第7話 入り江の秘密

 男が戻ってきたのは、夕方も近くなってからのことだった。そう広くも無い島の探検はとっくに終わり、ロードたちはやることもなくヤシの木陰で昼寝をしていた。

 「待たせたな」

戻ってきた男は、小舟に乗っていた。「乗れ」

言われるままに乗り込むと、男は、ぼそぼそと名乗った。

 「俺の名は、シン。お前たちを案内することになった」

 「案内?」

 「その前に一つ、個人的に聞いておきたいことがある」

シンと名乗った男は、ちらりと、ロードが腰に提げたナイフに目をやった。

 「それは、どこで手に入れた。」

 「母さんから貰ったんです。母さんは昔船乗りで、船が難破して、ここに来たことがあるって。」

しばしの沈黙があった。

 「…そうか」

呟いて、男はそれきり、何もいわずに櫂を動かし続ける。

 「あの…何か?」

 「俺はまだ子供だったが、覚えている。嵐の晩に流れ着いたよそ者が、この島にいたことがある。一か月か、二か月か…。この辺りに船が来ること自体、滅多にないから、よく覚えている。」

シンは、それだけ言って口を閉ざすと、あとは黙々と手を動かし続けた。ロードはそれ以上、何も聞き返せなかった。




 船は間もなく、マルセリョートの沖合いにある小島の狭い砂浜へとたどり着いた。遠くからは虹色にぼやけて見えていた島だ。そこも、砂浜は一粒一粒が星の形をした不思議な砂で出来ていて、踏むと微かにガラスの砕けるような透明な音をたてた。浜の先に続くのは、色とりどりの花の咲く茂みだ。

 異変に気が付いたのは、さらに先まで進んだときだった。

 (…何だ?)

砂浜の先には、黒っぽく焼けた土が見えていた。木立や茂みはその上を覆って再生した跡のようだ。しかも焼けているだけではなく、そこかしこに何かが暴れまわったような深い溝が刻まれている。そう遠い昔の痕跡ではなく、最近でもない。

 島の真ん中まで来ると、シンは足を止めた。そこには、太いヤシの幹が一本、柱のように建てられている。彼はそれに手を当てながら、空を見上げた。

 「ここは儀式の島だ、"長"を呼ぶための。この上に印をつければ、長はいつでも来てくれた。かつては…」

 「"長"?」

 「長は、大きな鯨の姿をして海にいる。普段は鯨だ。そして海に暮らす。長い年月をそうして過ごす。"海の賢者"。そうも呼ばれる」

 「賢者…!」

フィオが目を輝かせる。「じゃあ、ここで呼べばいいの?」 

 「いや、待て」

ロードが制止した。「"かつては"? 今は違うってことですか」

 振り返ると、シンは、悲しげな顔で遠い海を見つめていた。

 「何かあったんですか」

 「誰もわからない。十年以上前…真夜中に、突然、雷の落ちるような音と衝撃があった。駆けつけた時には島は荒れ果てていた。そして"長"は姿を見せなくなった。」

 「そんな」

少女が小さく呟く。「"海の賢者"も居なくなってしまったっていうの?」

 「まさか、死んでしまったなんてことは…」

 「そうではない。見かけたという者はいる…ただ、呼びかけには応えてくれなくなった。お前たちが長に助けを求めても、望みは叶わないだろうな」

呆然とした様子で、フィオは、その場にぺたんと座り込んでしまった。地面に投げ出されたカバンから鴉が飛び上がり、慰めるように少女の顔を覗き込んでいる。ロードは額に手を当てた。これは、きっと偶然ではない。"三賢者"のうちの二人までもが姿を消した。残る望みは"風の賢者"だけだ。

 「…もう、日が暮れるな」

西の空を見上げて、男が呟いた。

 「今夜はうちに泊まっていけ」

 「…ありがとうございます」

ロードは、ちらとフィオのほうを見た。まだ日暮れまでは時間があるが、今すぐにニコロのところに戻るよりは、少しゆっくりしたほうがよさそうだった。




 寄せては返す波の音が聞こえる。波の音に満たされたヤシの葉の屋根の下に、子供たちの甲高い笑い声が響いている。

 シンの家は、島に一番近い端の小屋だった。同居しているのはシンの妻だという女性と、子供が五人。そのうち、まだ乳飲み子の末の子を除く四人は全員男の子で、けたたましい笑い声を上げながら家の中を走り回っている。とばっちりを食らっているのは鴉で、さっきから、子供たちの手を逃れようと梁の上をあちこち逃げ回っている。

 「こらお前たち、あんまりうるさくするな。柱に登るな。屋根が壊れる」

そんな暴れん坊たちを一人ずつ捕まえては、シンは、無理やり寝床へ押し込んでいく。奥の寝室のほうからは、しばらくは笑い声とじゃれあう声が響いていたが、やがて、寝付いたのか静かになった。

