第6話 冥界の女神信仰

 


 夜空に半月が昇った九の刻に、城内の礼拝堂の鐘が鳴り響く。


 青白い月の光がステンドグラスから差し込み、薄暗い礼拝堂の中を照らした。


 今宵は、月に一度のミサにあずかるため、毎週の聖日礼拝より多くの人が礼拝堂に集まっている。

 ミサの時だけ、城の礼拝堂を町の有力者たちにも開放していた。


 城の礼拝堂は吹抜けの二重構造になっていて半円形の内部空間は共有しつつ、上階が貴族席で下階が人間席に別れている。出入口も別々だ。

 正面の奥には冥界の女神ヘルの像が安置され、ライトアップされている。壇上には祭壇が置かれていた。

 

 中二階からの聖歌隊の歌が止むと、会堂の明かりが灯る。

 講壇に、裾の長い漆黒の祭服の上から真紅の法衣を着た司教が立った。


 マチアス・フレミー司教、彼はの聖職者で、教会の組織としてはアロイスの治める領地、ノワール教区の頂点にいる。

 背は高く薄紫の髪を真ん中で分け、片眼鏡モノクルを掛けている。見た目は三十代半ば位の男性に見えるが、もちろん実年齢は分からない。


 フレミー司教は、厳かに聖典を読み始めた。


「はるか昔、神々の最終戦争ラグナロクに、大地は割れ、海は荒れ狂い、津波が襲い掛かった。


 激しい戦いの末、多くの神々は斃れまたこの地を去って行った。

 死を司る女神ヘルは、冥界ヘルヘイムでこの様子を見守り続けた。


 残された大地ミズガルズは深く傷つき、大地の裂け目から恐ろしい魔物や魔獣達が出現した。

 国は滅び、残された人々は魔物達に蹂躙され、あるいは脅かされて苦しんだ。


 冥界の女神ヘルは、人々が今にも死に絶えようとしているのを憐れに思われた。

 そこで自らのひとり子、不死者であるサシャを残された大地ミズガルズに遣すことを決めた。


 サシャはミズガルズで自らの使徒となりうる者を人々の中より選び、魔物を狩るように命じられた。

 やがて国を興し、使徒の中から相応しい者たちに、領地を与え人々を正しく治めさせた」



 教会は昔から、冥界の女神の加護を受けたサシャ王と貴族たちが人々を支配する正当性を謳っていた。


 教義によれば、不死者アンデットの王サシャは、冥界の女神の『御子』だという。

 そしてサシャ王が眷属にした貴族たちを『使徒』と称した。


 人々は恐ろしい魔物たちから守ってもらう代わりに、冥界の女神ヘルを崇め、貴族の支配を受け入れて血を提供してきた。


 ヴィーザル村の生き残りの子供たちは――もちろん私も――改宗して、敬虔な冥界の女神ヘルと御子サシャの信徒の振りをしている。


 不意に、ヴィーザル村が焼け落ちた運命の日のことを思い出し、涙が込み上げた。


 私は思考から過去の記憶を振り払い、礼拝堂の席に座っている人々を観察することにした。


 上階に座っているのは、アロイスと騎士団の騎士たち、貴族だ。


 騎士は町の治安も守るけれど、魔物狩りこそが天職だと公言している。

 今夜の彼らは礼装用の華麗な騎士服を着ていた。

 騎士団の中にはリゼットのように女騎士もいて、男女ともに美形ぞろいだ。


 もしかして貴族は、美男美女でなければならないという決まりでもあるのかしら。


 アロイスは、ここからだと彼の後ろ姿の一部しか見えないが、暗い照明の中で銀髪が輝いている。その横には副官のパトリスがいる。

 騎士たちは、ピンと背筋を伸ばして司教の話を聞く者、あらぬ方を向いていかにも仕方なしに出席しているという風情の者もいた。

 

