第6話 沖合いの岩礁
約束の日、ロードたちは再びポルテの港町を訪れていた。
晴れた桟橋には付近の入り江で操業する漁船が行き交い、近くの集落からの貨物船がやや沖合いを航行している。ニコロは、その中の隅の方にひっそりと停泊している船の上で、器用に帆げたに登ってロープを解いていた。
「おーい、ニコロ」
ロードが呼びかけると、赤毛の若者が頭上から手を振り返す。
「よーう、準備は出来てるぜ。乗ってくれ」
波で上下に揺れる板を渡って甲板に飛び移ると、ニコロがするすると降りてくる。前回見た時よりはきれいになって、帆もきちんと張られている。
「すぐ出る? 二人だけだよな」
「ああ、それと――」
上空を旋回する海鳥たちの喧しい声に呼ばれるように、フィオの肩掛けカバンから鴉がひょいと首を出した。
「ぷっ」
ニコロが噴出した。「何それ、ペット?」
「いや、そういうわけじゃないんだが…」
「だって、置いていくわけにいかないでしょ?」
フィオが口を尖らせる。「元気になったけど、まだ飛べないのよ」
森で拾った鴉も連れていく、と言い張ったのはフィオだった。薬草のお陰か、翼の傷はかなり良くなりはしたが、まだ自由に飛ぶことは出来ない。森に返すわけにもいかず、かといって人間に懐いているわけでもないのに村の誰かに預けていくわけにもいかず、結局、自分が責任を持つからとフィオに押し切られる形で連れてくることになったのだった。
「ま、いいけどさ。それじゃ出港するぜ。ロード、やり方は覚えてるだろ? 手伝ってくれよ」
「分かってる」
荷物を上着をその場に置いて、ロードは帆げたに登った。船の出港を手伝うのなど久し振りだ。碇を上げ、帆を広げると、小型の木造船はかすかな軋む音をたててゆっくりと波の上に滑り出す。
「動いた!」
フィオのはしゃいだ声が船首のほうから聞こえてくる。
「よーし、追い風だ。これならすぐ速度が出るぞ。ロード、周り、ちっこい漁船はいないよな?」
「大丈夫だ。周囲船影なし。進行方向問題なし」
帆げたの上に立ったまま、彼は、水平線に目を向けた。マルセリョートのあるという岩礁地帯はずっと沖合いで、ここからでは影も形も見えない。押し寄せてくる潮風に身体全体が包まれて、ロードは、一瞬、自分が何のためにここにいるのかを忘れた。
きらめく水平線に、数多くの船が行き交う海。母に聞いた冒険話に憧れて、小さい頃は、船乗りになりたいと思っていたこともあったのだ。暇を見つけては港へ来て、ニコロと一緒に船の仕事を手伝っていたこともある。
だが結局、海は家のベランダから見る"遠い憧れ"のまま、"自分の庭"になることはなかった。
ニコロの船が、ほかの船と航路が交わる危険性のない沖合いに出た頃を見計らって帆を降りてみると、さっきまで甲板の上を走り回っていたフィオの姿が見えなくなっていた。
「あれ? フィオは」
「あっち。」
操舵輪を握ったまま、ニコロがにやにやして船尾のほうを指差す。行ってみると、フィオは日陰にカバンを放り出して、青白い顔で横になっていた。
「…まさか、船酔いか?」
「きもちわるい…。」
小さく呻いて、額に手の甲を当てた。その枕元では、鴉が困ったような顔で首をかしげている。
「船がこんなに揺れると思わなかった…」
「やれやれ。」
先は長いというのに、これでは思いやられる。「今日の波は穏やかなほうなんだけどな。…まあ、横になってれば、そのうち落ち着くよ。水飲むか?」
「いらない」
「そうか。」
フィオをその場に残して立ち去りかけたとき、小さな羽音がして、鴉がひょいとロードの肩に飛び乗った。ここ数日で、長距離は飛べないが、飛び上がるくらいは出来るようになっていたのだ。片方の翼に結ばれた包帯の端がひらひらと風にたなびいている。彼は気にせず、そのままにしてニコロのところに戻った。
