第9話 対価
再び司祭が口を開いた。
「女神ヘルの奇蹟に
治療院の待合室のベンチに寝かされたマルクとその家族を、治療院の職員、他の患者と家族が固唾を飲んで見守っている。
「わ、私たちは、子供を対価にすることは、できません。この人も、それを望みません」
マルクの妻が小さな声で、司祭に告げた。
「――困りましたね。マルクは警護隊長で、この町に必要な人です。このまま亡くしてしまうのは、あまりにも惜しい。
彼は良き夫、良き父ではなかったのですか?」
司祭は静かに、マルクの妻に語りかけた。
「それは、もちろん! でも――」
マルクの妻を無視して、隣にいる子供の方を向く。
「あなたはまだ子供とはいえ、死の淵にいる父のために身を捧げる孝心はないのですか?」
マルクが首を微かに振り、母親は男の子の手を握って「だめ」とささやいた。
「ぼく、ぼくは――父さんが、死んだらやだっ。うわぁぁぁああんっ」
男の子がたまらくなって泣くと、司祭は満面の笑みを浮かべ、頷いた。
「女神ヘルさまは、そのひとり子サシャさまを我々人間を救うために手放し、この
それ故、神の御業である
マルクの息子の献身に、必ず女神さまは応えて
僧侶たちがマルクを担架に乗せた。
妻は呆けたように息子を抱き、その背中をさすり続けている。
「今宵、零の刻に大聖堂にて女神ヘルの奇蹟の儀式
女神ヘルとサシャ王、その使徒の奇蹟の証人となり、共に祈りを捧げようという方々は聖堂に集まって下さい」
司祭はその場にいる人々言葉に告げると、教会へマルクたちを連れて行った。
待合室で見守っていた人々は、ほっと息をついた。
「これでマルクも助かる。あの坊主は何年か、貴族に奉公することになるんだろうが、食い扶持だって浮くんだし、良かったんじゃないか?」
「だよなぁ。貴族に奉公したくたって、なかなか難しいし」
マルク一家が教会に移動するのと入れ違いに、救助活動を終えた警護隊の隊員たちが、マルク隊長の様子を聞きに治療院にやって来た。
隊員たちを労う言葉が、居合わせた人々から掛けられている。埃や泥にまみれ疲れ切った様子だったが、誰かがマルク隊長の蘇生の儀式の話をすると、気力を取り戻したようだった。
「隊員全員で儀式に参加して、女神さまとサシャに祈りを捧げよう」
「おうよ! 女神さまたちがマルク隊長を見捨てるわけないって信じてたぜ」
隊員達を複雑な気持ちで見ていると、
「お疲れさま。今夜の儀式は、参加するの?」
「……ええ、外出の許しがあれば」
「儀式が行われるのは、久しぶりよね。あなたが参加できることを祈っているわ」
ヨハンが窓の外が夕陽に染まっているのを見て、顔を引きつらせた。
「もう日没が……。はやく城に帰らないと」
「大変!」
慌てるアンヌとヨハンに、急かされながら外に出た。
陽は完全に沈んでしまい、辺りは薄闇に包まれようとしていた。レンガ造りの街並みに、明かりが一つまた一つと灯っていく。
私たちが焦っているのには、理由があった。
それは、町の治療院で働くことをアロイスに許可してもらう際に、日没までには必ず城に戻っていることを約束していたから。
日没後には余程のことがない限り、アロイスの元を訪ねる決まりになっている。
――きっとアロイスは、心配するわ。
ヨハンは馬車を取りに厩舎へ走った。
私とアンヌが治療院の前でヨハンを待っていると、ふいに門の周辺がそこだけ夜の闇が濃くなったような気がした。
「アロイス」
青ざめた月のような姿のアロイスが銀色の髪をなびかせ、芝生の上に立っていた。
今夜の彼は蒼銀の絹の上下の服の上に裏地も銀の紺のマントを羽織り、革のロングブーツを履いていた。
「ソフィ」
名前を呼ばれた瞬間、私は日没までに城に帰れなかった言い訳をありったけ考えた。
アンヌとヨハンが責められないように、と。
でも今は、それよりも。
「アロイス! マルクが――」
「マルクがどうした?」
私は急いでアロイスに、マルクの状態と儀式の対価について話した。
「――そうか。それで、ソフィはどうして欲しい?