 地上階の最前列には、町長夫妻が並んで座っている。その近くには、町の有力者たちの姿が見られた。

 サニエ商会の会長とその妻、隣にルイーズもいる。


 各種ギルド長、そしてまだ歴史の浅い冒険者ギルド長も出席していた。

 冒険者ギルドとは、貴族が手を出すまでもない弱小の魔物を駆除するための人材を、有志を募って育成しようという試みから始まった組織だった。

 魔物の駆除以外にも、人々の様々な依頼に応える町の便利屋的な存在になっている。



 いつの間にか、説教が終わっていた。


 司教は、大聖堂に集まった人々に静かに告げた。


「これより、聖血拝領を始めます」


 聖堂内に、言葉にならないざわめきが起こった。


 私のような異教徒はともかく、ここに集った人々はみな女神ヘルを崇め、サシャを畏れつつ思慕している。

 このミサの恩恵に預かることを心から望んでいるのだ。

 隣に座っているアンヌとヨハンまでもが、瞳を輝かせた。


 祭壇の上に用意された大聖杯などに被せてあった白い布を、司祭が取り除いた。


 アロイスが上階の席より立ち上がり祭壇の前に降りると、シンと静まり返った礼拝堂に聖歌隊の妙なる歌声が流れ始める。女神ヘルとサシャを讃える歌だ。

 そして用意された真紅の薔薇ブラッディ・ローズを手に取り、額に掲げ、祈りの言葉と共に大聖杯の中に落とした。


「これは冥界の女神ヘルのひとり子、サシャ王の血から生まれた真紅の薔薇ブラッディ・ローズである。

 我々は、この呪われた大地から守り導く女神とサシャ王のことを忘れず、感謝してこの盃を飲むように。

 みだりにこの盃を口にするものは、ヘルの呪いとサシャ王の怒りを受け、死して後も永遠に地獄の業火に焼かれ続けることになるだろう」


 この聖杯に真紅の薔薇ブラッディ・ローズを入れる役目をアロイスが担うのは、彼が――貴族たちの言い方をすると、アロイスはサシャの子供だから。

 つまり、彼はサシャによって直接不死者アンデットにされた。


 伯爵以上の爵位の者はサシャの子供たち、子爵以下はサシャの子供たちの子となっている。


 会衆たちは礼拝椅子から立ち上がり、真ん中の身廊に貴族から一列に並んで、祭壇から盃を受け取り大聖杯の真紅の薔薇ブラッディ・ローズ酒を飲み干して行く。


 私の前にはまだ若い夫婦が並んでいて、妻が幼子を抱いてあやしていた。


 母親の肩越しに、ふっくらとした腕を差し出し無垢な笑顔を向けられる。

 気づけば羨望の眼差しで見ていた。私とアロイスには望めない未来に……。


 ようやく順番が来ると、助祭が大聖杯から小さな柄杓で盃に聖別された真紅の薔薇ブラッディ・ローズ酒を掬い、渡される。

 私は素早く飲み干して再び席に戻った。


 この聖杯の中の飲み物は酸味の強い紅いお酒で、予め鍋で沸騰させ、アルコールを飛ばしたもの。私が毎夕アロイスの元で飲んでいるものとほぼ同じだ。

 真紅の薔薇ブラッディ・ローズの実のエキスが入っていて、薬効は病気などへの抵抗力を高める作用などがある。

 この典礼では象徴的にこのお酒が使用される。本物のサシャの血が入っているわけではない。



「あなた方は今宵、まさにサシャの血を飲みました。

 それによって新たな身体を得、集まった会衆と信仰の絆が結ばれたのです。

 これよりのちは、サシャの民としてふさわしい生活を送られますように」


 全員が席に着くと、司教は締めの言葉を述べ、閉会を告げた。



 ミサが終わり、顔見知りの人々と短い挨拶を交して礼拝堂の外へ出ると、不意に誰かに肘を掴まれた。

 帰途に向かう人々の列から抜けて、脇へと連れて行かれる。


 驚いて見上げると、警備隊長のマルクだった。


「先日勾留した血の中毒者ブラッド・ジャンキーの女と売人が殺された。実はあれから、サニエ商会が『貴族の血』を売人に売り渡していると密告があったんだ」


 私は驚き、無意識にルイーズたちの姿を目で探していた。


 サニエ商会はルイーズの生家だ。

 今夜のミサにもサニエ商会の会長夫妻――ルイーズの両親が出席していたから。


「ここでは詳しい話はできない。日中、治療院で話そう」


 マルクが行ってしまうと、ヨハンたちが居ないことに気づいた。入口付近の人込みで、はぐれてしまったらしい。


 しばらくその場で動かずに待っていると、私を見つけたヨハンとアンヌが急いでこちらに来た。

 側まで来てからヨハンが「あ」と声を上げた。


「ソフィさま。カンテラを礼拝堂の椅子の下に置き忘れてしまいました」