操舵室からは、陽気な口笛が聞こえてくる。ロードが入っていくと、ニコロは口笛を止めた。
「どうだった?」
「寝込んでた。船は初めてらしいから、はしゃぎすぎたんだろうな」
「ははっ、やっぱりね。初心者にいきなり外洋はキツいわなぁ」
ロードは、行く手の海に視線をやった。海は比較的穏やかだが、それは見た目だけだ。このあたりの海は波の下に岩礁が隠れていて、流れが速い箇所が多い。海を熟知した地元の船乗りたちでも、航路を外れることは嫌がる難所だ。
「悪いな。こんな用事頼んで」
「なーに気にするな。オレ今、仕事してないし。」そんなことを悪びれもなく言う。
「船乗りやるのは好きなんだろ?」
「んー、まあな。けど親父の船に乗んのはイヤなんだよ。それに、どこの船に乗ったところで、コネで就職したって言われそうでさ」
笑いながら言うニコロの日に焼けた横顔は、酒場で話したアゴスティニをそっくりそのまま若くしたようだった。顔の輪郭も、雰囲気も、不敵な輝きを宿す眸も、瓜二つだ。
「ジイさんから聞いた。マルセリョートってのは、お前んとこのおふくろさんが船乗りやめる前に行ってた場所なんだって?」
「うん、まあ。それは後から知ったんだけど」
「ジイさんが船難破させたことがあったなんて知らなかったぜ。へへ、ジイさん、いつも"ワシが船長なら船は安泰だ!"なんて言ってるクセにさ」
ニコロは操舵輪を大きく右へ回す。行く手に海面が黒くなっている場所を見つけたからだ。岩礁だ。船が傾いて、船尾のほうで小さな悲鳴が上がる。二人は、どちらからともなく小さく笑った。
「今回の件、元は彼女の依頼なんだ。人を探してるのはフィオで、おれはその手伝いだけだ」
「ふうん。」
「…お前が想像するようなことは何も無いよ。母さんの行方の手がかりは今も何も無いし。おれはただ、なんとなく人の役にたったフリをして気を紛らわせてるだけさ」
カラカラと舵輪が戻ってくる。
それきり沈黙がおちて、ロードは、操舵室を出た。背後からは、元のようにニコロの吹く口笛が聞こえ始める。陽気な船乗りの歌、海をゆく楽しさを歌った曲のサビの部分のメロディだ。
その曲を聴きながら、彼は船首に立った。白い波がはじけて、船の後ろに泡の尾を作る。空は高く青く、しばらくは天気が崩れることもなさそうだ。このまま順調に行けば、予定よりは早く岩礁地帯に着けるかもしれない。
海の色が黒っぽく変わり、船底が頻繁に砂地に擦れるようになってきたのは、港を出て数日たった頃だった。浅瀬になったのだ。行く手には尖った岩が波の間で洗われ、これ以上進むことは難しい。ニコロの指示で、ロードは帆を畳んだ。碇を下ろすと、鎖が幾らも引っ張られないうちに海底にたどり着いた手ごたえがある。
「んー、この船でも、こっから先はちょいと無理だな」
そう言って、ニコロは頭をかいた。
「もう少し先まで行けないのか? アゴスティニさんの話じゃ、貨物船が途中の岩礁に引っ掛かったらしいが」
「干潮なんだよ。今日は水位が低いんだ。ほら昨日、月が明るかったろ」
「ああ…」
そういえば、昨日の月はほぼ満月に近かった。月の満ち欠けが潮の流れに関係することなど、ロードはすっかり忘れていた。
「どうする? 小型の救命ボートなら下ろせるが。」
「貸して貰えるなら、使うよ。――待っててもらえるか?」
ニコロは肩をすくめた。
「釣りでもしてるさ。この辺は来たことがないし、案外穴場かもしれない」
「そうだな」
手すりから覗き込んだ海は透明で、澄んだ浅い水の中に、魚たちの群れが泳ぎ去って行くのが見える。岩礁と、そこに生えた海草を隠れ家にして生きているのだ。
