第30話 新たなる門出
側にいた少女の姿が、ふっとかき消えた。
(フィオ?)
慌てて振り返るが、声も出ない。ロードは、辺りを見回した。何もない。全てが、黒一色に塗りつぶされてしまったようだ。
(レヴィ! …ハル!)
返事は無い。自分の手さえも見えず、立っているのか、倒れているのか、それすらも分からない。世界の終焉。そんな言葉が脳裏を過ぎった。レヴィもハルも間に合わなかったのかと思った。全てが壊れてしまった。
うろたえながら辺りを見回していたとき、耳元に、レヴィの声が聞こえた。
『人間、そは光の子の名――』
直接、耳に囁きかけるような言葉。
『汝ら、光とともにあれ』
その瞬間、目の前がぱっと明るくなった。足の下には地面があり、頭上には元通り空がある。だが、どこかおかしい。地面と空の境界線は曖昧で、風景は歪んでいる。
「…あ」
足元で、フィオが小さな声を上げた。見ると、放心したように座り込んでいる。
「ぎりぎり間に合ったな」
と、レヴィ。
「何とか」
ハルの手元には、やや不安定ながらも球状に収まった呪文の塊が、鋭い光を発している。融合していた呪文が切り離され、"海の賢者"の管理していた呪文の断片を、元通り回収できたのだ。
「ただ、あっちをどうするかだね…」
視線の先には、崩れた崖の上で不安定に、広がったり、纏まったりを繰り返しながら浮かんでいる、もう一つの呪文の塊――かつて"森の賢者"の管理していた断片があった。
「このままだとバラバラに飛散するか、消滅してしまう。早く安定させないと」
「やってるよ」レヴィが苛立ったように言う。「けど自分のもある…からな。さすがに二つ同時は厳しい…」
「テセラは? どうなったんだ」
「彼女は闇とともに消えた。」と、ハル。「自分の命を使い切ったんだと思う。――強い力を持つ呪文の行使にはも精神力だけじゃ足りないからね。彼女は"森の賢者"の能力で生命力を高めていたから多少の無茶は出来たのかもしれないが…。僕らだって、呪文を完全に発動させるのは命がけなんだ。」
「…ってことは、レヴィお前」
ロードは、レヴィのほうを睨んだ。
「なんで、そういう重要なこと先に言わないんだよ!」
「先に言ったら、止めるだろ?」
軽く舌を出してふざけて見せたのも束の間、すぐに表情が厳しくなる。レヴィもまた、いったん発動させた呪文を、元の状態に戻すのに苦労しているのだ。
「…やっぱ、管理者がいないと長時間安定させられそうにないな。どうする? ハル。テセラの管理してた分が安定しないと、世界を元に戻せない」
「管理者って」
フィオが、はじかれるように顔を上げた。「新しい"森の賢者"のこと? それ…どうすればなれるの」
「歌だ。"森の賢者"になる条件は、賢者の力――<
「あたし、それ歌えるよ?」
レヴィは、ぽかんとした顔でフィオを見つめた。
「あたし全部歌える。お母様の代わりになれるの?」
「いや、でも…」
「どうすればいいのか教えて!」
重ねるように言って、フィオは、レヴィとハルを交互に見比べる。
「いいのか。一端なったら、すぐ辞めるわけにいかないってレヴィが言ってただろ。それに…」
振り返って、少女はきっとした目でロードを見上げた。
「分かってるよそんなこと。でも、ひとつくらい、あたしだって役に立ちたい!」
「…フィオ」
「だってさ。ハル、サポート頼めるか?」
「分かった」
レヴィは、小さく何か唱えて浮かんでいる不安定な呪文を引き寄せた。ハルがそれを手に取り、フィオのほうへと押しやる。
「ゆっくり触れるんだ。無理しないで、抵抗が激しかったら手を引くんだよ。触れたら、急激に魔力が流れ込むからね」
「う、うん」
おそるおそる手を差し出し、明滅する呪文の表面に触れた。文字がざざっとゆれ、激しく回転しはじめる。フィオが、小さく悲鳴を上げた。ロードにとっては、目を開けていられないくらいの輝きだ。
「気を抜かないで。まだ君との接続は完了していない。呪文の一部が伝わってくるはずだ。そう、それを心の中で読み上げてみて。それが君に一致した接続点だ。」
そんな中を、ハルの静かな声が流れてくる。
