追加シナリオ 魔法使いの助手(3)

 ようやく記憶が繋がった。と同時に、意識に掛かっていた靄のようなものが急速に晴れていく。

 (…そうだ。おれはあの時、何かされて、ここに放り込まれた)

起き上がって、彼は自分の両手を見下ろした。指は動く。立ち上がろうとすると少しふらついたが、どこも傷めてはいないようだ。光は細い窓から差し込んでいる。扉は鉄で、小さな覗き窓がついている以外、内側からはこじ開けられそうな隙間もない。

 部屋の中でどうしたものかと思案に暮れていると、その扉の向こうで、小さな物音が聞こえた。

 「…誰かいるのか?」

声をかけると、息を飲むような小さな音がした。ややあって、向こう側から押し殺した少女の声が聞こえてくる。

 「あなた、もう起きてたの」

 「その声…確か、ユルヴィの妹?」

 「ヒルデよ」

しばらくして、ガタガタと音がして扉の下から何かが出てきた。よく見ると、そこに食事を差し入れる用の隙間があるのだった。

 「飲まず食わずじゃ、死んでしまうかと思って」

盆に載せた水とパン、それにチーズ。大したものではないが、目にした途端に空腹を思い出して、ロードはそれをトレイごと部屋の中に引っ張り込んだ。

 「ありがたく頂くよ、麗しのお姫様。お慈悲に感謝する」

 「ま、お上手ね。でも出してはあげられないわよ」

 「…あれから、どのくらい経ったのかな」

窓から差し込む光を見上げながら、彼は訊ねる。この城に着いたのは、確か午前中だったはずなのに、光の加減からして、これは月灯りだ。

 「二日よ。丸二日。だから今日は次の日の夜ね」

 「二日?! でも…」

 「催眠術よ。ヴァーデ兄さんの得意な魔法。でも二日で気が付いたんならずいぶん早いわ。本当なら丸三日は寝てるはずだって話だから」

どおりで、見張りもいないわけだ。ドアの外の気配からして、少女は扉にもたれかかっているようだった。

 「ユルヴィはどうなった?」

 「……。」

僅かな沈黙がある。

 「ねえ、本当のことを話してくれないかしら? このままじゃユルヴィ兄さん、一生城から出してもらえないかも」

 「暗殺疑惑のことか?」

 「そうよ。それと兄さんが<王室付き>をやめて、今までどこで何をしてたのかってことと、これから何をしようとしてるのかってこと」

パンをちぎって水に浸しながら、ロードは言葉を捜した。

 「最後に会ってから今までのことは、おれも、あまりよく知らない。――だから、知ってることだけ話すよ。半年前、ノルデンがアステリアに攻め込もうとしてただろう?」

 「ええ」

 「その時、国境に近いフューレンの町にユルヴィも配置されていたんだ。ユルヴィは戦争のために魔法を勉強するのは嫌だと言っていたから、多分それで、<王室付き>にいるのが嫌になったんだと思う」

 「暗殺未遂はどうなの?」

 「全くの誤解だよ。おれと、別の連れとは――あの時、主席魔法使いのリドワンって人を説得して、戦争を何とか止めようとしていた。戦う気も、そんな暇も無かった。少し話をしただけだ。ユルヴィはたまたまそこで出くわしたってだけで、本当に何も関係なかったんだ」

 「でもあなたは、アステリア人なんでしょう?」

 「住んでる場所でいえばな。でも、アステリアのために働いたことはない。おれに出来ることが<影憑き>狩りで、だから<王立>の連中とも少し一緒に行動していただけ。ここのところ、<影憑き>が多かったからな」

 「信じていいのかしら?」

 「信じて貰えないなら仕方ないさ。」

中身を平らげた食器を元通りトレイに積み重ねたとき、扉の向こうで、小さく息をつく音が聞こえた。

 「…ユルヴィ兄さんは、今までお母さんやヴァーデ兄さんに逆らったことなんて一度も無かったわ。大人しくてバカがつくくらいマジメで、特にヴァーデ兄さんのことはとても恐れていて、面と向かって反論なんて出来なかった。なのに昨日は、どんなに脅されても決して折れなかったの。あんな兄さんを見たのは初めて。お母さんも兄さんも酷く怒って――。」

