第52話 もう一度
僕は立っていた。
何もない空間に立っていた。
ああ。ここは夢だ。
真っ白な空間。何もないようで、ぼんやりと何かの気配を感じる。
霧の中にいるような、それにしては暖かいその場所で、僕はきょろきょろと周囲を見渡した。何もない。けれど。
夢なら会えるだろうか。
君にあえるだろうか。
「虚……」
僕のつぶやきに、答える声があった。
「そら」
その声は僕の後ろから聞こえた。
「うつろ?」
君なの? 焦燥感に駆られて振り返った僕は、しかし次の瞬間目を見張った。
「あれ?」
そこには虚はいなかった。あったのは、ひどく汚れた部屋。
狭いリビング。古びた押し入れ。ずっと古いまま、つかなくなったテレビ。
服が、ごみが散らばている。
カーテンは閉めたままで、外の光は入ってこない。
湿った、ひんやりとした空間。
「ここ……」
覚えがある。
どれもこれも見おぼえがある。
あちこち見まわせば胸を突くのは郷愁か、あるいはただのむなしさか。
ここに、僕はむかし住んでいた。母と一緒に。
――僕の家だ。
◇ ◇ ◇
ふと、気づけば、僕は机の前に座っていた。
妙にぼんやりとした気持ちで机の上の皿を見つめる。
お皿からお箸でつまんだ肉のこま切れを口に入れて、僕はすぐにそれを吐き出そうとした。
酷く苦くて、妙にねっとりとしていた。
吐き出したい。なのに強引に口を押えられて、ごくりと飲み込んでしまう。それでもどうにかふりほどいて、げほげほと吐いて、胃が空になるまで吐いて、僕ののどが痛くなるまで吐いて、僕はごろりと転がった。
そのまま転がされて、僕は仰向けになる。そして僕の上に乗りかかってくる人を見上げていた。
顔の両サイドに、黒い髪がさらりと垂れている。
その髪を追いかけて、僕はそこにいた人の顔を見ようとしたけれど、影になっていてよくわからなかった。
突然、僕の首に何かが絡みついた。
冷たい。とても冷たい。
空気に反して乾燥していて、骨ばっているような気がする。
僕は、それが手だと気づいたとき、おなじように相手の首に手を伸ばしていた。
ただただ必死にその細い首に手を伸ばす。
ひんやりとしたの首に、僕の指がまとわりつく。
痛みはない。呼吸のしづらさもいつの間にかなくなっていた。
上から大粒の何かが落ちてくる。
わからない。これはなんだろう。
僕の首にまわるひんやりとした手の感触を感じながら、僕はその細い首をただひたすらに握りしめていた。
気が付けば、僕は座り込んでいた。
隣には女の人が倒れてる。
「おかあさん」
僕は無意識にそう呟いていた。
「おかあさん」
「おかあさん」
ぽろぽろと頬を伝って落ちる雫。僕の中身が空っぽになりそうなほど。勢いよく溢れて止まらない。僕はそれを止めるつもりもなかった。
ふと気配を感じて僕はそちらをみる。
隣に、僕と同じ顔をした人が座っていた。
へたり込んで、僕を見つめている。
だれだろう。
そうか、兄さんだ。
「兄さん、僕、僕ね。お母さんのこと……」
兄さんは小さく首を振った。
そのまま、何も言わなくなる。どうして? ねえ何か言って。いつもみたいに。
「大丈夫。空じゃない」
本当に?
僕じゃない?
それならいいんだ。そう思って僕は言葉を繰り返す。
「……僕じゃない」
兄が、虚がうなずいた。
それを確認した瞬間、僕は再び何もない空間にいた。周りには何もない。空白の空間にぽつんと立っていた。
どくどくと耳の中で音が聞こえる。心臓が早鐘を打つ音。
今、見たのは記憶? 母さんを殺した時の記憶?
僕の?
いや、違う。今のは虚の記憶に違いない。だってそう虚が言った。僕じゃないといった。それが真実のはず。
……虚の記憶。本当に?
子供のころ、僕には何も与えられなかった。
暗い押し入れに閉じ込められて、僕はいつも一人だった。
呼んでも誰も答えてくれなくて。
殴られた。けられた。
顔をぬぐったら血がついて、僕の唇は裂けてしまっていた。鼻血も出ていた。
口に入れる食べ物はいつもどこか奇妙な味がして、
そして最後は、首を絞められて……。
気づけば、お母さんは死んでいた。
そうだ。あれから僕は人からもらったものを食べられなくなった。思い出すから、あの苦しさを。
あの時僕は、僕が殺したのではないかとすら思って、でも兄さんがそれを否定したから、僕はそれを信じた。
僕じゃない。
兄さんでもないよ。
別の誰かだよ。
僕はそう思った。
でも、それは本当じゃなかった。
進士くんの言うように、本当は虚がしたことだったのか?
それとも……。
そもそも、虚はいつから僕の隣にいたんだろう。
唐突にそんな疑問が浮かぶ。
今見た光景が思い出される。突然気づけば隣にいた。それより前は? 虚が隣にいた記憶がある。あるのに、実感がない。
虚が兄だと思っていたのは僕の妄想だった。ならば、いつから兄がいると思っていた?
母さんが死ぬ前? それとも、死んだ後?
