第8話 港前の戦い

 帆は風を受け、船は順調に滑っていく。行く手には、見慣れた灯台とポルテの港町が見えていた。帰りつくまであと少しだ。

 ロードが甲板に上がっていくと、ニコロは相変わらず船乗りの歌のサビの部分を口笛で吹きながら、陽気に操舵輪を握っていた。

 「よう、そろそろ入港だぜー。帆畳む準備よろしく」

 「分かってるよ。」

眩しい光に手を翳す。空は青く晴れ、海鳥たちは相変わらず騒がしい。

 「お嬢ちゃんはどうしてる?」

 「下で寝てる。行きよりはマシみたいだけど、やっぱダメだって」

 「そっかーははは」

陽気に笑うニコロの向こうでは、あの鴉が、暇そうに木枠の上にとまって海を眺めている。旅の間に、すっかり元気になった様子だ。ロードは微かに目を細めた。――やっぱり、鴉の中に青白く輝く何かが見える。

 最初に鴉を見つけたときから、ずっと気になっていたものだ。魔石とは違う何か。今まで、そんな輝きは見たこともない。

 見つめていると、ふいに鴉が振り返った。視線が合う。ロードは思わず目を逸らした。自分でもどうしてだか分からないが、とっさにそうしてしまったのだ。

 「おーい、ロード」

 「分かってるよ」

彼は慌ててロープに手をかけた。帆げたを登って、ロープを解こうとする。

 「…あれ」

と、その時、彼は、行く手に見覚えのある船が停船しているのに気がついた。港のかなり手前で普通ならそんな中途半端なところに碇を下ろすはずもない。

 「ニコロ、航路に停まってる大型船がいる。あれは定期船じゃないか?」

 「ん? どれよ」

舵を切りつつ顔を出したニコロは、額に手を翳してデッキの向こうを眺めやる。「あーほんとだ、何だ? あんな邪魔なところで何してんだ」

 「碇は下ろしてないみたいだな。ていうか、あれ… 沈んでないか」

喫水線を越えて、船の半分くらいまでが波に洗われている。それ以上沈まないのは、港に近い場所で水位がそれほど深くないからだ。

 ニコロの船が側を通り過ぎる時、ロードは、その船を間近に見上げた。その大型船は、斜めに傾いたまま砂地に乗り上げているようだった。無事だった荷物を運び出しているのか、船乗りたちが忙しく甲板を走り回っているのが見える。乗客たちはすでに助け出された後のようだ。

 「こんなとこで座礁するわけないのになあ」

 「ああ…」

ニコロは舵を切り、出発した桟橋の端へと近づいていく。ロードはそれにあわせて帆を降ろした。港へ入る最後の航路は、惰性でゆっくりと進むのだ。

 帆げたの上から港を眺めながら、彼は、今日は港の様子がおかしいと気づいた。

 座礁している一隻以外の定期船もみな帆を降ろしたまま、沖合いに出てゆこうとする船がいない。それに漁船も、港から見える範囲で網を投げている。

 どうやら、不在の間に何かが起きていたようだ。




 碇を下ろした後、ロードは、フィオを抱えるようにして桟橋に飛び移った。船酔いのフィオは、青い顔でふらふらしている。

 遅れてニコロも降りてきた。肩に棹を担いで、最初に会った時と同じような格好をしている。

 「助かったよ、ニコロ。」

 「なに、こっちも面白い体験させてもらったから。あの岩礁すっげえ魚釣れたんだぜ? いい穴場みっけたわ」

言いながら、笑顔で棹を振るまねをしてみせる。「今度ヒマな時に一緒に行こうぜ、釣り」

 「ああ。こっちの用事が済んだら、また戻ってくる」

 「楽しみにしてるからな」

手を振って、赤毛の青年はのんびりとした足取りでどこかへ消えていった。まるで、ほんの半時出かけていた近所の散歩から帰ってきて、また明日会う予定の知り合いと別れるかのように。彼らにとって数日や一週間の航海は日常茶飯事で、それが、船乗りの時間感覚なのだった。

 「大丈夫か、フィオ」

 「…うん、…なんとか」

言いながら、少女は軽く口元を押さえる。「…ごめん、やっぱりダメ」

 「仕方ないな。どこか休める宿を探すか」

村に戻るのは明日でもいい。というより、次の行き先はまだ決まっていない。"風の賢者"を探しに行くにしても、シンの教えてくれた「北の山脈」「塔に住んでいる」という情報だけでは、あまりにも大雑把すぎるのだ。それに、マルセリョートで出くわした、あの二人組のことも気になる。人間ではない、とすると――あれは、一体なんだったのだろう。