 「やれやれ、毎日これだ。」

 「賑やかですね」

溜息をつきながら戻ってきた男の表情は、昼間とはまた違った、ごく普通の父親のものに変わっている。質素な小屋の中には、家具の類はない。壁にかけられた漁の道具、ロープ、寝床代わりのハンモック。物入れに使っている篭。炊事や洗濯はどこか別に、共同の場所があるのだろうか。小屋は寝室と居間の二部屋しかなかった。

 灯りはなかったが、満月に近い月の照らす窓辺は手元がはっきり見えるほど明るかった。ロードが見ていたのは、壁にかけられた貝殻のレイだった。虹色に輝く表面を持つ、細長い形をしたその貝には見覚えがある。

 「その貝は、この辺りでしか取れない」

言いながら、シンは、ヤシの葉の敷物の上に腰を下ろした。

 「儀式の島で使うものだ。その貝を目印としてあの柱にかければ、"長"は来てくれた。」

 「……。」

振り返って、ロードもシンの前に腰を下ろした。

 「――聞いてもいいですか」

 「何だ」

 「シンさんたちは、どうしてこんなところに住んでるんですか? その… こんな何もないところに」

目をしばたかせ、男は、不思議そうな顔をする。

 「どうして? ここが、俺たちの家だからだ。それ以外に何か理由がいるのか」

 「あ、いえ。そういう意味じゃ… その」

質問を間違えたな、とロードは思った。話題を変える。

 「長――"海の賢者"は、どうして出てこなくなったんですか。連絡を取る方法は、ほかに何か?」

 「あれば、我々がとっくに試している」

 「ですよね…」

彼は、ちらと外のほうに視線をやった。海に張り出すテラスの端では、フィオが、膝を抱えてぼんやりと海を眺めている。無理も無い。ようやくここまでたどり着いたというのに、頼みの綱はとっくの昔に切れてしまっていたのだ。

 「…やっぱり、残る望みは"風の賢者"だけかな。何か知ってたりしませんか?」

 「直接見たことは無いが、聞いたことはある。」

男は組み合わせた自分の足に視線をやり、思い出すようにしてぽつり、ぽつりと語る。

 「昔は、時々長のところへ来ていたらしい。どこからともなく現れる真っ白な長い髭の老人で、…真っ黒な服を着ていると。マルセリョートで、話をしていた。時々、二人で」

 「ここへ来てた、ってことは、近くに住んでいたんですか?」

 「いや。」シンは、首を振る。「住んでいるのは、ずっと北のほうだという。ずっと北の――高い山の上にある塔だと」

話している横で、戸口に吊るしたヤシの葉の暖簾が大きく揺れた。風が出てきたようだ。波の音が変わった。

 そろそろ夜更けだ。ロードは立ち上がって、外を振り返った。

 「フィオを呼んできます。」

外に出ると、昼間とは打って変わった冷たい風が顔に吹き付けてきた。フィオは、相変わらず海際で膝を抱えている。風に煽られてくしゃくしゃになった髪が飛沫を浴びて、後ろから見ると萎れているようだ。

 「いつまでそうしてるんだ? そろそろ中に入れよ」

 「……うん」

のろのろと立ち上がり、スカートを払う。いつもの元気は欠片もない。

 「落ち込んでてもしょうがないだろ。次に出来ることを探そう」

少女は、泣き出しそうな顔でロードを見上げる。

 「まだ、付き合ってくれるの?」

 「乗りかかった船だからな。それに、<影憑き>のことも気になるし。」

鼻をすすりあげ、少女は目尻を拭った。

 「ありがと」

いつになく弱気なフィオは、いつもとは違って見えた。勝気にしていても、やはり不安はあったのだろうとロードは思った。母が居なくなった頃の自分もそうだった。理由も分からず、ただ闇雲に動き回るだけだった。

 自分の中では乗り越えられたと思っていた古傷が、微かに疼く。

 だが、フィオの言う"お母様"は、ごく普通の母親ではない。居なくなったままでは困るのだ。何とかして見つけなければ。あるいは、何か手がかりだけでも。


 ――フィオを連れて戻ろうとしたとき、ロードの視界の端に何かが光った。


 「…?」

足を止め、彼は、島のほうに視線を上げた。月明かりに照らされた島の切り立った崖は白っぽく輝き、ヤシの木がそよいでいる。

 眺めていると、また、何かが輝いた。

 見間違いでは無い。マルセリョートの入り江のあたりだ。誰かいるのだ。彼は波打ち際を覗き込んだ。昼間は見えていた島へと続き砂浜は、今は波の下だ。

 「シンさん、舟貸してください」

駆け込んできたロードの剣幕に驚いて、シンが腰を浮かす。

 「どうした」

 「島に誰かいるんです。入り江に…」

シンの顔色も変わった。

 「こんな時間に? あそこは、用がない時は誰も行かないはずだが」

言いながら、男は蓋になっている小屋の床の一部を取り外した。床下には水の中まではしごがかけられ、小さな舟がつながれている。 

 「えっ何? また島に行くの? 待ってよ」

置いていかれまいと、フィオも飛び乗ってくる。シンは、櫂を漕ぎ出した。満潮近くなった海は砂浜をほとんど覆い隠し、波は高い。舟が大きく揺れる。小さく悲鳴を上げて転がりそうになるフィオを、後ろからロードが抱きとめた。