いつしか少女の声は、微かに震えていた。

 「どうしたらいいのか分からないの。このままじゃ、ユルヴィ兄さんはずっと閉じ込められたままで――。ううん、それどころか、もっとひどいことに」

 「あの後、何があったんだ」

返事はない。

 「おれに、連れ出して欲しいのか?」

 「分からない…でも、もし本当に、兄さんにやりたいことがあるっていうんなら、こんなふうに縛り付けちゃいけないと思うから…だから」

 「ユルヴィは何処にいる? 話をさせて貰えないか。あんたも一緒でいい。」

 「――だめ」

 「どうして」

 「悪いけど、勝手にここから出せないわ。」

ロードは、鉄の扉に額をつけた。覗き窓の外は薄暗く、ヒルデがどこにいるのかは分からない。かすかに、かびたような匂いがする。

 「頼む。少しでいいんだ。あいつの意志を確かめさせてくれ」

覗き窓の向こうに、少女の顔がちらりと見えた。

 「あなたたちは一体何を隠しているの? 戻ってくるまで何処で何をしていたのか、ユルヴィ兄さんは何も言わない。」

 「それは……言えない」

 「だったら、わたしもあなたを信用するわけにはいかない。」

白い腕がさっと向こう側から窓を閉ざした。足元の盆が引き上げられていく。

 「待ってくれ。おい…ヒルデ!」

扉の下の隙間から見えたのは、去ってゆく少女の足だけ。音が反響しながら遠ざかってゆき、やがて完全な沈黙が訪れる。

 ため息をつきながら、ロードは扉にもたれかかるようにして座り込んだ。あの様子からして、ユルヴィも何処かに監禁されているに違いない。一生閉じ込められることはないにしても、いつ、ここから出して貰えるのかは見当もつかない。

 (あの時のあれが、暗殺未遂なんて大事になってるとはなあ…)

彼は天井を見上げた。考えてみれば、確かに無茶をしたものだ。だがあの時は、無駄な戦いを回避しようと、ただ、夢中だったのだ。

 天井近くにある、細い窓から差し込む月明かりが床を照らしている。

 (…どうするかな)

ユルヴィの家族、母親と兄の様子からして、簡単に説得できるとは思えない。本当のこと――を話したところで、信じて貰えるとも思えなかった。壁に頭をつけたまま、じっと考え込んでいた。


 どのくらいの時間が経っただろう。背中のほうで扉が小さく軋んだ。


 「?」

顔を上げたロードは、目の前でそろそろと扉が開いていくのに気が付いた。錆びた音を立てないよう少しずつ、だ。十分に扉が開ききったところで、奥から少女が顔を出す。

 「これ着て!」

頭上から乱暴に投げかけられたのは、丸められた服の束だった。中から滑り落ちそうになったベルトに気づいて、慌てて宙で受け止める。服に見覚えは無いが、ベルトとそこに装填された投げナイフは、間違いなく自分の装備品だ。

 「どうして――それに、これは」

 「いいから、早く。時間が無いの。服を着て。兄さんのいる場所の見張りの交代時間まであと少しよ」

その渡された服は、広げてみると女物のだぶっとしたスカートだった。農家の奥さんが被るようなブルネットまで一緒だ。

 「……。」

 「誰かに見つかった時のためよ! わたしと一緒に歩くんだから、下働きの格好をしていただかないと困るわ」

 「また…変装か…。」

服を広げながら、ロードは思わず笑みをこぼした。

 「何?」

 「いや、前に町を脱出するのをユルヴィに手伝ってもらった時も、変装をしたなって思い出してさ」

ヒルデはちょっと眉を寄せたが、それ以上は何も聞いてこない。話している時間はないということだ。手早くスカートを身につけ、ブルネットを被る。

 「これでいいか」

 「ええ。…意外とお似合いよ、予想していなかったけれど」

 「そいつはどうも。あんまり嬉しくないけどな」

ロードが頭を屈めながら牢の外に出ると、ヒルデは手早く鍵を閉めた。

 「明日の朝までは誰も見に来ないはずよ。あなた、まだ催眠で眠っていると思われてるから。こっちよ」

先に立って小走りに歩き出すヒルデの後ろを、ロードは、スカートに足をからませないよう気をつけながら追いかける。

 「…どうして急に、気が変わったんだ。」

 「変わったわけではないわ。試したのよ。泣き叫ぶか、自分だけ助かろうとするような人なら、こんなことしなかったわ。」

口に指を当ててロードを黙らせると、ヒルデは廊下の先をそっと覗き見た。コツ、コツと足音が遠ざかってゆく。使用人が通り過ぎるのを待って、彼女は足音を忍ばせて素早く向かい側へ渡ってゆく。その手馴れた脱出ぶりは、良家の令嬢とは思えないほどだ。