 フィオを連れて港を出ようとしたとき、船員たちが集まってひそひそと話をしているのに気がついた。

 「ほんとか? <影憑き>なんて… 海に出るのは聞いたことがないぞ」

 「嘘じゃないって。<王立>の連中が言ってたんだ。それに…この目で見たんだよ、あの夜。シャチかなんかが、海の中からこう…船を襲ってるのをさ」

ロードは思わず足を止め、耳を済ませた。彼らが話しているのは、あの定期船が座礁した夜のことのようだ。

 「しばらく沖に出るなって話だけどさぁ…なあ。」

 「どうする、安全なところなんて…」

 「夜明け前の漁も無理だ。なんとか日帰りで食いつなぐしか」

 「それより、もし町まできたらどうするんだ? 港にある船が壊されたら?」

 「灯台の明かりがあるからな、港の中までは入ってこんだろうよ。<影憑き>は町には来ないんだ」

噂話は、あちこちから聞こえてくる。所在なげに町をうろつく船員たちの表情は一様に暗かった。よほどのことがあったのかもしれない。宿屋の集まる広場へ向かおうとしていたとき、人ごみの中から彼を呼ぶ声がした。

 「ロード! 戻ってたのか」

それはアゴスティニだった。いつもならこの時間は酒場で飲んでいるのに、港に下りてきているのは珍しい。

 「無事でよかったわい。うちの孫はどうした?」

 「ニコロなら先に帰りました。港前に定期船が座礁してましたが… <影憑き>が出たっていうのは」

 「ああ、そうらしい。信じられん話だが、三日前のことで…」

話し出そうとした老人は、ふと、ロードの隣にいるフィオのほうに目をやった。

 「どうかしたのか、具合が悪そうだが」

 「船酔いなんです。彼女を休ませる場所を探そうと思って」

 「おお、そりゃいかんな。今は定期船が止まって、宿はどこも一杯だ。穴場を紹介してやろう。こっちだ」

老人の紹介で泊まることになったのは、大通りからかなり奥まったところまで入った、港を見下ろす高台の中腹に建っている宿屋だった。そこも、既に部屋はほとんど埋まっていて、ロードたちが滑り込んだのは最後の一室だった。

 「助かりました。今から村に戻るのはちょっと辛かったんで」

 「なぁに気にするな。それよか、お前たちのほうの旅は、問題なかったのかね」

 「ええ、でも…シャチの<影憑き>には、確かに逢いましたよ。」

 「ほう?」

老人の口元で、白い短いヒゲがぴくぴくと動いた。「やっぱり、沖合いのほうにも出るのか…」

 「何があったんですか? あの大きな定期船を沈められる<影憑き>なんて」

 「いやーそれがな。何か大きな影が体当たりしてきたというんだが… 鯨か何かだとか」

 「…鯨?」

アゴスティニが港のほうに視線を向けたので、ロードも釣られてそちらを見やった。高台からは、沖合いに傾いている定期船の船腹が、大きくへこんでいるのがはっきりと見てとれた。しかも船は、ちょうど灯台と港の先の中間あたり、航路のど真ん中を塞ぐようにして座礁している。これでは、ほかの大型の貨物船はしばらく港に出入りすることが出来ない。

 「それを調べに、王立ナントカの連中が来てるのよ。なんでも最近、方々で<影憑き>が出回るようになったとかで」

 「王立ナントカ?」

 「王立…ほれ、なんだったかのう。あの白い連中だよ」

老人は、灯台の方角を指差した。目を凝らすと、灯台に続く道を一列になってぞろぞろと歩く、確かに白っぽい服装の一団があった。揃いのマントに何か文様のようなものが染め抜かれている。遠目ではあったが、ロードにはなんとなく見覚えがあった。

 「アステリア王国の紋…」

そう、それは、この辺り一体を領土とする、アステリアの王国紋に間違いない。

 とはいえここは王国の中心部からは外れている辺境だし、首都方向に向けて定期船が出ていることを除けば、中央政府を意識することなど無い。その政府が、<影憑き>の異常発生に気づいてわざわざ辺境まで調査員を送り込んできたのだとすれば、ロードの感じていた<影憑き>の脅威は、彼の思うより深刻なものなのかもしれなかった。

