第22話 予兆

 鳥の声と、明るい日差しで目を覚ました。

 長い夢を見ていたような気がする。浮かび上がるようにして意識が戻ってきたとき、ロードは一瞬、そこが何処なのか分からなかった。見覚えのない壁、柔らかいベッドと清潔なシーツ。しばらくぼんやりと白い天井を眺めていたあと、彼はベッドの上に起き上がって辺りを見回した。安宿ではない、ちゃんとした客間のようだ。ベッドの脇のサイドテーブルには、きちんと畳まれた服と、ナイフを提げたベルトが置かれている。

 それを見ているうちに、昨夜の記憶が戻ってきた。




 ――あの時、魔法で助けてくれた老人は、レヴィたちの無事を確かめるや否や崩れ落ちるようにして気を失ってしまった。

 「じいさん! 無茶するから…」

慌てて駆け寄ったレヴィが、側に居た若い女性と一緒に老人の身体を支える。

 「ぼくが運ぶ。リスティはいいよ、二人の傷を見てやって」

 「分かったわ」

リスティと呼ばれた黒髪の女性は、耳元に垂れた髪をかきあげながら二人に近づいてくると、ロードの腕の火傷に気がついて、はっとした表情になった。

 「酷い状態…。まずはこちらからですね。」

ロードの手を取った女性は、焦げた袖口を捲って片手を翳すと、小さく呪文を唱えた。側で見ているフィオが大きく目を見開く。見る見る間に皮膚が再生していくからだ。かなりの腕前だ。

 女性が自分のほうに向き直ったので、フィオは慌てて両手を振った。

 「あ、あたしは大丈夫よ、自分で治せるから」

 「そうですか? では――」

くるぶしまである長いスカートを直しながら立ち上がった女性は、扉の側にある細い窓にきびきびとした動作で近づいて、外の様子を伺った。

 「…彼女は行ってしまったようです。外には誰も見えません」

振り返って、初めて少しだけ微笑むと、そっと付け加える。

 「もう安心です。ここにいれば誰も手出しできませんから。この塔の周囲には、望まざる来客は拒む術がかけられているんです。」

 「……。」

肩の力が抜けて行くような、安心させてくれる微笑だった。きっとそれまで自分たちはみんな、不安や緊張で酷い顔をしていたのだろう。

 その時になってようやく、ロードは、相手を観察することが出来た。年は、二十台半ばくらいだろうか。目を引くほどの美人ではないが、目鼻立ちが通ってどこか芯の強さを感じさせる。それに、どこか見覚えのある面差しと、黒い瞳に黒髪――。

 「あの、聞いていいですか」

ロードは、思い切って尋ねた。「あなたは…一体」

 「レヴィの姉、リスティです。」

彼女は、静かな声で端的に言った。「あの子と一緒に戦ってくれて、そして無事に連れて来てくれて、本当にありがとう。」

 その先は、記憶が定かではない。レヴィは結局戻って来ず、リスティに部屋に案内されて、そのまま眠ってしまった、…ような気がする。




 昨夜のことを一通り思い出したあと、ロードは、くしゃくしゃになった髪をなでつけ、毛布を跳ね上げて大きく伸びをした。

 ベッドの側に置かれていたのは、自分が着てきたものとは違う服だったが、とりあえずそれを身につける。部屋の外に出ると、空間に反響するようなフィオの笑い声が聞こえてきた。それとともに、どこからか香ばしい匂いが漂ってくる。周囲を見回したロードは、自分がいる場所に気づいて絶句した。

 ――そこは、塔の内側にはりつくようにして作られた螺旋状の廊下の一端だった。塔の中は、中心に一本積み上げられた太い円柱を中心として、ぶち抜きの空間になっているのだ。しかもその柱から枝のように伸びる柱が各階と柱を繋ぐ陸橋になっており、柱自体は、表面に無数の書架をもつ巨大な本棚として使われている。

 まるで巨大な木だ、と彼は思った。知識を集めて作られた白い石の塔。柱の外側をぐるりと取り巻く廊下は部屋と部屋を繋いでいるが、外側の無数の部屋のいくつかも書庫として使われているようだった。