混乱が僕を包みこんで、ひどい吐き気に襲われた。
ふと気配を感じて顔を上げる。いつの間にか離れたところに虚が立っていた。
僕は虚を見つめ、虚も僕を見ていた。
けれど、どうしただろう。その真摯な視線は、僕に僕自身の罪を突き付けるようにすら感じられる。
真実が知りたい。
本当のことが知りたい。
誰が母さんをころしたの?
虚は何も言ってはくれない。
ああ。今無性に、君と話したいよ。
◇ ◇ ◇
「表屋くーん。おーい」
僕ははっと勢いよく目を覚ます。
どうやら仰向けに寝かされている。そう気が付いて、僕は緩慢な動作で体を起こした。
途端に左の脇腹と左の太ももに激痛が走る。
僕は体を折り曲げてそれに耐えるけれど、それでおさまるものじゃない。痛い。痛い。それしか考えられないくらいの痛みだった。
「あー。痛み止め効いてないか。あの薬よくきくんだけどなぁ」
その声に反応して横を見れば、そこには暗丘さんがしゃがみこんで僕を見ていた。
「暗丘さん……」
「うん。おはようさん」
「痛いんですけど……」
「まぁ、そりゃあ、刺されてるからな。まぁ傷は意外と浅かったぞ。よかったな」
よくはない。
不幸中の幸いかもしれないけれど、よくはない。
僕は眉を寄せ渋面を作ってみせて、彼に無言の抗議をしてみる。当然のように
諦めて周囲を見渡す。僕の部屋、302号室だ。
「あの、みんなは……」
尋ねると、暗丘さんはため息を吐き出した。
「それをたずねるかね、最初に。いい子だなお前さん」
ズキンと胸が痛んだ気がした。
いい子なんかじゃない。僕は。
そんなことを一瞬思って首を振る。今はそれではない。そうじゃなくて。
「みんなまぁ、無事だろう。さっきの女は縛って放置してる。まぁ今更悪さはできないようにしといたから」
具体的な方法については聞かないことにしよう。
「あの人、この後どうするんです?」
「さあな。まぁ今回のことは管理人次第だろう。あちこち汚しまくったし、壊しまくったし? 管理人も怒り心頭って感じだろうからなあ」
「管理人さんが? 警察ではなく?」
「あいつ、203の新しい住人」
「え」
あの人が……。
なるほど。住人のことは管理人さんがどうにかするという事なのか。
僕が一人納得してうなずいていると、不意に暗丘さんがまじめな顔をして僕の名前を呼んだ。不思議に思って見上げる僕を、暗丘さんは真剣なまなざしで見つめている。
「ずっと思ってたことがある」
「……はい」
「……君は二重人格で、いままでもあれこれはすべて虚という兄がやってきた。そんなふうにみんな思ってた。だが、本当にそうだったのか?」
僕は目を見開いた。
母さんの夢を見たから、もしかしたら母さんを殺したのは……そんな風に考えていた。けれど、すくなくともさっき、あの女の人を殺そうとしたのは、まぎれもなく。
「僕は……」
答えかけて、しかし答えは出せなかった。
ああ、もしや、今までの女性たちを殺したというのは……。
いや。それはない。僕は首を振る。
女性たちの失踪事件にかかわっているのがどちらか、という点では、おそらく虚がしたことなのだと断言できる。
確証はないけれど、そうである気がする。
「さっきのは、あれはお前だろう、空くん」
僕が混乱しながら思考を巡らせていると、暗丘さんが確証を得た。そんな顔で言った。
僕は小さく頷いて返してしまった。
さっき、あの女の首をしめて、僕は彼女を殺そうとした。
それは事実だ。
そしてあの時、僕は確かに笑っていた……。
狂っているは虚じゃなく——。
「……僕は、僕が思っているよりずっと、普通じゃないのかもしれない」
口に出して、僕はその言葉の重さに打ちひしがれた。
暗丘さんは微妙な顔をして僕を見ている。そうだよな。そんなこと言われても困るよな。
「本当のところはわからないんです。僕にも、どっちなのか。とか」
と僕はごまかす。
「虚と話せばわかるかもしれない」
虚と話したい。
確認したい。
虚が本当にたくさん人を殺したのか。本当に母さんをころしたのか。そして——いつから一緒だったのか。
もうずっと一緒だった。話をしようと思わなくても、僕たちは話をしていた。
でも今はそれができない。
「虚とは、会えてないのか?」
暗丘さんの言葉は真実を僕に告げるばかりだ。僕は小さくうなずく。
「もう一度会う方法が、わからないんです」
もしかしたら、もしかしたらだけど、虚はもう完全に消えてしまったんじゃないか。
そんな恐怖が僕の中にあった。
僕が両手を見つめていると、暗丘さんが悩んだ様子で顎に指をあて、やがて、うん。と頷いて僕に手を差し伸べた。
僕は無意識にその手を取って立ち上がる。
腹部の痛みはなぜか薄くなっていた。太ももの痛みも。彼の言う、薬のおかげだろうか。
「魅内潔子。わかるよな。彼女にきいてみ。もしかすると、何か教えてくれるかもしれないぜ」
朗らかに笑って暗丘さんが言った。
僕はこれにもあいまいに頷く。
でもたしかに、もしかしたら、潔子さんなら何か方法を知っているかもしれない。僕には思いつかないような何かを。
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