 「さっき、ユルヴィ兄さんにも変装させられたって仰ったわよね」

 「ああ。でもそれは、フューレンじゃなくてシュルテンでのことで…」

 「兄さんは、楽しそうだったかしら?」

壁に背を張り付かせたまま、少女は上目遣いにロードを見た。

 「小さい頃、よくこんなふうに兄さんと城の中を探検ごっこしていたのよ。誰にも見つからずにどこまで行けるのか、なんて。わたしは冒険の旅に出るのが夢だった…誰も知らないどこか遠く、見たことも無い風景。お伽噺の中の世界に憧れて…。でも、いつのまにかそんな話は、全然しなくなったわ」

行く手に狭い渡り廊下が見えてきた。薄暗い廊下の先は、階段になっているようだ。

 「兄さんが本当になりたかったものは、作家なの。ご存知だった?」

 「いや。でも、それなら何となくわかる。――ユルヴィは本を書きたがっていたから。」

 「どんな本?」

 「賢者の本。”風の賢者”についての本を…」

少女は、輝く目で降り返った。

 「そう、じゃあそれが、ユルヴィ兄さんのやりたいことなのね!」

 「かも…しれない」

 「きっとそうよ。兄さんらしいわ。”三賢者”なんてお伽噺、今も信じてるなんて」

 「……。」

 「この先よ。」

狭い階段の前で足を止め、彼女は息を潜めて頭上の様子を伺っている。階段は螺旋状にはるか上のほうまで続いている。

 「見張りは何人?」

 「普段は二人よ。でも、今なら一人になってるはず。さっき一人通り過ぎたでしょ。交替を呼んでくるはずよ」

 「なるほどな」

ロードは、ヒルデの先に立って階段を上がっていく。灯りが揺れた。小さな扉の前で欠伸しながら立っていた男は、階段の闇から明かりの中に姿を現したのが交替員ではないことに気づいて、思わず声を上げようとする。