 「あいつら魔法使いらしいんだがね。まーなんだ、安全に海に出られるようにしてくれるんなら誰でもいい。」

そんなことを言いながら、アゴスティニはポケットを叩いた。「おっと。タバコがきれちまったか。…それじゃあな、またうちにも遊びに来るんだぞ」

 「ええ。ありがとうございます」

去って行く老人の後姿を見ながら、ふと、島でのことを聞いてみようかと一瞬思った。だが、老人はきっと何も知らないだろうと思い直して止めた。マルセリョートに住んでいる誰か、あるいは住んで"いた"誰かが父親なのだとしても――、それはきっと、今は知るときではない。

 いつしか、日が暮れようとしている時刻になっていた。

 西の水平線近く、燃えるような赤い太陽がゆっくりと沈みかかり、波を白く煌めかせている。円弧を描く空にたなびく雲はみな朱に染まっている。

 日が沈み、空が冷めてゆく。やがて星が輝きだすまで、ロードは、じっと空を眺めていた。




 ドアをノックすると、中から返事があった。部屋に入っていくと、フィオは、窓辺に座って海を眺めていた。

 「気分はどうだ」

 「大丈夫よ。悪かったわね、手間とらせちゃって。」

ロードは抱えた紙袋から取り出したオレンジを一つ、フィオのほうに投げた。開いた窓から潮風が部屋の中に流れ込んでくる。空いているベッドに腰掛ながらサイドテーブルにちらりと目をやると、羽根をつくろっていた鴉が動きを止めて、意味ありげにこちらを見上げてきた。落ち着かない目だ。どう見ても鴉なのに、何故だか時々、人間のように思えてくる。何日も一緒に旅したせいだろうか。

 「ぼーっとしててあんまり聞こえてなかったんだけど、港に<影憑き>が出たんだって?」

 「そうらしい。で、船はしばらく出港禁止で、王立なんとか… 魔法使いが集まるところから、調査員が来ているらしい」

 「ふーん」

魔法使いと聞いても、フィオはあまり関心が無さそうだった。オレンジを頬張りながら、町の灯りを眺めている。

 「王国が動くってことは、ここら以外でも<影憑き>が出てるのかもしれないな。異常事態だよ。それにマルセリョートに出た、あの二人組…」

 「あいつらが森を襲ったのかも」

 「ん?」

 「考えてたんだけどさ。儀式の島…マルセリョートの沖の、"海の賢者"を呼ぶっていう小島も荒れてたじゃない? あれってもしかして戦いの跡なのかなって。」

振り返った少女の表情は、真剣そのものだ。「あいつらが、"海の賢者"やお母様に何かしたんじゃないかって」

 「"賢者"相手に戦ったって? でも、言い伝えじゃ"賢者"っていうのは、世界を創造した呪文を守ってるような凄い魔法使いだろ。まともに戦って勝てるのか? ていうか、戦う意味とか」

 「でもあいつら、どー見ても敵だったじゃない!」

 「…まあ、それは。」

 「きっと"海の賢者"が出てこられなくなった原因もあいつらなんだ。今度見つけたら、とっちめてやるんだから」

物騒なことを言いながら、フィオはテーブルの上に置かれた紙袋から、オレンジをもう一つ掴み出した。船酔いが引いてすっかり元気になったらしく、いつもの調子に戻っていた。

 ほっとすると同時に苦笑しながら、ロードは、ベッドの端から立ち上がろうとした。窓の外の異変に気づいたのは、その時だ。

 「――あれは何だ?」

 「え?」

振り返ったフィオは、目をしばたかせ、闇の中に視線を彷徨わせている。「何? どこ」

 「灯台のあたりだ」

言いながら、彼は窓枠から身を乗り出す。灯の消えた港町の沖合い、波に交じるようにして何か大きなものが動いている。それを照らすには灯台の灯はあまりに弱く、それはまるで、闇の中で吹き消されそうに浮かぶ一本のロウソクのようにも見えた。

 風に乗って、微かな音が聞こえる。ドン、ドン、と大砲を撃ちあうような低い音だ。

 「あ!」

フィオが立ち上がった。「見えた、今。何か光った」

 灯台のふもとのあたりで、いなづまのような光が走ったのだ。遅れて、続けざまにドン、という音が響いて来る。

 「誰か魔法で戦ってる―― 行ってみよう!」

言うなり、少女は椅子にかけてあったケープとカバンを掴み取って身を翻した。

 「あ、おい! 待てよ」

ロードは、慌てて後を追った。廊下に飛び出したところで、他の宿泊客とぶつかりそうになる。

 「きゃっ」

 「あ、すいません。ちょっと急いで…」

 「一体何事だい? なんだか、爆発してるみたいな音が聞こえるけど」

 「分かりません、港のほうで何か…」

ばたばたと階段を駆け下りて飛び出してゆく二人を、宿の受付にいた老人が怪訝そうな顔で見送っている。灯台までは、一本道の坂だ。ウサギが飛び跳ねるように駆けてゆくフィオの足は速く、ロードはなかなか追いつけない。

