第14話 302号室の俺と…… -2
繁華街のざわつき。
客引きの声。
香水の匂い。
赤い爪と口紅。
髪は黒。
ハートのピアス。
香水に混じって、草と、土と、雨と、それから鉄の臭いが、鼻孔を刺激してくる。
嫌な、臭いだ。
水を吸って、服が重たい。
──はやく、処理しないと。
「──お困りですか?」
唐突に声が聞こえた。
振り返った先、どことなく胡散臭い白衣の男が、じっとこちらを見ていた。
咄嗟にそいつの首をつかむ。
凶器を手に、そいつの目を覗き見る。
急所を掴んでいるのに、苦しそうな様子もない。
そいつが言う。
「処分のお手伝いをしましょうか?」
これはひと月以上前の話。
◇ ◇ ◇
新歓コンパは最悪だった。
ガンガンと響く二日酔いの頭をかかえて、フラフラとオトギリ荘の外階段に向かう。
新歓コンパといっても、大勢の新入生のための大型歓迎会だ。
途中退場もわけないと思っていたが、複数の学生に掴まり酒を飲まされ、結局二日酔いだった。
もともとは酒は強くないってのに。
それに、その絡んできた奴らがこの上なく面倒くさくて、苦手な部類の人間だった。
ほとんどは女。
新一年の女子のくせに。
つい先日までは高校生だったくせに。
どうしてあんなに派手な装いで居られるのだろう。
先輩もだ。どうして露出の多い服を好むのだろう。
理解できない。
愚痴だということはわかっている。ただ、ああいう女は苦手なんだ。
それから帰りにももう一人。
絡んできた女がいた。その女のことは、まあいい。もう終わったことだから。
そんなことより。
足取り重くアパートの階段を降りながら、放置したままの“弟”のことを考える。
「眠い」と言って起きない“弟”の空は、俺よりさらに女が苦手だ。
だから昨日は空にとっては特別に最悪な日だった。
いつの間にか到着したゴミ捨て場はひどく散らかっていた。
ああ、めんどくさい。
今日は生ゴミの日だ。
週二回あるうちの一回で、ゴミ捨て場がいつもより乱雑になるのは仕方ない。
どうみても生ごみじゃないものもあるが、そこはどうしてもルールを守れない奴というのはいるものだ。
スンと鼻をならしてみたら、嫌な匂いがして顔が歪む。
ゴミの臭いがする。
据えた臭い。生ごみ特有の臭いだった。
俺はこの臭いが大嫌いだ。
俺がゴミのネットをどかして、ゴミ袋を放り投げたところで、階段を降りてくる音が聞こえた。足音の持ち主が背後に近づいてくるのを感じ、おもむろに振り返る。
ピンクの髪に赤い爪をした女がいた。
前に見た時と同じピンクのセーター。
「おはよ〜。リンゴたべるう?」
「……毎回断ってるのに懲りないな、おまえも」
毎日あうたびに、なぜ断られるとわかってて同じことを言うのか、理解に苦しむ。
毒島一笑は一瞬キョトンとした顔で俺の顔を覗く。
「なんだよ」
思わず不機嫌に尋ねると、毒島はしたり顏でうなづいて、続けてにっこり笑った。
「君に言ったのは、初めてじゃないかなあ」
そうだったろうか。そうかもしれない。
「いつも言われるって、聞いてる」
「誰に?」
間髪入れずに問い返される。
ついこの間『お前がゴミ捨て場であっているのは弟の空だ』と言ったばかりだ。
また、そのセリフを言わせたいのだろうか。弟の話をさせようとしているのだろう。
俺と“弟”のことが知りたいと。
不愉快だ。
だが、最初に主張するようなことを言ったのは俺だ。
あの大学の帰り、この女と一緒に帰ったあの日に。
なんであの時あんな話をしてしまったのか。疑いを持たせるような話を。いや、いずれは気づかれる。こんな安アパートじゃあ、声も隣の部屋まで聞こえるだろうし。
それに――。
「……弟から、聞いてる」
言葉少なめに答える。
「表屋くん弟かあ。ふうん、へえ、やっぱりい?」
至極楽しそうな顔で、そして、まるで探していたおもちゃを見つけたような顔で、彼女は笑う。