 「おっと」

ロードはすばやく男に駆け寄って、短剣を喉元に突きつけた。

 「悪いな、少し我慢してもらうぞ」

 「ごめんなさいね」

ヒルデが素早く男の腰から鍵の束を取り上げる。その横で、ロードは男の腕と足をしばって、猿轡をかませていた。

 「人を縛り上げるのなんて、生まれて初めてだな…」

 「あらそうなの? 外の人は、てっきりそういうのは慣れてるものかと」

 「盗賊じゃあるまいし。ロバの背中に荷物くくりつけるくらいだよ」

縛り上げた男を部屋の中に転がして、扉に内側から鍵をかける。これで少しは時間が稼げるはずだ。

 ロードは、薄暗い部屋の中を見回した。この部屋は、どうやら塔のてっぺんらしい。天井は尖って、真ん中が高い。壁をぐるりと取り巻く調度品やベッド、小さな窓。

 視線は、部屋の真ん中に置かれた椅子にぐったりと腰掛けている若い男に留まった。

 「…ユルヴィ」

呼びかけるが、返事はない。ヒルデは駆け寄って、兄の肩をゆすった。

 「兄さん、眼を覚まして。兄さん」

 「…起きてるよ」

胡乱な声で、彼は答える。

 「起きてないでしょう! しっかりなさって。兄さんの友達を連れてきたわよ。ここから逃げましょう」

 「逃げる…どうり…どう…して…?」

言葉のろれつが回っていない。正面に回ってみると、半分だけ開けた目は虚ろで、焦点が定まっていなかった。

 「これは…催眠のせいなのか?」

 「そうみたい。前に見たときより強くかけられてるわ。まるで…これじゃ、まるで」

少女の眼に、涙が滲んだ。「…ひどいわ、ヴァーデ兄さん」

 「家族にここまでするのか」

ロードも軽く衝撃を受けていた。ユルヴィは、ロードを見るとかすかに口元を引きつらせた。

 「ロード…ごめん、まき…こん…で」

 「いいんだ。とにかく、ここを出よう。このままじゃ、将来のこと云々の前にお前が廃人にされてしまう」

言いながら、ユルヴィの肩に腕を回して立たせようとする。

 「レヴィ…さ…」

 「そう、おれからもレヴィに説明するよ。こんなの説得なんて無理だ。少なくとも、あそこなら誰も追ってこられない」

 「……逃げ、るのは、嫌だ…」

部屋の外で、足音が聞こえた。異変に気づいて誰かが声を張り上げている。扉が、激しくノックされる。

 「んー、んー」

扉の前に転がされた男が暴れている。

 「静かになさい!」

 「ヒルデ、声を出すと中にいることがバレる。ていうかもうバレてるか。…どうする?」

 「出口は、ここだけよ」

言いながら、少女は壁際の暖炉の前に転がっていた火かき棒を取り上げる。

 「おい、おい。まさか」

 「実力行使よ。剣術ならそれなりに嗜んでましてよ。援護するから、あなたは早く兄さんを!」

 「…無茶苦茶なお嬢様だな」

だが、ヒルデの構え方は確かに慣れたものだ。それに他に選択肢もない。扉には何度も鈍器が叩きつけられ、ドアノブのあたりが大きく歪んでいる。

 木片が散らばり、扉が蹴破られると同時に数人がどやどやと押し入ってくる。それをヒルデが掛け声とともに火かき棒で一閃する。

 「たあっ!」

 「うわっ…」

先頭の二人は頭をしたたかに殴られて瞬く間に床に沈み、三人目は慌ててドアの外に体をひっこめる。

 「今よ、早く!」

ロードのほうに合図しながら、彼女は鉄の棒を勇ましく振り回して廊下へ飛び出していく。階段のほうで、無情に突き落とされる誰かの悲鳴が聞こえた。まったく、とんでもないお嬢様だった。

 ロードはユルヴィを支えながら、置いていかれまいと大急ぎで後を追った。気絶した男たちを踏み越え、蹴破られた扉を乗り越える。ヒルデが暴れている音は、螺旋階段の下のほうから聞こえてくる。

 「応援を…」

 「早く、ヴァーデ様に!」

何処かから声が響いて来る。階段の下では、守護神のごとく火かき棒を構えたヒルデが、逃げていく家人たちを見送っている。

 「ここから、どうする?」

肩のほうでユルヴィが小さく呻いた。

 「…私の部屋に」

 「兄さん、気が付いた?」

 「なんとか…。魔石を…取り上げられてしまって、魔法が使えないから。部屋に行けば代わりが…」

 「分かった。どっちだ?」

 「こっちよ!」

ヒルデが先に立って渡り廊下を走っていく。

 「もう大丈夫。一人で歩けるよ」

ロードの手を断って、ユルヴィもよろめきながら自分で走り出す。ロードは、その後に続いた。

 城の中は騒然として、どこかで声が響いている。ちらりと見た窓の外には、松明の光が走っている。その中には、特徴的な魔石の小さな光も見えた。

 ――魔法使いだ。

 それほど強い輝きではないから大した魔法は使えないかもしれないが、厄介だ。先をゆく二人を追いながら周囲に視線を巡らせていたロードは、はっとして一点に目を凝らした。

 「ヒルデ、止まれ!」

 「え?」

少女が足を止める。

 「そっちは駄目だ。多分その先にあのヴァーデって人がいる」

 「え…ちょっと待って。でも、ここを通らないと」

言い終わらないうちに、廊下の向こうから金属音と、大股に歩く大きな足音が聞こえてきた。見る間に少女の顔が青ざめる。

 「隠れて!」

大急ぎで、近くの部屋に飛び込んで息を潜める。扉の隙間から、怒りのオーラを纏って足早に塔のほうへ向かっていくヴァーデの恐ろしい横顔がちらりと見えた。後ろには、武装した私設兵団のような一団を従えている。

