第21話 風の帰還

 それは、あまりに険しくて、ほとんど垂直に思えるほどの坂道だった。

 森が切れた先にあったものは、流れの速い浅い谷川と、その先に繋がる断崖絶壁。そこが、シグナスフォートと呼ばれる場所だった。「翼でもなければ行くのが難しい」とレヴィが言ったのは、<影憑き>のせいだけではなかったようだ。

 「地元の猟師でも、この先まで来る奴は滅多にいないな。大昔には、徒歩で塔まで訪ねてくるような物好きもいたらしいんだが。」

早瀬を渡りきったところで、レヴィは崖を見上げながらそんなことを言った。「ここを登りきれば、もうすぐそこだ。」

 「レヴィ、飛べるんだし先に行ったらどうだ」

 「ここまで来て、ぼくだけ先に行ってもしょうがないだろ」

苦笑しながらも、彼は自分の魔法の力を使って、崖にほんの少しだけ突き出した、ただのでっぱりに過ぎないような段を平気で登っていく。垂直に近いような崖の道は、少し登っただけで谷川沿いの地面からは程遠くなる。落ちたらどうなるのだろう。そう考えるだけでぞっとしてくる。荷物がやけに重たく、肩に食い込むようだ。見上げると、レヴィもフィオもはるか先のほうにいる。

 「ロード、遅いぞー。急げー」

上の方からレヴィの声が響いてくる。

 「そんなに早く登れるわけないだろ? はぁ、これだから山は苦手だ…」

ぶつぶつ言いながら、ロードは這うようにして、一段ずつ手と足を使って登っていく。高所恐怖症ではないはずなのに、どうも、こういう場所は好きになれない。




 岩壁と格闘すること数時間。やがて、空を突くようにせり出す大岩が見えてきた。そこから先の崖はゆるやかになっている。

 「おつかれさまー」

先に辿りついていた二人は、そこで休憩しながら待っていた。汗を拭って振り返ると、今朝まで歩いていた青い森が一望できた。緑のそよぐ深い森。見渡す限り、村も町も無い。そして、…空には、確かに何も無かった。

 「この方角、ずっと真っ直ぐ行けばポルテの港町の方角かな」

 「ああ。鳥の翼なら二週間くらいかな。意外と近いだろ? 直線距離だけどさ」

風が吹き抜けて行く。高度のせいか、太陽は頭上から降り注いでいるのに、頬に触れる空気はひんやりと冷たい。

 「…そろそろ行こう。汗が冷え切ったら寒くなりそうだ」

 「うし、じゃ出発」

フィオが立ち上がり、レヴィは再び先頭に立って歩き始める。

 「あ」

少し登ったあたりで、フィオが顔を上げた。「あれが、そう?」

 ちょうど崖の端、木立の途切れているあたりに、白い壁のようなものが見えていた。

 「そう。あれだ。すぐ、この上なんだよ」

 「やった! 近いじゃない。早く行こうよ」

フィオの足取りは弾むようだ。

 「あー、…おれの元気がそこまでもつかどうか」

 「やだ、ロード、山登りは苦手なの? おっかしい」

 「……。」

荷物に入ってる食料が重過ぎるせいだろう、などと思いながら、彼は足を叩いて歩き出した。いずれにせよ、目的地はもうそこに見えている。長い旅路がようやく終着点にたどり着くのだ。そこが最終的な目的地では無いにせよ、一つのゴールには違いない。


 一瞬、気が緩んでいたのは事実だ。


 前触れもなく視界の端で何かが閃いた後、それを理解したのは、身体に衝撃を感じてからのこと。

 振り返ろうとするより早く、身体がふわりと浮かぶのを感じた。声を上げる間もなく、そのまま宙に放り投げられ、どこかの硬い地面に投げ出される。爆音と閃光とが入り混じり、風圧で一瞬、耳が聞こえなくなる。

 「…あたた」

近くでフィオが頭を押さえながら起き上がる。一緒に放り投げられたようだ。

 「何が、起きたの?」

 「わからない、多分レヴィが…」

周囲を見回したロードは、目の前に聳え立つ白い塔に気づいて声を失った。

 それは、思っていたよりずっと大きく、そして立派な建物だった。一枚の岩を繰り抜いたかのような表面、五十階はあろうかという見上げんばかりの高さ。装飾の類は何一つ見当たらないが、それがかえって全体を威厳ある姿に見せている。そして、最上階には眼もくらむような眩い青白い輝きが視えている。レヴィの中にある輝きと同じ、そのはるかに強い一つの大きな塊が。

 「あ、…」

後ろでフィオが、小さく息を呑むのが聞こえた。輝きに吸い寄せられるように見入っていたロードは、我に返る。

 空中に浮かんでいる闇色のドレス。

 実際は紺色のはずなのに、光を背にした長いスカートは、光を飲み込む暗い色に見えていた。その目の前で、レヴィが脇腹を押さえて岩にもたれかかるようにして立っている。

 魔女テセラ。何故ここに。

 「あら残念。心臓ごと抉り取ってあげたかったのに、逸れてしまったわね。最後の最後まで気を抜いてなかったのは褒めてあげる。」

くすっと小さく笑って、宙に浮かぶ魔女は杖を振るった。

 「レヴィ!」

フィオが、転がるように坂道を走っていく。

 「来るな!」

叫んで、レヴィが対抗するように大急ぎで何か唱える。フィオの頭上から雷が打ちつけるように降りてくる。

 「きゃあっ」

衝撃で、彼女は小さく悲鳴を上げて耳を押さえた。無事ということは、衝撃は拡散されている。だが、シュルテンで見たほどには、完全に中和できていない。

 ロードは、レヴィの指の間から赤い滲みが広がっているのに気づいた。さっきロードたちを吹き飛ばした時、避け損ねて傷を負ったのだ。シュルテンで黒ローブの魔法使いたちを庇った時と同じように――。

