すでに跡形もなく消えている。
司教の
人々のどよめきが沸き起こった。
椅子から降りて、床にひれ伏す者、泣きながら聖句を唱えるもの、立ち上がって呆然と女神像を見上げる者、中には訳の分からない言葉を叫び壇上に上がろうとして、僧侶たちに止められる者も居た。
人々の熱狂は、最高潮に達しようとしていた。
ここまでは、以前にも参列した
もうすぐ、もうすぐ終わる。人々の信仰心を掻き立てるための
それでもマルクたちさえ、助かればいい……あと少し。
――と、その時。地の底から這い出るような咆哮が、聖堂内に鳴り響いた。
不気味な黒い影が、床から染み出している。それはまるで怪物の影絵。大きな口にはギザギザの
未知との遭遇に、人々は戦慄してその場に凍り付いた。
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