 手すりから身を乗り出して見下ろすと、すぐ下の階――空間に張り出すようにして作られた中二階に、テーブルが置かれて、フィオとリスティとが話しているのが見える。

 「ほんと? じゃあ今度、作り方教えて!」

 「ええ。簡単なの、すぐ出来ますよ。」

 「そう…あ、ロード!」

こちらに気づいたフィオが顔を上げて、手を振ってくる。手を振り返して、ロードは、下に続く階段を探した。こんな構造の建物は初めてで、どこがどう繋がっているのかよく分からない。

 匂いをたよりに辿りついたテラスは、どうやら食堂のようだった。十人は着席できそうな大きな長テーブルが二つ並び、壁側には明るい日差しの差し込む大きな窓が並んでいる。台所は、食堂から隣接する場所に、塔から外に向かってせり出すようにして作られていた。

 「よく眠れました?」

ロードの居住まいをざっと眺め回しながらリスティが尋ねる。

 「服のサイズ、丁度みたいですね。あなたたちの着ていた服は今、洗濯中なんです。つくろってからお返ししますからご心配なく。」

 「あの…」

 「とりあえず、座って朝ごはん食べたら? リスティの焼くスコーンね、めっちゃくちゃ美味しいのよ!」

言われて見ると、目の前の食卓には、焼き上げたばかりのスコーンが湯気をたて、ジャムとバターが用意されている。

 聞きたいことは山ほどあったが、ロードは、それらを全て飲み込んだ。この場の雰囲気がそうさせた。

 「座って召し上がっていてください。いま、お茶をお持ちしますから」

言われるまま席に座りながら、ロードは頭上を見上げた。吹き抜けの塔の内部にわざわざ張り出すようにして作られた食堂に、屋根はない。張り巡らされた陸橋が距離を置いて様々な角度と高さで交差しているのが見えるだけだ。すぐ頭上にある窓から差し込む光が柱に反射している。一体誰が、どうやって、こんな建物を作ったのだろう。こんなものが今まで人の噂にもならずに存在していたことが、不思議に思えてくる。

 「面白い構造でしょ」

と、フィオ。

 「ここね、歴代の"賢者"が趣味で集めた蔵書があるんだって。旅先で見つけた珍しいものなんかも、色々。すごいよね、"風の賢者"は旅する魔法使いだってリスティが言ってた。」

 「ふうん。賢者を継ぐための試験が、"世界一周"みたいなことになってるのは、そういう意味もあるのかな」

リスティがポットを手に戻ってきて、ロードの前のティーカップにお茶を注ぐ。

 「そういえば、レヴィは?」

 「まだ寝てますよ」

と、リスティ。

 「珍しいな。いつも朝早いのに」

 「怪我、大丈夫だったの?」

 「ええ、そちらはもう。ただ昨日は、遅かったですから…」言葉を切る。「でも、きっとすぐ起きて――」

 「もう起きてるよ」

言いかけたとき、頭上から声がした。すぐ上の階の廊下を、欠伸をしながら階段のほうへ歩いていく。食堂には、シャツのボタンを半分外したまま、ぼさぼさの髪で現れた。

 「おはよ、レヴィ」

 「おーおはよー」

ひどく眠たそうだ。

 「よう、"賢者"様、ずいぶんな格好だな」

 「…なんか慣れないな、その呼び方。」

席に腰を下ろして、スコーンに手を伸ばす。

 「うん、やっぱリスティの焼くのが一番うまい。」

 「それはいいけど、手は洗ったの?」

 「洗ったよ。」

ぞんざいにそんなことを言いながら、ぺろりと一つを平らげて指を舐めている。まったく、いつもと変わらない調子だ。ロードは、何故かほっとした。

 「お師匠さん、大丈夫なのか」

 「ああ。今は疲れて寝込んでるけどな、何しろ五百歳過ぎてるし。…無理させちまったのは、ぼくのミスだ。」

言いながら、果物にも手を伸ばす。リスティは、黙ってレヴィのカップにもお茶を注いでいた。

 「ね。レヴィ、塔に戻れたから、これで正式に"風の賢者"になれたんだよね?」

 「ん? うん、まあ」

 「そしたら今までより強くなる? こう…ばーんみたいな」

木苺を飲み込みながら、レヴィは苦笑する。

 「んー、強くはならないな…使える術が一つ増えるだけ…かな」

 「前に言ってた、代々必ず受け継がれる能力ってやつ?」

 「そう。<旅人の扉>――空間座標を認識している場所、つまり一度行った場所同士を繋ぐ力、なんだけど、これがちょっと厄介な力でさ。引継ぎに手間取って…まあ、それは後で説明するよ」

