第20話 青い森

 キン、と甲高い金属音が森の中を木霊する。

 ざ、ざ、ざっと落ち葉を踏み分ける音とともに、斜面を駆け下りてくるのは、見たことも無いような大きな鹿だ。長い体毛を振り乱し、頭に一対の大きな角を振りかざしている。

 「ロード! そっち行ったっ」

斜面の上で炎がちらついている。言われる前から分かっている。ロードは、突っ込んでくる大きな獲物の全身を素早く眺め回した。<影>の急所が何処か――

 「行くぞ」

頭上から声がかかる。頷いて、ロードは跳躍した。それは彼自身の身体能力をはるかに越え、重力に逆らうようにして大きく鹿の頭上へ、振りかざした角も越えて跳ね上がる。

 (あそこだ)

首の真後ろ。空中から、彼はナイフを放つ。刃のきらめきが長い毛の中に吸い込まれるのと同時に、鹿はへたへたと前足を折り、その場に崩れ落ちた。<影>が流れるように消えてゆくのが分かる。

 頭上の木の上から、ひょいとレヴィが飛び降りてきた。

 「やったな。」

 「ああ、だいぶ慣れてきた」

 「連携ばっちりー?」

斜面の上からは、フィオが滑り降りてくる。

 青い森に入ってから丸三日、ロードたちは行く手を阻む<影憑き>たちと戦いながら、道なき道を進み続けていた。<影憑き>以外にも、酷い藪、がけ崩れ、それに道は頻繁に落ち葉の下に消えてしまう。かつては地元の猟師が使う獣道があった場所だらしいが、<影憑き>が出るようになってからは長いこと使われていないという。時折レヴィが鴉に姿を変えて空から方角を確かめているから道に迷うことはないにしろ、苦労の多い道だ。

 「にしても、ここの獣はデカすぎだろう」

ナイフを抜き取りながらロードは、足元でただの毛皮と骨の塊と化した屍を見下ろした。「<影憑き>になってなくても、こんなの突進してきたらひとたまりもないぞ」

 「うちの森だってこんなに大変じゃないわよ。うちは近くに村とかあるし…」

フィオはスカートについた泥を払って、げんなりしている。

 「デカいけど本来、気性は大人しい奴らなんだぜ。森のこの辺りまでなら、昔はそこそこ人の出入りはあったんだが、<影憑き>が出るようになって、ずいぶん荒れちまってさ…。」

そんなことを言いながら、レヴィは先頭を歩いていく。彼の靴が汚れないのは、多分、少し浮いているからだろうなとロードは思った。それをズルいなどと言っても仕方ないのだが――、あまりにも自然に使われているせいで、その魔法がどのくらい難しいものなのか、ロードには見当もつかなかった。

 「レヴィって、ずーっと魔法使い続けだよね。しかも複数だよ」

視線から彼が考えていることを察したのか、隣を追い越しながらフィオが言う。

 「そうなのか?」

 「うん。あの浮いてるみたいなのと、あと、ポケットの中身!」

 「ポケット… あの、しょっちゅう食い物突っ込んでる?」

横から覆いかぶさって来る草の葉を手で払いのけながら、ロードは、フィオの後ろに続く。

 「空間拡張の魔法、だって。いくら入れてもポケット膨らまないでしょ?」

 「…そんなことをしてたのか」

 「あたしは、ほとんど何も教わってこなかったけど分かる。難しい術だよ、――それに、ずっと使い続けられるってことは使える力に上限が無いんだ。レヴィは普通じゃない。お母様もきっとそうなんだって思ったら…」

フィオの口調には、羨望というよりは悔しさのようなものが滲んでいる。だがそれは、追いつけないからではない。

 「…役に立てるのかな、あたしで。」

 「ああ。十分すぎるくらい役に立ってる。」

 「ほんと?」

少女が振り返る。

 「おれは魔法なんて素人だけど、旅してれば魔法を目にする機会はいくらでもある。フィオがそこらの魔法使いなんかよりずっと腕が確かなのは保証するよ。それに、ここ最近で物凄く上達したろ? このまま行けば、すごい使い手になれるんじゃないかな。」

