第28話 潔子の視るもの
潔子。
なんて名前、自分には似合わないと常々思って生きてきた。
清くもなく、可愛げがあるわけでもない。
それなのに「潔子」「潔子」と呼ばれるのが無性に気持ち悪かった。
この仕事を始めるまでは。
街灯が不気味に点滅する夜。
ときにして亥の刻。出歩く人もいない時間に、一人【オトギリ荘】の外壁によりかかる姿を見かけ、そっと近づいて、私は声をかけた。
「大丈夫ですか? 表屋さん」
表屋空。最近【オトギリ荘】に入居した、まだ正体不明の人物。ただ、その表情には悪意というものはなく、また話してみれば礼儀正しい青年だった。
頑なに私の名前を呼びたがらない彼を頑固と揶揄しつつ、警戒する彼を安心させようと微笑んでみせてさし上げる。
最終的には「潔子さん」でなんとか互いの言い分を飲み込みこむことに。
初対面で呼び捨てはできない。なんて珍しいほど良識がある方。
そうお伝えすれば、途端に顔を歪める。可愛らしいこと。
それにしても顔色が随分とひどい。
暗がりで、それがわかるのはきっと私くらいなもの。
不意に表屋さんの背後にモヤが見えた。
それはわずかに人の形を形どっているようにも見える。
やはり。
かわいそうに、眠れなくなっているのね。この青年にとらわれている。かわいそうに。
どうにか表屋さんから引き剥がしたくて、存在を指摘しようかというところで、ずきっと右足が痛んだ。
踏み込みすぎるな。そう言っているのね。でもだからこそこれが誰の仕業なのかわかってしまった。
不審そうに私を見る表屋さんに何をどう告げようか迷って……そうね。顔色が悪いのは原因もわかっているけれど、何も知らない私が聞けることではないかしら。
きっと夜は魘されているのでしょう。
そう思って眠れているのか尋ねてみれば、彼はとてもこわばった表情になりました。
見ればわかるわ。
暗闇でも私にはわかるの。
「何か知っているんですか?」
あら、まるで私が何かを知っていると気づいているみたい。
ええ、知っている──いいえ、見えているわ。でもそれは言えないのよ。
言ってあげたいのだけど、忌々しいことに言えないの。そういうふうにされてしまったから。
わかっていることはあるの。
あるのだけれど、直接言うことはできない。
好感のもてる彼にどうにか伝えようと、一瞬考え込んで答えに悩む。
それにしても、嗚呼、忌々しい。あの女……。
口元が歪んでしまう。そう思って袖で隠してみたけれど、ふふ。いやな女のことを思い出してしまったわ。
そうだ。せっかくだもの、どうにかして彼に何か伝えなきゃ。
「ひとつだけ、知っているわ」
そう言うと、彼は不審げに、けれど興味深そうに私の顔を見る。
私は彼の耳元にそっと口を近づけた。
念の為声を潜めて、秘密のお話をしてあげる。
「表屋さん、お気をつけてくださいませ。深い深い事情があるときは、そう簡単には物事は解決しないもの。ときにそれが人の命に関わるようなことならばなおのこと。知れども知らずとも。どうかくれぐれも、お気をつけて」
これで、どうにか伝わるかしら。
あなたの後ろにいるその人は簡単には眠れない。あなたがその原因を知っていても、しらなくてもね。
困惑した様子の彼に微笑みかけて。通り過ぎたその時。
ふいに空気が揺れた気がした。
気のせいではないわ。
少なくとも私が気配を読むという能力において感じたことが、気のせいだったなんてことはないのもの。
振り返って、息を飲む。
「表屋さん……?」
呼んで、顔を上げた彼はどこか雰囲気がおかしい。
なぜだろう。目をそらしてはいけないような気がする。
「……あなたは、どなた?」
声が固くなってしまったのはしかたない。
それほどに彼は今までとはなにもかもが違っていた。
下から覗き込むような目線。
街灯の下で闇に紛れるような気配。
どことなく感じる。血の匂い。
さきほどまでなかったあらゆる情報。それもおそらく私にしか感じられないだろう情報が入ってくる。
「うつろ」
彼はつぶやいた。
「うつろ……」
虚。なにもないということ。空っぽであるということ。
そんな辞書に載っているような言葉が頭をよぎる。
表屋空ではない?
では……何かが憑依しているというの?
「子供がいるとよく眠れない」
彼は静かな声でそう言った。
はて、これは予想とは違う言葉だわ。
彼の背後に目をやる。
確かに霊がいる。でもそれは。
「子供……ですか?」
子供の姿はしていなかった。
表屋さん──虚と名乗った彼は、胡乱な表情を私に向けてくる。
「女性ではなく?」
どういうこと?
思わず伺うように私の視線も下から覗き見るようになる。
笑顔を崩さずに笑ってそうすれば、誰もが快く答えるものなの。けれど。
「お前のしわざか」
彼らひどく冷淡な声で私に問う。
仕業? 私の?
その女性をあなたに差し向けたのが私だとおっしゃるの?
嗚呼、なんということかしら。
こんなに頭に来ることはありません。
私は深く笑う。
ニッコリと深く深く笑って見せる。
「わたくしは、あの女のように無為ないたずらをするような、はしたない女ではありませんことよ」
不快さを隠すように深く笑ってみせましょう。
彼は無言を貫き、やがて眉間に不深いシワを刻んで口を開いた。
その時。
「きーよーこ」
気の抜けるような、鼻につくような声に呼ばれた。
ああ、もうっ。
声の方向、見上げた先に予想通り苦手なあの女がいた。
三階の共用廊下の柵によりかかるような体制で、こちらを見下ろしている。
「毒島さん」
呼んで、しかしすぐに後悔する。返事などしなければよかった。名前を呼ぶなどしなければよかった。そうすればこの女と無駄な話をしなくて済んだかもしれないのに。
にこりと微笑んで、むかつきを胸にひそめる。
自分より十歳は下の子供のくせして、生意気な。
どうしてここの住人は生意気なやつばかりなのか。
微笑みの裏で苛立ちを隠し、なんとか奥歯を噛み締めておく。
すでに夕刻。逢魔が時にこの娘に出会うなど縁起悪く思えて仕方ない。そのくらいこの女とも合わない。
「毒島さん?」
再び声がした。
耳朶をうつのは無害そうな声。
私は頭を抱えたくなる気持ちを押し殺して、笑みを深くして振り返る。
どうなっているのか、まったくわかりませんけど、ひとつだけわかることがある。
それは、やはりこのアパートに住んでいてまともな人はいないということ。
たとえ新しく入居した人でも。
そこにいたのはつい先程の相対した冷たい彼とは違う誰か。
いいえ。その姿はたしかに表屋空のもの。
初めてあった、無害な彼。
まるで、表屋さんが二人いるかのようだわ。
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