船尾に吊るしたボートを下ろしていると、船室から青い顔のフィオがよろよろしながら姿を表した。
「…なに? もう着いたの」
「もうちょっと。ここからはボートで行く。大丈夫か? ひどい顔だぞ」
「…だいじょうぶ」
とはいうものの、フィオはここ数日、ほとんど食べ物も口にせず、寝ているか甲板でぼんやりしているかだった。森に住む魔女が海に慣れるのは、まだまだ先のことのようだ。
「これでよし、と」
船から縄梯子がボートの上に下ろされる。二人が乗り込むと、頭上からニコロが声をかけた。
「船は今の場所に停めておくから。用事済んだら戻ってきてくれよな。長くは掛からないんだろ?」
「ああ。目的地の場所さえ分かれば。」
それが一番の心配だった。だが、この浅瀬には波際に顔を出しているような岩ばかりで、視界を遮るものはほとんどない。いくら広いとはいえ、島でもあれば、すぐに見つかるはずだ。
「気をつけてな。」
ニコロが手を振り、ロードは、櫂をとって力いっぱいボートを漕ぎ始めた。フィオも一応は櫂を手にしているが、目は虚ろだ。その横には、ちゃっかりと鴉が乗り込んでいる。
光に照らされて波頭が輝き、潮風が髪をかき乱しながら通り過ぎてゆく。ボートが浅瀬に侵入すると、驚いた魚の群れがさっと左右に散らされた。陸の近くでは見ることの無い澄んだ海に、海は見慣れているはずのロードでも心が浮き立った。
「…きれいね」
フィオが、ぽつりと言った。顔色は良くなってきている。
「漕いでると周り見てる余裕がないし、後ろが見えないんだ。気分良くなったんなら、代わりに入り江を探してくれ」
「分かってる。あたしが来たいって言ったんだもの。マルセリョート… あ」
「どうした?」
振り返って手を翳したロードは、日差しにきらめく水平線に、何か黒っぽいものが固まっていることに気がついた。
小屋だ。
岩の上にはりつくようにして、小さな小屋が見える。
「あれ、きっとそうよね」
「行ってみよう」
ボートの向きを変える。小屋の側には切り立った崖を持つ大きな岩山のようなものが見えていた。
近づいてみると、そこは、幾つかの岩礁の上にヤシを渡して水上に作られた小さな村だった。アゴスティニの言ったとおりだ。十軒ばかりの小屋が立ち並び、それぞれの家の前に小さなボートが係留されている。ロードたちが近づいていくと、不思議そうな顔でこちらを見つめていた女性や子供たちはわっと声を上げて家の中へ隠れてしまい、変わりに、体格のいい男が一人、鬼のような形相で手に銛を持って表に出てきた。もう若くはないが、まだ中年と呼ぶには早いという年齢。上半身は裸で、首元に提げた輝石の他は腰に僅かな衣服を巻きつけているだけだ。
男の鬼気迫る表情に、ロードは、あわてて櫂を置いて両手を挙げた。
「あ、えーと… おれたちは敵じゃないです。って、言葉通じるのかな」
「通じている」
不機嫌な声で言いながら、男は不審と敵意を宿した薄青い目をちらりと脇に向けた。
「船はそこに止めろ。降りたらこっちへ来い」
言われたとおり船を下りると、男は、銛からは手を離さず、一定の距離を置いてロードの出で立ちを上から下まで眺め回した。その視線が彼の腰ベルトに止まった時、何故か、男の表情が僅かに動いた。
「――お前は何者だ。何をしに来た?」
「ええと。おれはロード、ポルテの町の近くに住んでます。こっちはフィオ。ここに来たのは…知ってるかどうか分かりませんが…"海の賢者"を探しに…。マルセリョートという場所の近くにいるかもしれない、というので」
ここは正直に答えるしかない。この男はここの住人だ。"海の賢者"が本当にこの近くにいるのなら、住人が知らないはずはない。
男はふんと鼻を鳴らした。
「どこでそんな噂を聞いた」
「噂じゃないわ、お母様に聞いたのよ!」