スコーンをもう一つ取り上げ、いつもの癖でポケットのあたりに手をやり――はたと、気づいたような顔をする。

 「あ、ところでリスティ。ぼくの上着どこ?」

 「洗濯中よ。また食べ物を一杯入れてたでしょう! 中が酷いことになっていたわよ? 何でもポケットに突っ込む癖はやめなさいって、あれほど言ってるのに」

 「そんなに突っ込んでないよ」

 「嘘おっしゃい。」

ぴしゃりとリスティに言われて、レヴィは黙ってスコーンを割った。フィオが横でにやにやしている。

 「なんだよ」

 「何でもないっ。ふふふ」

 「…ったく」

口にスコーンを放り込んだあと、彼は、何か思い出したように真顔になった。

 「そうだ。今さらだけど言うの忘れてた」

 「ん?」

 「ようこそ、ぼくらの"家"へ。」

思いがけないレヴィの言葉に、ロードもフィオも、一瞬、言葉を返せなかった。

 「ま、何もないっつーか逆に何でもあるような場所だけど、ゆっくりしていってくれ。」

穏やかな光がテーブルに降り注ぎ、昨日までの日々とはまるきり違った世界が包み込む。

 外界から隔絶された誰も知らない山奥の塔。

 ふとロードは思った。この塔を外からの客人が訪れたのは一体何時ぶりなのだろう、と。




 食事を終えた後、レヴィは、シャツの袖口のボタンを留めながらリスティに向かって言った。

 「さて、それじゃ、じいさんが起きるまで、ぼくはちょっと上に行ってるから。」

 「ええ。わかった」

ぱっと鴉に姿を変えると、頭上に広がる入り組んだ回廊の向こうへと飛んでいく。

 「やっぱり上に行くには飛ぶんだー」

はるか頭上まで続く塔内部の吹き抜けを見上げて、フィオが感心したように呟く。

 「お掃除とか大変そうだよね…ここ。リスティも飛べるの?」

 「いいえ? 多少は魔法も覚えましたが、流石にそこまでは」

苦笑している。

 「でも、楽に上に行く方法はあるんです。ほら、そこに上の方に緑色の飾りがついた扉が並んでいるでしょう」

見ると、食堂の端の廊下に、確かに扉がある。だが、それらはどう見ても向こう側に部屋や階段があるとは思えない。後ろは、直接外壁の壁になっている。

 「昨日、レヴィが繋ぎ直してくれたんですよ。いちばん右端を空けてみて」

 「う、うん」

フィオが席を立って、言われたとおり扉を開く。そして、声を上げた。

 「あ! 外だ!」

 「え?」

ロードも立ち上がって、フィオの後ろから扉の向こうを覗く。そこに広がっていたのは、降り注ぐ朝の光と刈り込まれた芝生。小さなベンチがあり、手入れされた植え込みが囲んでいる。中庭だろうか、今いる場所は中二階のはずなのに、――そして、扉のこちら側から見る限り、どう見ても、扉の向こうにこんな空間が隠れる余地はないはずなのに。

 「それが"風の賢者"の力です。扉を通じて、こちらと向こうの空間を固定する。緑の扉は、どこかへ通じる出口です。」

と、リスティは、食事の終わった皿を片付けながら説明する。

 「昨日までは先生の力で繋がったままになっていたんですが、正式に代が移ってレヴィが"主"になったので、全ての扉をもう一度繋ぎなおす必要があって――。あの子、昨夜のうちに全部やるって言って、塔中回ってたんです。」

 「それで夜遅かったってことか」

ロードは、呆れるような恐ろしいような気分になった。自分など疲れて早々に寝込んでしまったというのに、あれだけの戦いの後も、まだそんなことをしていたとは。

 「ねえ。こっちは?」

さっきの扉は閉じて、フィオは、隣の別の扉に興味を示している。

 「各階に通じてますよ。五階ずつ上に、順番に。でも気をつけてくださいね、同じ扉からは戻ってこられません。行き先の分からない扉を潜ってしまうと、自分の居る場所を見失いますよ。」

 「うへ、迷路なんだ…やめとく」

 「あとで案内しますよ。」

そう言って笑いながら、リスティは台所の奥へ去って行く。そういえば洗い物の出来そうな場所もないな、とロードは気づいた。普通に考えれば、台所で使う水を汲んでおいて貯水槽か水桶に溜めるところだが、こんな扉があるくらいだ、何か魔法を使っているのかもしれない。