 今度は、音がすぐ近くで聞こえた。港の桟橋のほうだ。白いローブが海風にはためいている。

 「そっちだ! 逃がすな」

一人の男が杓杖のようなものを翳すと、バリバリという音と共に杖の先に光が生まれ、波に向かって照射される。だが波間を泳ぎ回る黒い影の動きは素早く、命中させることが出来ないでいる。

 「駄目です、波が邪魔で…水中までは届かない」

 「くそ、もっと光が必要だ。おい! 油はないのか」

その時、沖合いで、水しぶきとともに黒々とした流線型の身体が大きく跳躍するのが見えた。――大きな鯨だ。

 ぞっとして、ロードは思わず足を止めた。間違いない。あれも、<影憑き>だ。

 「フィオ!」

ロードは、声を張り上げた。先を行く少女が振り返る。

 「こっちだ!」

叫んで、彼は、鯨の見えた方角へ向かって走り出した。灯台の先のほうだった。宿から見えた影も、その鯨に違いない。

 潮が満ちて、灯台へと続く道は飛沫で洗われて光っている。月は空に輝いているというのに、影は、足元まで迫っている。

 駆けてきたロードたちを見て、灯台の根元に集まっていた白マントの集団がいっせいに顔を上げた。一人は怪我をしたのか、蒼白な顔でうずくまっている。

 「何だ、君たちは。民間人か?」

中の一人が、フードを跳ね上げて近づいて来た。まだ若いが、妙に威厳に満ちた貴族的な雰囲気がある。耳に、特徴的な長い房のついた飾りが揺れる。

 「<影憑き>ですよね、あれ」

 「ああそうだ。船を沈めた凶暴なやつだ」

言っている最中にも、頭上から潮が降り注いで、魔法使いたちが悲鳴を上げた。鯨が灯台に体当たりしてきているのだ。いくら頑丈な土台の上に立っているとはいえ、こう何度も体当たりされては、土台から緩みかねない。ロードには、白ローブの魔法使いたちの一団が、ここを動けない理由が分かった。

 「…っくそ、完全にナメられてるな」

 「あんなの、焼いちゃえばいいじゃない!」

言うなり、フィオは胸元の魔石を撫でて片手を宙に差し上げた。鯨の尾が水中から高く差し上げられた瞬間を狙ったのだ。投げつけられた炎は海面に戻ろうとする尾びれをとらえる。「ギチギチ!」という悲鳴とともに焦げ臭い匂いがして、水面に炎が消えてゆく。

 若い男が、目を大きく見開いた。

 「君たちも、…魔法使いなのか」

 「いや、おれは違いますが。多少の援護になればと…わっぷ!」

 「きゃっ」

横から殴りつけるように潮が飛んできた。お返しにと、鯨が尾を近くの水面にたたきつけたのだ。頭から水を被った少女は、雫を垂らす前髪を払いのけ、憤怒の形相で海を睨みつけた。

 「っムカつくー! よっくもやったわねこの…!」

 「わ、こら待て」

 「ロード、あんたも攻撃しなさいよ!」

 「無茶言うな。相手は海の中なのに…」

それでも腰のナイフに手をやろうとしたとき、足元が激しく揺れた。

 「基盤部分に体当たりしてきている。さっきからこの揺れだ、このままでは持たない」

早口にそう言って、男は他の白ローブたちのほうを振り返った。「奴を追い込むしかない。灯台の光は全開か?! 援軍の船はどうした」

 「やってます! でも、船のほうは無理です。沖合いから来てる奴が…数が多くて、とても海に出られる状況では…」

 「くっ」

灯台のゆっくりとした動きでは、光を狙って鯨に当てることは不可能だ。それが分かっているからなのか、鯨のほうは悠々と波間を泳ぎ回り、人間たちをあざ笑うかのように近づいたり、遠ざかったりしている。フィオが隣でイライラしているのが伝わってくる。炎の射程距離に入ってこないからだ。

 ロードは、ナイフを一本、引き抜いた。この距離でも、自分のナイフなら届く。――確実に。ただ、手の平ほどの長さしかない投擲用の小型ナイフでは、鯨の分厚い皮膚に刺さったところで相手にダメージは与えられない。一体どうすれば、あの巨大な<影憑き>を止められる?