「証があれば、接続点はすぐに認識する。ゆっくり深呼吸して。ゆっくりだ。手を離して、…君の中に入ってきた呪文を意識してみて。」
震える手で、フィオは胸のあたりに触れた。
「分かる。これ、"創世の呪文"と繋がってる…」
「継承完了だ。」
ほっとしたように言って、ハルは、フィオの肩を抱いた。
「よし、それじゃこの呪文を落ち着かせよう。必要な言葉は表面に浮かんでくる。一行ずつ、ゆっくり読み上げるんだ。僕らがそれに合わせる」
フィオがたどたどしく詠唱を始めるのと同時に、周囲の風景が変わり始めた。灰色にくもっていた空が少しずつ透明さを取り戻し、青い色に変化していく。合わせるハルとレヴィの声は澱みなく、三人それぞれの全く違う言葉が、同時に世界を取り戻していくのがロードには分かった。
やがて、頭上から光が降りそそいだ。見上げると、そこに太陽がある。レヴィは、手を伸ばしてその光の一部を掴み取るような仕草をした。
「ハル、フィオ」
振り返った二人それぞれに投げた光は、手の中で輝いて、溶けるように消える。
「月と星も、戻してやんないとな」
笑って、レヴィは最後の一節を読み上げると、目の前で球形に戻っていた呪文を、そっと抱いた。その輝きが薄れ、やがて、どこかへ消えてく。元の場所に戻ったのだ、とロードは思った。見ると、同じようにハルの抱えた呪文も消えていこうとしている。フィオの呪文だけは、そのままだ。
「…これでいいの?」
少女は、汗びっしょりになりながら目の前の呪文の球を抱えた。
「ああ。安定した。もう大丈夫だ」
「はーー」
フィオは大きな声を上げて、その場にへたりこんだ。
辺りにはいつのまにか夏の日差しが戻ってきている。冬物のコートでは暑いわけだ。ロードも、汗を拭った。
「太陽、何日ぶりだろう」
心地よい風。それに鳥の声が聞こえる。足元では、緑の夏草が何事もなかったのようにそよいでいた。
「世界の再創造…か」
ぽつりと、ハルが呟いた。「始まりの魔法使いと同じ事を、まさか自分がもう一度やることになるとはね」
「ま、これで終わりじゃないんだけどな。ぼくらの本当の仕事は、これからだ。」
頭の後ろで指を組みながら、レヴィが言う。
「結果的に世界の大半を創り直しちまったわけで、元どおりになってるかどうか自信ないし。」
「…おい、怖いこと言うなよ」
「冗談だよ。まあ、問題があればこっそり修正しておく。それとテセラが創った世界の裂け目からこっちの世界に出てきた<影>は、まだ全部回収しきれてないからな。」
はっとして、ロードは腰に手をやった。
「もしかして、<影憑き>の問題は解決してないってことか?」
「そういうこと。ただ、再創造のついでに裂け目は塞いだし、今以上に増えることはないだろうさ」
肩をすくめて、レヴィは何故か、楽しそうに笑った。どこか遠くを見つめているその瞳には、迷いの影はない。
「あー!」
突然、フィオが声を上げた。
「森、直ってない!」
「え?」
「ほら!」
彼女は、崩れたままの谷と、焼け焦げて緑の消えた森とを指差した。
「ああ… そりゃ、世界が崩壊する直前に戻したから…」
「別途直すしかないね。――でも、君ならきっと、難しくはないよ」
と、ハル。
「"森の賢者"を継いだんだから、<生命の歌>を使える。生命力を高める魔法だ。うまく使えば、森を再生させられるはずだよ」
「え、そうなんだ。まず使い方を覚えないと…よしっ、あたしも、頑張らなきゃ」
力いっぱい握りこぶしを作って元気に言った後、彼女は、ふっと表情を緩めた。
「…お母様の分まで。」
透き通るような青い空の向こうには、一筋の白い雲が長く尾を引いて流れていた。
その日は、フィオの家まで戻って休むことになった。木立の間をオレンジ色の光が傾いていく。そんな当たり前の日暮れが、ずいぶん久し振りに思えた。
借りていた防寒着を片付けていたロードは、ふと、窓の外で丸木に腰掛けて空を見上げているレヴィに気が付いた。手をとめて、裏口から回っていく。落ち葉を踏む足音を聞いても、彼は振り返らない。
「何してるんだ、こんなとこで」
「空見てるに決まってるだろ」
ふざけるような口調はいつもと同じだったが、いつもより少し元気がなかった。強がってはいても、疲れているのだろう。