 足音が遠ざかって言った後、ヒルデは止めていた息を大きく吐いた。

 「危なかったわ。でもどうして、兄さんが来ると分かったの?」

 「魔石の輝きさ。この家で一番強い魔法使いは、たぶんあの人か、お母さんだろ?」

 「ええ。でも…魔石の輝き?」

 「ロードの眼は、少しばかり特殊なんだよ。<影憑き>とか、魔石の輝きとか、そういうのが見分けられる」

額を押さえていたユルヴィが、掠れた声で呟くように言う。弱ってはいるが、もう、かなり意識が回復してきているようだ。

 「行こう、私の部屋はこのすぐ先だから」

扉を開けてそっと廊下を伺う。目の前にある廊下には誰もいないが、松明の灯りと声がどこかから反響して聞こえてくる。館の周りは、もうほとんど取り囲まれているようだ。

 「掴まったら、今度は監禁どころじゃ済まされなそうだな」

 「そう。こうなったらもう、本気で逃げ出すしかない。丸腰では無理だ」

先頭に立って歩いていたユルヴィが、一つの扉の前で立ち止まった。しばし中の様子を伺い、中に誰も待ち構えていないことを確かめてから、そっと押し開く。

 ――真っ暗な部屋の中に、かすかに花のような匂いが漂った。月明かりの窓辺に置かれた花瓶には、ヒルデが庭で摘んでいた花が活けられていた。

 「ユルヴィ兄さんが帰ってきたから、わたしが飾ったの」

 「…そうか。ありがとう」

口元に笑みを浮かべて、ヒルデは後ろ手に扉を閉めた。

 「さ、お急ぎになって。ここはわたしが見張ってますから」

 「すまない」

ユルヴィは大急ぎで窓際の机に駆け寄って、引き出しの中を探っている。それにしても、ずいぶん広い部屋だ。こんな城に住んでいるからには当然なのかもしれないが、部屋ひとつでロードの家より広いのではないかというくらいだ。そして部屋の中には、夥しい数の本が積み上げられている。

 彼は、すぐ側の、天井まで届く背の高い本棚にちらりと視線をやった。

 「そこの、上から四列目の棚のいちばん右に、赤い背表紙の本があるでしょう」

と、ヒルデ。

 「これ?」

 「そう。取り出してみてくださいな」

そう分厚くは無い本だ。言われるまま、取り出して表紙を月明かりに透かし見たロードは、思わずはっとした。


 ”世界のはじまりの物語”。


 「『むかし、むかし。ずっとむかし―― 世界にはまだ、闇しかなかった頃に』…兄さんに何度も読んでもらった、一番好きだった絵本よ。」

ユルヴィは手を止め、振り返る。

 「そうだったね」

 「兄さんは、作家になりたいの?」

 「どうして」

 「賢者の本を書きたいって仰ったんでしょう。」

 「うん。でも、それはお伽噺じゃないよ。本当の物語だ。」

 「本当?」

 「そう。みんな本当のことだ」

身支度を整えながら、ユルヴィが戻ってくる。探し出したのは指輪が二つと、本が二冊。それに短剣が一本だ。

 本をロードから受け取って、元の場所に戻しながら、ユルヴィは妹のほうを見やった。

 「ヒルデ、お前はここに残れ。ここから先は、私とロードだけで行くよ。ヴァーデ兄さんに見つかったら、お前も処罰されてしまう」

 「何言ってるの。少しでも戦力があったほうがいいでしょう? わたしもご一緒します」

 「駄目だ」

扉の前から押しのけようとした手を、ヒルデがつかむ。

 「…どうして、お一人で行こうとするんですか? 一人で悩んで、一人でいなくなって…今度出て行ったら、もう戻ってこないんじゃないの? わたしは、そんなに足手まといですか」

少女の眸には、見る間に大粒の涙が浮かんできた。

 「何も話してくれない。何も…むかしは、何でも話してくれたのに」

 「…ヒルデ」

 「わたしだって、外の世界に行きたい!」

叩きつけるようにそう叫んで、ユルヴィの腕に縋りついた。ドアノブに手をかけたまま、ユルヴィは進むことも退くことも出来なくなっていた。ロードは、ちらりと本棚に戻した赤い絵本の背表紙の文字を見る。

 世界の始まり。

 ――"三賢者"も、世界の始まりの呪文も、お伽噺のものではないことを、自分もユルヴィも既に知っている。

 「その覚悟があるのなら、飛べばいい」

 「えっ?」

少女は、顔を上げてロードのほうを見る。

 「空を飛ぶ魔法を覚えるには、千回も墜落して痛い思いをするもんなんだそうだ。自由な空は、そうして手に入れる。そう言ってた奴がいた。――ユルヴィ、うまやはどっちだ」

 「え、あ… あっちの方角です」

彼は慌てて一方を指した。

 「出口は?」

 「厩の側に勝手口が。狭いですが、城壁の外に出られます――そうか、その道から逃げるんですね?」

 「馬がなきゃ逃げ切れないだろうからな。」

ユルヴィは小さく頷いた。

 「そうですね。行きましょう、塔とは反対側です。ヴァーデ兄さんに気づかれる前に辿りつかなくては」

彼はもう、ついてこようとしている妹に注意は払わなかった。来るなと言っても、きっとヒルデはついてくるだろう。

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