「……! そんな」
思わず絶句してしまった。
「そうね……これはマルクの家族の問題で、私が口を出すべきことじゃないわ」
アロイスの淡々とした言葉で我に返る。
そして彼の冷静な態度に、寂しさも感じた。
マルクのことは、心配じゃないのかしら……。
村の人たちのことは、もうどうでもよくなってしまったの?
「城へ帰ろう。儀式が始まる零の刻まで、まだ時間がかなりある」
ここに来るときに、超常的な力を使ったであろうアロイスは、帰りは私たちと一緒に馬車に乗った。
馬車の中で、アロイスはアンヌに話しかけていた。
「ソフィから、アンヌがよくやってくれていると聞いているよ」
「……恐れ入ります」
アンヌはアロイスの真紅の瞳をまともに見ることが出来ず、俯きがちに膝の上に置いた手に視線を落としている。
「成人して何年になる?」
「三年になります」
この中原では、成人は十六歳だから、アンヌは十九歳だ。
ずっと側に居たアンヌが、もうそんな年になっていたのだと、あらためて気づく。
さらにニ、三の質問を重ねるアロイスに、同郷のアンヌを気に掛けてくれたことを嬉しく思った。
やっぱりアロイスは、ヴィーザル村の人たちのことを忘れたわけじゃない。
城門をくぐる頃には、辺りはすっかり暗くなり、
城を訪れる人々の馬車が次々にやって来る。
この城は夜にこそ賑わう。城の主と臣下たちが目覚め、客人たちが集まる。
馬車を降りると、副官のパトリスがアロイスを出迎えた。
「お帰りなさいませ、閣下。王都からの客人が到着しておられます」
「すぐに行く。――ソフィ、支度をしてゆっくり夕食を取るといい。後で逢いに行くから」
最後の言葉は私の耳元で小さく囁いた。アロイスはパトリスを伴って足早に去った。
パトリスはアロイスの後ろからついて行く前に、ちらりと私の方を見て睨んだ。
私のせいで客人を待たせたことを苦々しく思っているのか、アロイスが後で私に逢いに来ると言ったのが気に入らないのか、あるいは両方かもしれない。
やがて本館の大広間は、人々のざわめきと音楽で溢れるだろう。
そして城の庭には、騎士たちが今宵も討伐した魔獣が山と積まれ、祝宴には着飾った人々が祝杯をあげる。
宴には貴族も人間もいて、人間の食べ物やお酒も振るまわれる。
そして貴族の喉を潤すのは、見目麗しい人間、提供者の美男美女達だ。
この毎夜の宴に、領地から集められた美しい娘や青年たちが出席する。
彼らは花のように客たちの目を楽しませ、蝶のようにあちらこちらの客の間を縫って飛び交う。
この乱痴気騒ぎの中で、町の有力者たちも人脈作りや商売のチャンスを掴もうと虎視眈々と狙っていた。
――あの喧騒の中に、アロイスがいる。
領主の社交、他の貴族をもてなすのも彼の仕事だと分かっていても、穏やかな気持ちではいられなかった。
私から毎夕ごとにアロイスに与える血の量では、全く足りないのは知っている。
彼は他の長く生きている貴族に比べて、若過ぎる。多くの血で力をつけて行かなくてはならないのだ。
ヨハンが厩舎に馬を預け、戻ってくると私たちは西館へ向かった。
丁度その時、着飾ったルイーズを先頭に新しく来たばかりの提供者たちと行き会う。
ルイーズは私を見ると、鼻で笑った。
「ソフィ、そんな灰ネズミのような格好で歩き回らないで頂戴。お客様に見られでもしたら、この城の品位が落ちてしまうわ」
治療院で働く際には、私も
そして今の私は、汗とほこりに塗れ、くたくただった。
煌びやかな彼女たちに比べ、いかにもみすぼらしく見えた。
「あなたは、本館の宴に呼ばれていらっしゃらないけど、だからと言って夜の城を、汚らしい姿で自由にうろついていいわけではないのよ?」
ルイーズの言葉に、新参の少女たちがくすくすと笑った。
私は、逃げるようにその場を離れた。
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