 「フィオは、あんたの娘じゃなかったのか?!」

ロードは空を見上げて怒鳴った。「巻き込むなんて、どういうつもりだ!」

 「だって、私に逆らうんですもの…仕方ないでしょう?」

テセラは、悲しげな眸で眼下の少女を見下ろす。

 「……。」

フィオは唇をぐっと噛み締めると、下を向いたまま、治癒の魔法を唱え始めた。

 「いいから行け。塔の中なら、外からは攻撃出来ないから…」

 「冗談でしょ、置いてなんか行けない。じっとしてて、痛みだけならすぐに消せるから」

ロードも、腰から短剣を抜く。

 「時間を稼ぐ。その間にレヴィを動けるようにしてくれ」

テセラは高らかに笑った。そして杖を振りかざす。

 「ただの人間が?」

空が掻き曇ったかと思うと、雷鳴が空を翔る。

 頭上に光がひらめいた。

 「…っ」

一撃でも当たれば死ぬ。そう直感した。だが、逃げようなどとは微塵も思わなかった。ここで自分一人で逃げればどうなるかくらい、考えなくても分かる。

 彼は、周囲を見回した。どこにも<影>の気配はない。ハルガートは一緒にいないのだ。ならば、勝ち目はあるかもしれない。

 「やめろ、ロード!」

レヴィの叫び声を無視して、ロードはテセラめがけて突っ込んでいった。走りながら、宙に向かってナイフを放つ。空中を高速で飛ぶ刃に雷が誘導され、空中に電荷が飛び散った。完全に避けられるわけではないが、空中で落雷させてしまえば、多少はマシだ。

 「あら素敵。そんな戦い方も出来るのね。でもこれは?」

ふいをついて、真横で雷がひらめく。

 「ぐあっ」

避けきれず、ロードは草の上に倒れ込んだ。肉が焼けるような嫌な匂い、見下ろすと、肘から先が黒く焼け焦げている。指先が動かない。

 「ロード!」

再びレヴィが叫ぶ。

 「…左腕だ。問題ない」

痛みを噛み殺しながら、ロードは再び立ち上がる。「毎回、お前にだけ良いとこ持ってかれるわけには、いかないだろ…」

 「じゃあ、まとめて終わりにしましょう」

テセラが杖をくるりと回すと、光が翳りはじめた。太陽が雲に飲み込まれる。雲の表面を流れる白いひらめきは、小さなナイフごときで分散させられる電荷量ではないと一目で分かる。ロードは、じりじりと後ろへ、フィオとレヴィのいる場所のほうへと後退りはじめる。

 と、突然、フィオが叫んだ。

 「レヴィ、何やってるの?! 駄目だよ、その呪文は」

悲鳴のような声。

 「やだよ、あたしたちだけ逃がそうなんてしないで! そんなことしたらレヴィが…」

まずい、と思った。

 ここで引き離されたら、二度と合流できなくなる。振り返って、塔のほうを見やる。あとほんの少し。すぐ目の前に目的地があるというのに、こんなところで。

 諦めてたまるか。

 彼はレヴィのほうに向かって走り出した。今からでも、担いで走れば間に合う――


 その時だ。

 ふいに周囲が、予想もしなかった白い輝きに包まれた。


 「?!」

その場にいた誰もが、動きを止めた。瞬間、轟音とともに吹き寄せた尋常ならざる突風が、宙に浮かぶテセラだけを狙って叩きつけた。その手から杖がはじけ飛び、真っ二つに折れる。

 「まさか、この魔法…」

レヴィは、唱えていた呪文を中断して大きく見開いた目で塔のほうを振り返る。

 「…じいさん?」

だが、テセラはまだ、空中に踏みとどまっている。完全に虚を突かれたはずなのに、致命傷にはならなかったのだ。頭上の雷鳴は、相変わらず命令を待ち受けている。

 「…おのれ、…死に損ないの老いぼれが…」

表情をゆがめながら、魔女は突風に抗って腕を振り下ろそうとする。考えている時間はない。助かるには、今しかないのだ。

 彼は有無を言わさず片手でレヴィを肩に担ぐと、塔に向かって走り出した。

 「フィオ、行くぞ!」

 「う、うん」

それは、生まれてからこの方で初めての全力疾走だった。時間にすればほんの数十秒。肩に担いだ荷物の重みも、腕の痛みも忘れて無我夢中だった。

 そして、塔の入り口に辿り着くのと同時に、背後で遅れて雷鳴が轟き、爆風が押し寄せてきた。扉が内側から開き、風に押し込まれるようにして三人は中に転がり込んだ。

 「……助かった?」

 「多分」

つるつるした石の床の上に転がったまま、しばらくその冷たさを確かめていたとき、頭上で、レヴィの小さな呟きが聞こえた。

 上半身を起こすと、目の前に、何歳かも分からないほど年とった老人が、ぜいぜいと喉元で息をしながら若い女性に支えられて辛うじて立っていた。皺だらけの顔を歪めて差し出した手を、レヴィが取る。

 そして彼は、膝をついて抱擁を受けながら、こう呟いた。

 「ただいま戻りました」

一粒の涙が、白く磨き上げられた床の上に落ちる。


 それがロードの、"風の塔"で見た最初の光景だった。

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