 「流れがやけに速い。しっかり掴まれ」

シン言った、その直後だった。

 ゴン、と船底に鈍い衝撃が走り、舟が大きく傾いた。

 「きゃっ」

 「うわ…」

岩に乗り上げたのかと思った次の瞬間、ゴゴン、と再び衝撃。今度は船が大きく左右に振られた。両側からほぼ同時に、何か大きなものが突き上げたような動きだ。

 「シンさん?!」

 「わからん! 何かが船底にぶつかってきてる。生き物だ、でかい…」

ゴン、と今度は船尾のほうで鈍い衝撃。ロードは、フィオを抱えたまま波間に視線を向けた。白く波打つ海の中に、舟の行く手を阻もうと波間を泳ぎまわる三角をした背びれがチラチラとが見え隠れしている。イルカ――いや、シャチか。

 「フィオ、炎を」

 「え…」

 「早く! 空に向けてでいい、この辺りを照らせ」

 「う、うん」

慌てて、少女は胸元に手をやった。金色の鎖がかすかに月明かりに光る。

 「ていっ」

フィオは、大きな炎の塊を頭上に放り投げた。大きく火花を散らして四方に飛び散ったその輝きが、辺りを眩く照らし出す。その一瞬、ロードの眼にははっきりと、相手の姿が見えた。

 「<影憑き>だ…」

その時、舟底が砂地に触れて、動きが止まった。シンが波打ち際に舟を寄せたのだ。

 「飛び移れ!」

怒鳴って、男は波を蹴立てながら砂浜の上を走っていく。慌ててロードたちも後を追った。背後から「ギチギチ!」という耳障りな声が追ってくる。けれど、どんなに騒ごうとも、海の生き物は浅瀬までは侵入できない。

 ようやく波打ち際を越えて硬い地面のある場所にたどり着いたとき、三人は、ほっとして胸を撫で下ろした。舟は潮に洗われる砂浜の上に取り残され、心細げに揺れているが、近くに<影憑き>がいるとわかっていて、取りにいくのは到底、無理だ。このまま夜が明けるのを待つしかない。

 「ねえ、ほんとなの? ほんとに<影憑き>?」

 「おれの眼が、見間違うなんてことはない。海に出るなんて話は、聞いたことがないが――」

シンのほうを見ると、男は、小さく首を振っていた。

 「たまに出ることはあった。この十年…"長"がいなくなってから。」

 「たまに、って…。」

 「だから、夜は舟を出してはいけない決まりにしている。誰かきまりごとを破った奴がいるのなら、連れて帰らねばならない。」

断固とした口調で言うと、男は、先に立って入り江のほうへ歩き出す。ロードは、少し離れてシンの後を追った。<影憑き>特有の不快な声が波の音に混じってそこかしこから聞こえてくる。一体どのくらいの<影憑き>が、この島の周りにいるのだろう。

 浜辺に突き出した岩を周り、入り江に踏み込もうとした時だ。

 「――ぐっ?!」

奇妙な声がした。

 「シン…さん?」

男の姿が消えた。ロードは、慌てて周囲を見回した。

 「どこですか?! 何が…」

視線を上に向けたとき、彼は言葉を失った。シンが宙に浮かんで、足をばたつかせてもがいている。黒い影のようなものが首の辺りに絡み付き、その先は、空を背後にして浮かぶ男の腕に繋がっていた。いや、…男の姿をした影、というべきか。暗い輪郭だった。人間の形をしているが、姿ははっきり見えない。星空が、そこだけ切り取られたかのように見える。

 「おや、おや」

別の方向から聞こえて来た声に、危うく思考が停止しかかっていた彼は、はっとして振り返った。すぐ頭上の岩の上に、誰かが腰掛けている。

 「あいつが掛かったかと見に来てみれば…、残念。違ったみたいねぇ」

 「何者だ!」

腰のナイフを引き抜きながら、ロードは、相手の姿を見定めようとした。声の感じからして、たぶん女だ。だが、こちらもそれ以上のことは分からない。輪郭はぼやけ、黒い影がたなびくように辺りに広がっている。