「前から聞きたかったことがあるんだ。レヴィは、…"賢者"になったこと、後悔してないのかって」
「してない」
即答すると、振り返って不思議そうな顔をする。そんな当たり前のことを聞いてどうするんだ、とでも言いたげだ。
「いや、ハルも、テセラも辛そうだったからさ。やっぱ大変な役目なのかなって…」
「まあそりゃ、楽じゃないな。見ての通り、使い方次第で世界を壊せるようなもん管理してるんだし。でも、ぼくは、今の役目は気に入ってる」
そう言って、空に視線を戻す。
「…小さい頃は、いつも空を見ていた。鳥になって空を飛べたら、世界中旅して回れたらって…リスティについて塔に行ったとき、そういう魔法が本当にあることを知った時は、本当に嬉しかった。なんとか覚えようと必死だったなあ」
「……。」
「飛ぶ練習はこっそり始めた。すぐバレたけどな。何度も墜落して、腕折ったり頭打ったり、死にそうな目にあったけど、それでも初めて外の世界を飛べた時、ぼくは本当に生きてて良かったと思ったんだ。だからこれは、ぼくが望んだ道さ。なりたかったものだ」
ランドルフは、レヴィを管理者に選んだのは"創世の呪文"自身なのだと言っていた。それがどうしてなのか、今なら分かる気がした。
「お前さ、――きっと、いい"賢者"になるんだろうな」
「今だって、十分いい"賢者"だろ?」
笑って、レヴィは大きく伸びをして立ち上がった。「んー、腹減ったな。夕飯まだ?」
「ったく。褒めた先からこれだから…」
並んで歩き出す行く手からは、ちょうど、いい匂いが風にのって漂ってきた。
「じゃーん。今日は森の香草で香りづけした煮込みシチューよ」
テーブルの真ん中に置いた鍋の蓋を開けて、フィオが胸を張る。
「あんま無理するなよ。フィオも疲れてるだろ」
「やーね。あたし最後のほうしか頑張ってないし。気にしないで食べて。まだいっぱいあるから!」
「へー、陸の食べ物って、見たことはあるけど食べるのは初めてかも…」
ハルは、物珍しそうにパンを手にとって、匂いを嗅いでいる。ロードは、食卓を見回した。
「よく考えたらここ、伝説の"三賢者"が揃ってる」
「伝説のっていうか、そんな大したもんじゃないけどな」
言いながら、レヴィは早速、シチューを搔き込んでいる。
「はい、ロードのぶん。」
「…ありがとう」
ふと、レヴィが手をとめた。
「そうそう、ハルに言おうと思ってたんだよ。」
「ん?」
パンをちぎって食べ方を考えていたハルが、顔を上げる。
「あんたんとこの島、なんか扉とか付けられないの? 毎回あのシンって奴の家から行くの面倒なんだけど。」
「羽根むしられそうになったトラウマ?」
すかさずフィオが茶々を入れる。
「そうじゃない! というか、もうその話忘れろよ。ったく…。こことマルセリョートをしばらく<扉>で繋いでおいて、新米のお前をハルに指導してもらうんだよ」
「え? あたし?」
「え、…僕が?」
ハルは自分を指差している。
「まさか、同じく新米のぼくに指導しろと?」
「あ、…いや、そういうわけじゃ…。そうか。今じゃ、僕が賢者で一番の古参になっちゃったんだね。」
「ま、じいさんも居るっちゃいるが、もうあんま動けないしな。」
皿を空にしながら、レヴィはにやりと笑った。
「にしても、一気に若返ったよなあー。多分、今ここにいるのは歴代最弱の"三賢者"だぜ?」
「でも、歴代最凶の事態を無事収拾したんだろ?」
とロード。「十分だよ、おれたち一般人からすれば。」
「あ、一人だけその他大勢になろうとしてる人がいるわよ」
「お前ももうこっち側だろー。あ、おかわり」
「それはそうとロード、そろそろ僕のこと許してくれるかな…」
「人の話聞けよ! …ったく、褒めたつもりだったのに」
ぶつぶつ言いながらシチューを口に運び始めたロードを見て、残る三人が笑い出した。静かに暮れてゆく空には、いつしか、ほんのり赤い月と星たちとが、ともに光を放ちながら姿を現そうとしていた。
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