と、フィオ。男は、ロードの後ろに隠れていた少女にはじめて注意を払った。女子供は、最初から警戒の対象ではないようだった。
「彼女はシルヴェスタから来たんです。その、…"森の賢者"のところから」
「ほう」
男の表情がさらに別のものに変わっていく。その頃には、ロードたちの周りは遠巻きに、別の何人かの男たちに囲まれていた。興味津々なもの、警戒しているもの。まだ子供のような若い男もいれば年寄りもいる。どうやらここには、思っていたより沢山の人間が暮らしているようだった。
「――ついて来い」
そう言って、男は踵を返した。どこへ連れていくつもりなのだろう。ロードたちは、何も言わずに後ろに従った。
ヤシの葉で屋根を葺いて作った小屋の間を通りぬけ、岩礁に渡された橋を過ぎて…、向かう先が、近くの切り立った岩山だと気づいたのは、最後の家を通り過ぎたときだった。そこから先は橋はかかっていなかったが、潮の引いている今は乾いた白い砂地が水面の上に顔を出している。
間近で見上げると、岩山は、まるで島を空に向かって持ち上げたような形に見えた。だが、反対側は大きくえぐれて、丸く落ち窪んでいる。
砂浜を渡りきった後、男は、ヤシの木立の途切れるあたりで足を止めた。
そこは落ち窪んだ崖の真下で、円弧を描く白い砂浜が広がり、「入り江」と呼ぶに相応しい場所だった。
「うわ、すごい! 砂が星になってるっ」
声を上げて、フィオが足もとの砂を救い上げる。
「星?」
「ほら見て」
手の平に載せた砂を見ると、確かに、砂粒の中に小さな星のような形をしたものが混じっている。
「ほんとだ。何だろうこれ」
大きな咳払いが聞こえた。はっとして、二人は慌てて砂を捨てて立ち上がる。
「ここがマルセリョートだ」
と、男。
「…お前たちが"森の賢者"の使いだという証拠はあるのか?」
「えっここ? あっ、てことは…!」
「証拠はあるのか?」
繰り返し尋ねる男の口調には、最初のものとは違った警戒が含まれている。だが、その尋ね方は、男が何かを知っていることを意味していた。
「証拠とか…そんなのない…けど、あたしシルヴェスタの魔女よ。ねえ、森が大変なことになってるの! お母様がいなくなって…それで」
「行方不明?」
「彼女の言うお母様っていうのが、"森の賢者"のことらしいんです。それで、"海の賢者"なら何か知っているんじゃないかと手がかりを探しに来たんだ。本当にこの近くにいるんですか? 逢うことは?」
「……。」
男は視線を逸らし、足元に落とした。「…それは無理だ。」
「何故ですか?」
「"長"は…。」
言いかけて、言葉を切る。何かを考え込んでいるようだった。「…俺の一存では、決められん。お前たちは、しばらくここで待っていろ」
「え、ちょっと?!」
男は大股に、さっさと元来た道を引き返していく。呼び止めても振り返りもせず、あっという間に姿を消した。ロードたちは、置き去りにされた格好だ。
「何なの、あれ。」
「様子がおかしかったな。もしかしたら、こっちでも何か起きているのかも」
「ええ? それって――。」
悪い予感が当たらなければいいのだが、と思いながら、ロードは入り江の向こうにある岸壁を見上げた。波が長い年月をかけて削りとった岩壁の上には、ヤシの木のそよぐ林がある。少なくとも、ここがマルセリョートであることは間違いない。そして、ここの住人たちが"海の賢者"について何か知っているらしいことも。
振り返った時、ふと彼は、もう一つ、岩礁のような小さな島があることに気がついた。真ん中に杭がたてられている。あれは、一体何なのだろう。
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