「いいわ、一緒に取りに行きましょう。他の人の邪魔にならないよう、みんなが外に出てから、ね」


 人々が去った後の礼拝堂は暗く、ステンドグラスの窓から差し込む月明りだけが頼りだ。私たちは床に膝をついて手探りで椅子の下を捜した。


 手にランタンの柄が触れ、ふたりに「あったわ」と知らせた


 その時、かすかな話し声が聞こえてきた。


 ルイーズの声だ。


 私はふたりに向かって人差し指を唇に当て、声を出さないよう身振りで伝えた。


 話し声のする方向、礼拝堂の側面出入口へ、そろりと近づいた。

 段々声が、はっきりと聞こえて来る。


 そこは司教館に続く廊下になっていて、扉は完全に閉められていなかった。

 扉の隙間から覗くと、通路にルイーズとその両親らしきサニエ商会の夫妻と従者がいて、フレミー司教に熱心に頼み事をしている様子が見えた。


「……というわけで、娘は伯爵さまのものになり、誠心誠意お仕えしていたのですが、何かの手違いで今月いっぱいで契約終了を通告されました。どうか司教さまのお力で、伯爵さまのお側に侍りたいという健気な娘の願いを叶えていただけないでしょうか」


 フレミー司教は無表情で彼らの話に耳を傾けていたが、最後の言葉で首を振った。


「提供者の契約については、私の管轄外だ。私はサシャの使徒であって、女神とサシャの御心を遂行するのが務めです」


 すると商人の父親は、白金の髪プラチナ・ブロンドの少年を前に差し出した。


「もちろん、存じております。使徒であられる司教さまの慈悲深さには、私どもも深く感服している次第でございます。……これは、うちの商会で扱っている品でございますが、ご笑納いただければ幸いです」


 深々と頭を下げている三人の前で、司教は舐めるような視線を少年に向け、その頬に手を触れた。


 少年は胸元が広く空いた幅広の袖の繻子の上衣を着て、膝丈の脚衣からはほっそりした白い足が伸び、素足にサンダルを履いていた。

 華美と言っても良い衣装で着飾り、手入れの良さそうな白金の髪プラチナ・ブロンドはキラキラと輝いていた。


「ほう。これは、なかなか……の逸品」


「この様なを、またいつでもご用意いたします」


「分かりました。ルイーズの件は何とかしてみましょう。信仰深いご家族の上に、女神ヘルとサシャの恩寵が豊かにあらんことを」


 司教は頷いて、少年の手を取った。



 私はヨハンたちに合図して、静かに正面の扉へ向かった。

 何事もなく外に出られると、ほっとして思わず息を長く吐いた。


「すみません……」

「いいのよ」


 ヨハンに力なく答える。カンテラがないと足元がよく見えず、暗くて危ない。


 真紅の薔薇ブラッディ・ローズ城は、の城であって、人間のためのものではない。夜目の効くに合わせたのか、単なる節約か、照明が暗く感じる。


 でも今は、礼拝堂から十分離れるまで、カンテラの明かりをつける気にはなれなかった。


 私たちは、その場を足早に立ち去った。



 十分離れたところで、ヨハンが呟く。

 

「あの子、大丈夫でしょうか」


「さあ、分からないわ……」


 は闘争本能から『狩り』を好むと言われているけれど、マチアスは、騎士になるよりも聖職者を選んだ。けれど、聖職者になったからと言って、捕食者の本質が変わるわけではない。


「未成年者の血の提供は違法じゃないですか?」


 アンヌが首を傾げた。


「そうね……」

「アロイス様は、ご存知なのでしょうか?」


「アンヌ、ヨハン。ここで見聞きしたことは忘れなさい。

 アロイスは、複雑な貴族社会の中で、このノワールの領地を任されているの。

 ノワールに居る多くの貴族たちと数多の人間の、すべての責任をその肩に負っている」


 だから相当な理由なしでは、教区の司教と事を構えたりはしないはず……。


 ただ、さっきマルクから聞いた話、サニエ商会が『貴族の血』を密売しているという話が、気がかりだ。


「私たちは狩られる側なの。アロイスが守ってくれると、安心して気を抜いたらだめよ」



 私は見ず知らずの少年が貴族に搾取されようとするのを、見て見ぬふりをするようにふたりに諭した。


 残り少ないヴィーザル村の人々が生き残って、そして出来れば幸せになって欲しいという願いのために。


 せめて、私の元に居るアンヌとヨハンだけでも……。




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