 「――。」

フィオがもじもじして何か言いかけた時。

 「おーい、何してるんだ?」

見ると、道の先のほうから、一足先に坂道の上に辿りついたレヴィが手を振っている。

 「森を抜けたぞー」

レヴィの後ろでは、木立が切れて、その向こうに空が見えている。言いかけた言葉はそのままに、フィオが駆け出す。




 そこは、尾根筋の一番高いところだった。一面に緑の広がる深い森の向こうに、先に雪を頂いた、尖った高い山が見える。美しい形に、思わず見とれてしまうほどだ。

 「あれが、オーデンセ?」

 「そう。中腹あたりに塔があるんだが、…見えるか?」

 「うーん」

目を細めたフィオは、首を振る。「何にも見えない」

 「ロードは?」

 「見えないな。でも…」

よく見ていると、何か青白く輝くものが確かにあった。中腹の、少しくぼんでいるあたりだ。「光…みたいなのが視える。」

 「え? どこ、どこ」

 「この方角だ」

 「多分それ、塔にある"創世の呪文"本体の光だな。へえ、この距離でも視えるのか」

レヴィは少し面白そうだ。

 「ここまで結構登ってきたから、あと一日ってとこだよ。山のふもとまでは平らだし、すぐ抜けられる」

 「ほんと? 良かったぁ」

フィオはほっとしたように溜息をついた。「もう、くたくただよぉ」

 「んじゃ、今日は早めにそのへんで休むか。」

再び、レヴィが歩き出す。フィオがそれに続き、最後尾はロードだ。

 森はしんと静まり返って、鳥の声も聞こえなければ、普通の獣たちの姿も見かけない。<影憑き>がそこかしこにはびこっているせいだ。青い森に入って以降、<影憑き>以外の命ある動物は一度も見ていない。

 「今までのお前たちだったら、最初に出くわした奴に殺されてたかもな」

森に入った一日目に、レヴィはそんなことを言った。さっき倒したものより遥かに巨大な熊に襲われ、からくも撃退した後のことだ。

 「この中でトドメ刺せるのはロードだけだからな。効率よく進んでいくなら、ロードを支援するのがいい。というわけで、作戦を立ててみたんだが…」

そして、それが<影憑き>に出くわしたときの今の三人の役割分担となっていた。フィオは炎の魔法で<影憑き>を追い込み、進行方向でロードが待ち構える。彼が急所を狙うの補佐するのがレヴィの役目だった。

 レヴィが使っているのは、シュルテンの町でテセラやハルガートと戦った時に一度体験済みの魔法で、跳躍にあわせてその動きを重力から切り離したり、着地の衝撃を和らげたりする魔法だ。最初はタイミングを合わせるのに失敗して意図しない方向に吹っ飛ばされることもあったが、何度もやっているうちにコツがつかめてきて、今では良いコンビとなっている。




 その日の宿と定めたのは、大きく張り出した岩の下だ。さっそくフィオが火を起こして、鼻歌まじりに小さな鍋で夕食の準備を始める。曲は、よく彼女が歌っているもので、主要なメロディはもうロードも覚えてしまっていた。だが歌詞のほうは、――たまに歌詞つきでも歌っているのだが――、何を言っているのかさっぱりで、全く頭に入ってこなかった。レヴィ曰く、呪文を歌にしたようなものなのだという。だからなのだろうか。

 「その薬草、前に摘んでたやつ?」

 「そうだよ! これ入れるとスープがいいカンジになるの。待っててね、すぐ出来るから」

 「ぼくは野宿の時はあんまり人間用のものは食べないんだけどな…」

と、レヴィ。

 「そうなのか? 普段はあんなに色々買い食いしてるのに。いつもはどうしてるんだ」

 「移動の時は、大体、鴉の姿だな。あっちなら寝るときも羽毛で暖かいし、食べるものも木の実でも適当につまんでれば何とかなる」

 「へー、いいなあ」

鍋に持ってきた食料を放り込んで蓋をしながら、フィオが尋ねる。

 「ねえ、空飛ぶのって、どんな感じなの?」

 「どんなって… んー、そうだな。まず方向が大事だ。空には道なんてないから、飛ぶ方角を間違えると全然違う場所に着いてしまう。初めて外の空を飛んだときは、あまりの広さに呆然とした。あ、ちなみに飛ぶ練習はひたすら痛いぜ。一万回墜落して、ようやく三秒浮いてられるようになるような感じだ」

 「うぇ、ほんと」

フィオはちょっと嫌そうな顔だ。

 「ほんと。ひたすら打撲と痣と付き合う毎日。覚悟しとけよ」

 「う、うん…。」

楽しそうに話しているフィオをを見て、ロードは少しほっとしていた。気丈に振舞ってはいても、シュルテンでの"お母様"との再会は、彼女にとってはひどくショックだったはずだ。彼女が母親として接してきた魔女テセラは、"三賢者"の中の裏切り者だったことが明らかになった。これは、二度と戻れない道、――母との決別の道に他ならない。

 「どう? 今日のスープ」

 「美味いと思う。変わった味だけど…なんか甘酸っぱい…これ…何入れたんだ?」

 「うんとね。サラミと木苺?」

 「……斬新な創作料理だな」

ぱちぱちと火がはぜて、鍋を覗き込むフィオとレヴィの影が地面に揺れている。日が暮れかかり、辺りは薄っすらとした青い闇に包まれ始めている。ロードは、ちらと森の中を見やった。目尻がぴりぴりする感じはない。ということは、魔女テセラとハルガートは、きっと近くにはいないのだ。