 その時だ。どこかから声が響いた。


 『――急所を狙え』


 「?!」

ロードは、思わず周囲を見回した。誰もいない。だが、声は確かに、耳元で聞こえる。

 『<影>に憑かれた元の生き物の輪郭に囚われるな。<影>本体の心臓を狙え。お前なら視えるはずだ』

囁くような声。風に乗せて、どこか遠くから聞こえてくる。

 「何…言ってるんだ? 一体、誰…」

 『集中しろ、――多分、お前なら出来る』

半信半疑のまま、ロードは目を凝らす。波間に見え隠れしている、黒い背中。その胴体の真ん中、僅かに左胸に寄ったあたりに薄っすらと赤く輝くものが見えた。

 「あれ、…か?」

一か八か、やってみるしかない。彼はナイフを構えると、不思議と迷いは消えていた。出来る、という確信に満ちた感覚が押し寄せてくる。彼は光めがけてナイフを放った。腕輪の石が微かな光を帯びるとともに、刃がきらりと光を反射する。波頭を越えて狙った一点に深々と突き刺さったのを確かめると、そのまま腕輪の力を込めて、刃を押し込んだ。そしてナイフが柄まで埋まりきった瞬間、鯨が声にならない叫びを上げて体を大きくそらした。

 「な、」

ローブの男の表情が硬直する。

 「君、今…何を」

 「え、あれ…?」

自分でもわけがわからずに、彼は手元を見下ろした。顔を上げると、硬直したままの鯨の身体が波間に沈んでいくところだった。と同時に、その身体から溶けるようにして<影>が流れ出してゆくのが視える。

 本当に、今の一撃だけで倒したのか。

 「ロード、すっごい!」

フィオが駆け寄ってくる。「どうやったの、今の?」

 「いや、…なんかよく分からなくて」

振り返ると、さっきの若い男を除く白いローブの魔法使いたちが、次々とへたりこんでいくのが見えた。魔法の行使には精神力を使う。既に限界だったようだ。

 「…君たちは一体何者だ」

男の声は、さっきまでとは打って変わった警戒の色を帯びている。

 「我々が手こずるような<影憑き>を易々と始末できる魔法使いが、このような辺境にいるなどという話は、聞いたことがない」

 「いや、だからおれは魔法使いじゃなくて…。この近くの、フィブレ村に住んでいて、たまたまこっちに来てて」

フィオは違うが、話がややこしくなりそうだったのでそこは伏せておいた。

 「そうそう、ていうか、その王立ナントカ、って何?」

 「…<王立魔道研究院>。アステリア王国が研究を進める魔法と魔道の学院だ。才ある者を集め、一流の魔法使いとしても育て上げる」

 「へー魔法の学校みたいな感じなんだ。でも弱…」

 「こら、フィオ!」

ロードは、慌てて少女の口を塞いだ。男は小さく咳払いする。

 「確かにまだ未熟な者が多い。しかし、部下を援護するわけでは無いが――これでも、彼らは実戦経験も豊富な、優秀な魔法使いたちなのだ。」

 「ですよね。あんなに魔法を使えてたし…」

 「へくちっ」

フィオが小さくクシャミをした。ロードは慌てて上着を脱いで少女の肩にかける。

 「帰って着替えたほうがいいな。…すいません、それじゃ」

 「……。」

何か言われないうちにと、ロードはフィオを追い立てて、半ば逃げるようにして港を離れた。港の前で、シャチの<影付き>のほうを追っていた魔法使いたちは、まだ波間に向かって格闘しているようだ。だが、こちらも精神力が尽き掛けているのか、最初の頃の勢いはない。

 坂道に差し掛かった時、ふと彼は振り返って、灯台のあたりに視線を転じた。白いローブを着た人影が、相変わらずその辺りを動き回っているのが見える。

 「フィオ、さっき声が聞こえなかったか?」

 「え? 声って?」

少女は不思議そうな顔をしている。そう、フィオに聞こえていたはずはない。あれは耳元で囁くような声だった。そして、あの場にいた誰とも違っていた。

 (だとしたら、さっきの声は、一体…)

眉をひそめる彼は、気づいていない。

 背後のすぐ頭上、船の屋根上から見下ろしている何者かがいることに。

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