俺はそれが不愉快で、目を細めて彼女を睨む。
彼女は変わらず、楽しそうに笑いながら、唐突に紙袋からリンゴを取り出した。
ゴミ袋じゃなく、紙袋。
それが何を示すのか、俺は考えたくないが、多分、最初から誰かに渡すつもりでいた。
俺にか、それとも、前にあった――。
後者の方が、考えたくない。そう思うのはなぜだろうか。
「今日も、受け取ってくれないの?」
「いいよ。捨ててもいいならな」
俺は、捨てることに罪悪感なんてない。
だって、もらった時点でそれは俺のものだからだ。どう扱おうが、勝手だろう。
薄く笑って、リンゴを受け取ろうとした瞬間、不意に腕が動かなくなる。
気づけば、受け取る前に手は下げられていた。
何するんだ、と抗議をする前に、いつの間にか弟の空が笑って毒島一笑のリンゴを遠ざけていた。
「ごめん。受け取れない。家訓なんだ」
空は、いつものように断った。
目の前で、大きな目をこれ以上ないほど見開いて毒島が驚いている。
それを横目に、面倒な時に起きてきた空に俺はため息を吐く。
寝てたんじゃないのかよ。タイミングおかしいだろう。
空はそんな俺の無言の抗議を意に返さない。どころか「だってもらったのに捨てるなんて酷いことだと思うから。だからだめだよ」と注意までしてくる。
「……わかったよ」
不承不承うなづいて、俺は
空の後ろに下がると、ぐっと視界がせばまって、音が曖昧になっていくのを感じる。
俺のぼんやりとした知覚の中で、空が困ったように小さくため息をこぼし、続けて毒島に語りかけたのがわかった。
「ごめんね、兄さんが」
普段は兄なんて呼ばないくせに。
そんな風に思いながら、俺は毒島の様子を伺うことにした。
目の前にいた少女は、じっと空を見つめてから、やがて声を上げて笑った。
空が不思議そうに首をかしげる。
俺もそれに習って首を傾けてみる。
「……なんだろうねえ。空くんだよね。で、さっきのがお兄さんなんだねえ。面白いねえ。ねえお兄さんて、表屋なにくん?」
「兄の虚(うつろ)だよ」
空が答える。
「へえ。お兄さんが虚くんで、弟が空くん? ねえ、虚くんって呼んでいい?」
そう言いながら、彼女の目線は空から離れない。
空がこちらをみた。
口を閉じたまま頷く。
空は苦笑して彼女に目線を戻した。
「いいみたいだよ」
「……ふうん。そうなの。よろしくねえ」
彼女は、とても楽しそうだった。
とてもとても楽しそうで。でも、でも俺はあまり楽しくない。
ひどく気分が悪い。まるで二日酔いのように。
◇
俺には弟がいる。
兄弟で、いつも一緒だ。
いつも、いつも、いつも、いつも、一緒。
そんなわけない。
そんなこと不可能だ。
気付いているのは俺だけだ。
だからずっと、知らないふりをしてきた。
でも今、もう一人知ってしまった。
空から目をそらさずニコニコと笑う少女を眺めながら、俺は目を細める。
どちらもいないことになんてできない。
だから空と虚の存在を毒島に教えたのは俺自身。
本当は気づかれたくないのに。
本当は違うと、空に知られたくないのに。
空に自覚を促す可能性のすべてを摘んできたのに。
やらかした。
もし軽い小さな石を投げ込まれて、小さな波紋が生まれるならば、まだいい。
けれど、もし、お前が不用意に引っ掻き回すなら、俺はいつでも…………。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●302号室
大学生。
三回アパートを変えている。
普通の感性の青年。
複数のバイトを掛け持ちしている
ps.人からもらったものは決して食べない。
兄弟で暮らしているという。
兄の名前は
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