 このまま出くわさなければいいのに、と彼は思った。たとえいつかは再び、敵として見えることになるとしても。

 レヴィがやってきて、隣に腰を下ろす。

 「ほら、お前のぶん。」

 「あ、…ごめん、手伝いもせずに」

差し出された皿とスプーンを受け取る。

 「なに一人で難しい顔して考え込んでたんだよ。どうせ、次にあいつらと出くわしたらどう戦うかーとか考えてたんだろ。」

 「……だいたい当たってる」

 「だろうと思った。」

笑いながら、レヴィは自分の皿に口をつける。

 「笑ってるけどな、こないだの手は一度きりだってお前、自分で言ってたじゃないか。もし追いつかれたら、今度こそ本当に、もうどうしようもないんだろ。」

 「んーまあな。ただ最悪、お前らだけは逃がせるから。」

ロードは、思わず手を止めた。レヴィは、平然とした様子でスープを啜っている。

 「"飛ばす"魔法のコツは、だいたい掴めた。たぶん短い距離なら、それほど誤差なくやれると思う。お前ら二人だけ塔の中に飛ばせば…」

 「何言ってるんだよお前!」

鍋をかき回していたフィオが、びくっとなって顔を上げる。

 「そんなことしたら、お前自身はどうなるんだよ? ていうか、前、それのせいでぶっ倒れたんじゃなかったのか? 駄目だからな。勝手にそんなことすんなよ、絶対」

 「え、何? 何の話?」

心配そうにフィオがこちらを見ている。レヴィは、困ったように頭をかいた。

 「いや、…お前らだけ飛ばしておいて、ぼくは…鴉で飛べばなんとかなるかなとか…。…悪かったよ。適当な案で」

 「ったく。死んだら終わりだろ。もうちょっと考えてると思ったのに」

ロードは、大きく息を吐いて元の場所に腰を落ち着ける。

 「ケンカは駄目だよ」

 「ケンカじゃない。こいつがおれたちを、覚えたての危険な魔法の実験台にしようとしてたから怒っただけだ。」

 「そうなの?」

 「そうだったらしい。」

レヴィは苦笑している。

 フィオが鍋のほうに戻っていくのを確認してから、彼はちらりとロードのほうを見た。

 「近くまで来てる気配、あんのか」

 「いや…、全然。前はあのハルガートって奴が近くに来るとなんとなく感じたけど、今はその気配はない」

 「なら、あと一日、うまいこと逃げ切れるといいんだけどな。」

言いながら、再びスプーンを取り上げる。

 「――今さら改めて聞くのも何だけど、おれのこの眼、何なんだろう。"賢者"も知らない何かってことは、突然変異みたいなもんなのかな」

 「カンで<影憑き>を見分けられる奴はいても、<影>そのものを視る魔法なんて無いからな。あれは世界の外側に位置する、本来不可視な"虚無"の存在だ。――ただ、一つだけ、似たような力のことは知ってる。"真実の眸"」

ぴくりと、ロードの手が反応した。それはフューレンの町の食堂で、ユルヴィが口にした言葉だ。

 「聞いたことがあるよ。昔の賢者が持ってたっていう力だろ」

 「昔のっていうか、今もそうだけどな。"三賢者"は元々、一つの目的のために互いに能力を補い合っていた。そのために代々必ず受け継がれる能力があって、それぞれに名前がついている。"真実の眸"は"海の賢者"の力で、この世界の全てを見通す力、いわば千里眼ってやつだな」

 「"海の賢者"…。」

 「そうそう、その"海の賢者"、生きてはいるらしいんだが管理してた呪文奪われてそのまま逃げ隠れしてるんだよなあ。十二年前のことは本人以外知らないみたいだし、やっぱ捕まえて話聞かないとどうにもならないよな。ま、塔に着いてからの話だけど… うん、やっぱりおかわりしよう」

空になった皿を手に立ち上がるレヴィの後姿を眺めながら、ロードは、ぼんやりと、マルセリョートのことを思い出していた。そしてふいに、今まで気にも留めていなかった奇妙な符号に思い当たった。母が姿を消した夜、あれも十二年前のことだったのだ。

 「レヴィ」

 「ん?」

二杯目のスープを手に戻ってきたレヴィに、彼は尋ねた。

 「"海の賢者"って、…鯨だよな」

 「いや? それは移動用の姿だ、ぼくの鴉と同じ。さすがに陸では人間の姿なんじゃないか?」

胸騒ぎがした。島の周りに住む青い眼の人々。母が船を降りる前に最後に行った場所――

 「どんな人なんだ」

 「会ったことがないから何とも…ただ、じいさんに昔、ちょっとだけ聞いたことがある。今の代の"賢者"を百五十年ほど勤めてて、力の制御にかけては凄いらしい。ただ、ちょっとばかり繊細すぎるのが難点だとか。…どうしたんだ?」

 「何でもないよ。ちょっと気になっただけ」

もしも今の予想が正しければ、この旅は、成り行きではなく最初から宿命だったのだ。


 ただ始まるのが早いか遅いかだけの違いで。

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