 「アガート、これはもういいのか?」

男のほうが低く尋ねる。

 「ええ、必要ない」

そのとたん、喉に絡み付いていた影が解け、シンは、砂に投げ落とされた。駆け寄ったロードの腕の下で、男は小さく呻いた。命に別状は無さそうだが、手当てが必要だ。

 彼は、宙に浮かぶ二つの影を睨みつけた。月明かりに照らされて、影が揺らめく。光よりも濃い影――<影>としか呼びようのない存在。<影憑き>から生物の輪郭を取り去って、その中に憑いたものだけを外に出したような感じだ。

 「お前たち――人間じゃないな」

 「あら、分かるんだ」

女のほうが薄っすらと笑い、すっと空中を滑るようにしてロードに近づいてきた。

 「な…」

 「おっと」

ナイフを構えようとしたが、その手が何かに押さえつけられた。動かせない。腕だけではない、体全体が何かに縛り付けられたようにぴくりともしない。ロードは、奥歯をかみ締めながら宙に浮かぶ女を睨みつける。

 「気に入らない眼ねぇ」

影のような腕が彼のあごをつかみ、無理に自分のほうを向かせる。至近距離から見つめる相手の目は、闇の中に浮かぶ燃えさしのような暗い赤だ。真っ黒に塗りつぶしたような姿の中で、そこだけが輝いて見える。

 「それに、何だか見覚えある気がする。どこかで会ったこと、ある?」

 「…あるわけ、…ないだろ」

 「そうよねぇ」

女は微笑んで、無造作に手を振った。その動きとともに、ロードの体も宙に投げ出される。地面に叩きつけられて、強烈な衝撃で思わず息を吐いた。世界が暗転しかかる。

 「ロード!」

どこかで叫び声がした。フィオだ。

 (ダメだ、隠れてろ…)

声が出ない。フィオが何か怒鳴りながら胸元の魔石を撫でるのが見えた。

 「あら素敵、魔法使いなんて珍しい」

 「こらー逃げるな! って…わっ、きゃ!」

 「邪魔よ」

 「――!」

どこかで、どさっと重たいものが地面に落ちる音がした。フィオも同じように投げ飛ばされたのだ。彼女がどうなっているのか確かめたいが、視界に星が明滅して、体がうまく動かない。ロードの頭のすぐ上で、話し合う声が聞こえる。

 「で、どうする? これ。壊してもいい?」

 「放っておけ。奴を探すほうが先決だ。」

 「えー? せっかくの玩具なのに」

 「お前が寄り道ばかりするせいだぞ」

気さくな女の口調とは裏腹に、男の声は、ひどく不機嫌そうだ。「気配は残っているのに、奴は既に去った後だ。ここで取り逃がすと、後が面倒なことになる」

 「仕方ないでしょぉ? 昼の世界って面白いんですもの。」

声が遠ざかっていく。

 「遊びは奴を仕留めてからだ。分かっているだろう? 我らがこの世界に顕現するには…」

波の音が静かに響いている。ロードがはっきりと覚えていられたのは、そこまでだった。




 もっとゆっくりして行けと何度も言われたのに、結局、帰ることに決めたのはその次の日のことだった。シンもフィオも軽い脳震盪だけだったし、ロードも、軽い打撲だけで済んだ。それに、ニコロをあまり長いこと待たせておくわけにもいかない。

 あの二人組がどこから来たのかは、結局分からなかった。何者だったのかも。ただ分かるのは、今の自分たちでは太刀打ちできないということだけ。命があったのは、運がよかったからだ。――次に逢えば、命はない。

 来た時と違って、帰りには、住人たち全員が見送りに来てくれた。シンの息子たちが笑顔で手を振っているが、追いかけられたことがトラウマになったのか、鴉は、フィオのカバンに隠れたまま出てこようともしない。

 シンが、ボートの側まで降りてきた。

 「すまなかったな、何も力になれなくて」

 「いえ、十分です。色々、ありがとうございました。」

顔を上げたとき、ロードは、自分覗き込むシンの眼がどこか懐かしいような薄い青であることに気がついた。彼ははっとして、周囲を見回した。桟橋の上に並ぶ女性や子供たち、若い男、年寄りたち。ここに住む人々の眼は、みな同じ色をしていた。

 自分と、よく似た――浅い昼の海の色。

 「シンさん、あの…」

 「また来い」

目尻に皺を寄せると、男は、ロードの頭にぽんと手を置いた。初めて見せた笑顔だった。

 「……。」

水際から桟橋のほうへ上がっていく男の背中に、ロードは、何も言えなかった。

 ボートが岩礁を離れる。島と、その周りに集まって住む人々の家とが小さくなっていく。

 ニコロの待つ船に戻る途中、彼はずっと、頭に置かれたシンの手のぬくもりを思い返し続けていた。

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