第50話 狂気



 

 302号室の扉を開けて、最初に目に飛び込んできたのは、倒れている進士くんでも、血を流している八重子ちゃんでもなかった。


 ──女。


 黒い長い髪の女。

 目の前にその女はいた。

 玄関の目の前、台所の板の間に倒れる進士くんの背中に乗って、刃物を振り下ろそうとしている姿が眼に焼きつく。

 真っ赤な口紅と血にそまった両手。それから真っ黒な瞳が僕に向けられて、ニタリと弓なりに歪められた。


 目の前にいるのその女は、二度と見たくないと思った人によく似ていた。

 その姿も、そしてそのまなざしも、すべてが、あの恐怖の夜にみたあの人の──母の姿を思い起こさせた。

 

 それだけで僕は……。


 硬直する僕を押しのける手があった。それは僕の後ろにいた毒島さん。彼女と目があった気がするが、判断するには一瞬のことだった。 

 毒島さんは僕の横を滑るようにすりぬけ、かすめ取るように玄関の靴棚の上にあった花瓶を取ると、躊躇なく女に投げつけた。

 目の前でピンクの髪が大きく揺らめき、ほのかに甘いチョコの匂いがした。 

 

 なびく髪の隙間から、水とともに、オレンジの花びらが舞うのがみえた。


 女は腕を振って花瓶を避けようとする。しかし手は花瓶を弾いても、中にあった水までは防ぎきれない。女は水とオレンジの花を盛大にかぶることになった。

 中身を失った花瓶は、色落ちした台所の床に落下していく。


 ——ガシャン! と音ががして、僕ははっと顔を上げた。


 目の前に女が迫っている。その手には血のついたナイフ。でも、足がうごかない。後退することができない。


「空くん!」


 毒島さんが僕の手を強引に引いた。バランスを崩すように僕の足がたたらを踏むが、なんとか勢いで後ろに下がる。さっきまで僕がいた場所をナイフが勢い良く通り過ぎた。


 ゾクゾクと背中の皮膚があわだつ。


 さらに一歩後ろに下がろうとするけれど、女のほうがずっと速い。

 下からぐんと顔を近づけるかのように女が接近してくる。

 接近すればするほど、意識は彼女の黒い髪、赤い唇に吸い寄せられて……。


 意識が、薄くなっていく。

 おぼろげに、膜の向こう側にいるかのように、鮮明さを失っていく現実。すべてがスローモーションになっていく。

 焦ることもなく、僕はその感覚に身を委ねた。

 その膜のむこうで女が叫ぶ。


「こんの。ふざけんなよ小娘!」


 男のような低い声だった。

 花瓶を投げられたことが彼女を逆上させたのだろうか。女の視線はまっすぐに毒島さんに向けられて、その手の中にあるナイフの切っ先が毒島さんに向けられているのが見えた。


 どうしたらいい?

 一瞬よぎったのは、毒島一笑を盾に使うということ。しかし、腕に感じる彼女の手の温度が僕にその選択をさせまいとする。

 では? どうする?

 僕の脳は考える。でも、体が無意識に動いていた。僕は毒島さんの腕を引き、ふたりの間に割って入った。



 女が近づく。女が僕のほうへやってくる。吸い込まれる。引き込まれる。


 ナイフが、僕の皮膚を突き破り、そして――。

 目の前にサラリと黒い髪がかかる。ああ、この人は背の高い女性なのだ、そう思った瞬間に

はナイフは僕の肉に深く深く突き刺さっていた。


 熱いという衝撃が僕の身を貫く。


 誰かの悲鳴が響いた。






 「空くん!!!!」


 ドクン、と心臓が高鳴る。


 僕の中で何か得体のしれないモノが膨れ上がる。

 何かが胸から溢れて爆発してしまいそうだ。

 それはとてつもなく強い力で僕の意識をからめとり、僕はその場に立っている自分がまるで自分ではないかのような恐怖に駆られた。

 けれどすぐに、不思議な充足感を感じ取る。

 他にどう表現すればいいのかわからない。

 ただ僕は体が熱くなって、視界がクリアになって、なんでもできるようなそんな気がしたんだ。


 ――そう、なんでも。



 誰かが僕を呼ぶ。

 その声に反応することはしなかった。


 それよりも今優先すべきは目の前の女──。その首をへし折ること。それだけだ。


 そう思った。


 ナイフなんかもって危ないじゃないか。


 便宜女を殺人鬼と呼ぶとして、いや、どうでもいいことだ。こいつもさっさと殺してしまいたい。そう思うばかり。


 僕は体当たりをしてきた女の首をつかんで、そのまま体重をかけた。女は僕の体重を受けて髪を振り乱したまま仰向けに倒れ、僕も一緒に倒れる。

 膝が床に当たった痛みはあったけれど、それよりも、抵抗する女の手が僕の手首をつかむのが煩わしい。

 

 左の脇腹が燃えるようにあつい。

 ずきずきと痛んで、服がぐっしょりと濡れて、重たくなっていくのがわかる。

 刺さっているな……。

 それはわかる。血もでている。でも気にならない。そんなことより。

 

 僕はひたすら女の首を絞めた。

 女が呻く。

 呻いて、足をバタバタと動かして、抵抗してくる。

 でも大丈夫だよ。お前が失神するまで、僕はお前の首を離さない。

 そんな思考に心が埋め尽くされる。


うつろくん?」


 ──違う。


「空、くん?」


 隣に立つ毒島さんが、僕を見下ろして呆然とつぶやいた。


 何?


 答えたつもりで、でも答えられない。

 それより今は、ねえ、この女をどうにかしないとでしょう?


 毒島さんが息をのむ。それが僕の目に飛び込んできて、それがどういうわけか、ただただ面白かった。

 不思議と僕の口元がゆがんでいくのが分かった。


 ああどうしよう。どうしたらいいのだろう。この感じに覚えがある。

 ずっと昔にあった。



 瞬間、今度は左足に痛みが走った。強烈な痛み。女が持っていたナイフが今度は僕の太ももに刺さっていた。

 女がく苦悶の表情を浮かべながら、器用に笑う。

 

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 苦しい。


 ふいによぎったのは何か、何かの光景。

 黒い髪。赤い唇と、それから大粒の水滴。

 細い骨ばった手が伸ばされて、僕の首にそれが巻きつく。


 息が、できない。


 途端に僕は呼吸ができなくなった。息ができない。息が。胸が痛い。

 自然と女を掴んでいた手が離れていく。息が。──息がっ!


「表屋!」


 叫んだのは男の人の声。進士くんかな、それとも僕を呼んでいるのは。



 『そら!』

 僕を呼ぶ、君の──。

 

 

「表屋!」


 その声はとても低く、そして力強い声だった。


「好き勝手やってくれたな、お前」


 地を這うような低い声が背後からして、誰かが僕の体を起こす。

 代わりに女の首をとらえたその人をみて、僕は不思議と全身から力が抜けるのが分かった。

 黒いよれたコート。黒い髪。


「おっせーよ! オッサン!」


 進士くんが呼ぶ。

 それに応えるように黒いコートがうねる。

 僕は茫然とその人の名前を呼んだ。



「暗丘さん……」


 彼、暗丘さんは女を強引に抑えつけて、「おう」と一言軽い言葉を返した。


 


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