 「あ、片付け手伝う!」

フィオがぱたぱたとリスティを追って駆けて行く。ロードは、手持ち無沙汰になって頭上を見上げた。レヴィは、一体どこまで飛んで行ったのだろう。上まで登る気にはならないが、少しその辺りを歩いてみよう。




 リスティがやって来たのは、ちょうど、埃だらけの本を元の棚に戻していたときだった。

 「ここにいらしたんですね。少し、手伝ってもらえませんか」

 「え?」

 「買出しに行くんです」

そう言って、彼女はにっこりと笑う。「久し振りに男手があるので、この機会にと思って。」

 「はあ、いいですけど…」

 「よかった。着いて来て下さい」

どこへ行くのか、とは聞かなかった。というより、この人里離れた山奥で、一体どうやって衣類や食料を手に入れているのかということのほうが気になった。リスティは、特に何も準備した様子もなく、手にはまるで町に行くようなごく普通の手提げ一つだけ持っている。

 向かったのは、食堂の奥にある緑の飾りつきの小さな扉だった。普通の家なら勝手口と呼ぶべき場所だ。彼女は無造作にその扉を開いた。

 「どうぞ。出てみてください」

 「…?」

一歩、踏み出したとたん、空気が変わった。

 狭い空間に、大通りの雑踏が押し寄せてくる。そこは、通りの間を繋ぐ建物と建物の間の薄暗い路地裏だった。

 「えっ…?」

背後には、確かに今出てきた扉があり、その向こうには塔の台所がある。だが、リスティが扉を閉じると、そこはただの酒場の裏口になっていた。

 「ここ、使わせてもらってるんです。ナイショですよ」

くすっと笑って、先に立って歩き出す。半信半疑のロードの耳に、やがて、轟々という水音が聞こえ始めた。

 そこは、見覚えのあるセオールの町の大通りだった。振り返れば停車場。それに、レヴィと出会ったあの緑の屋根の店もある。

 「驚いた? 定期的に繋ぎ先は変えることになっていましたが、塔にはいつも一つだけ、外に通じる扉があるんです。わたしたちが、ずっと塔に閉じこもって暮らしてるかと思ったでしょう?」

 「ええ…でも、帰りはどうやって?」

 「それはまた別の扉があります。心配しないで、ちゃんと帰りの扉も作ってくれてますから。」

弾むような声で言いながら、リスティはあちらへ、こちらへと店を回っていく。ついこの間訪れたばかりの町だというのに、なんだか不思議な気分だった。

 リスティとともに町を回りながら、ロードは、それとなく町の様子を確かめた。

 前回と違って停車場に兵士の姿はなく、アステリア方面への乗合馬車も止められてはいない。<王室付き>の姿もない。ただ気になったのは、妙に兵士の――普通の兵士の姿が多い、ということだ。町の主要な辻に立っているのは、不審者の見張りか何かだろうか。

 立ち話をしている兵士たちの側を通りかかったとき、その会話の断片がちらりと耳に届く。

 「…国境の警備は?」

 「…だそうだ。…に陣を敷いたと。各地から、駐屯兵が集合しつつある」

 「やっぱり、本当にアステリアが…」

 (アステリア?)

ロードは、思わず足を止めた。リスティもそれに気づく。

 「どうしました?」

 「いや、…警備がいやに多いと思って。何を警戒しているのか」

 「<影憑き>じゃないんでしょうか」

 「だったら黒ローブの魔法使いのほうのはずだ。これじゃまるで、戦争でも始まるみたいな」

とはいえ、ここで兵士たちに根掘り葉掘り聞いたりしたら、怪しまれるに決まっている。まさか手配書が出回っているとも思えないが、シュテルンの騒動で顔を見られている負い目もあった。

 「気になりますが、とりあえず用事を先に終わらせて、後日ゆっくり確認したほうがよさそうだ。次はどこですか?」

 「えっと…あっちの通りに生地の店があるので、そこへ」

両手一杯に買い物した品を抱えながら、リスティについていくので精一杯のロードは、その時、重要な一言を聞き漏らしてしまっていた。

 もっとも、それはそれから遠くない日に、いやというほど聞くことになるのだが。

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