第13話 302号室の俺と…… -1



 香水の匂い。


 薔薇のようなルージュ。


 赤いマニキュア。


 カラスの羽ような黒い髪。


 金切り声と、罵る声。


 振り上げられる手。


 鈍く光る指輪。


 赤いピンヒール。


 据えた臭いのする食べ物。


 暗くてかび臭い押し入れ。


 叫び声と、嬌声。


 誰にも呼ばれない名前。



 僕には、その全てがどこか遠くの世界のことのように思えた。

 思えたのは、君がいたから。君が、言ってくれたから。


『大丈夫。俺がいる』


「大丈夫。虚(うつろ)がいる」 

 

『空 (そら)の怖いものすべて、俺が見えなくしてやる』


「虚 がいれば、怖いものは何もない」


『空がいれば、俺はここに居られる』


「虚がいれば、僕はここで生きていける」


『俺と空は二人で一つ』


「虚と僕はずっと二人」


『俺が生まれたその時から』


「僕が生まれたその時から」


 二人でいれば、すべてがうまく行く。

 空(そら)と虚(うつろ)。

 僕達は、たった二人の兄弟だ。



 ◇ ◇ ◇



「おはよ〜表屋くん。リンゴたべるう?」


「おはよう。すいません、いりません。家訓なので」


 例の毒殺魔に、ゴミ捨て場で遭遇してしまった。

 毒島一笑(ぶすじまかずえ)。僕の隣人。


 【オトギリ荘】に入居してもうすぐ一ヶ月。

 僕はまだ、ゴミ捨ての曜日を覚えられていない。

 でも今日はプラスチックの日だ。

 それは間違いない。

 だから彼女のゴミ袋にうっすら見える赤いりんごは、今日出すべきじゃない。

 注意するのは、やめておくけれど。


「家訓かー。アタシの家はね、毎日りんごを食べると健康になれるっていうのが家訓」


「そうなんだ」


 僕は、あらゆることに気づかないふりをする。

 そうしないと面倒なことになる予感しかしないからだ。


 引っ越してきた日、向いの一軒家に住んでいたおばさんが亡くなった。

 正確には殺されたという。今隣でのんきにあくびをしている少女に。

 最初にこの話を聞いたときは正直怪しかったけれど、その数日後、僕は 『おばさんはひとり暮らしで、孤独死。ということになった』と聞かされた。その当事者から。

 まるで、世間話のように。


 その時の僕は、はたしてどんな顔をしていたのか。

 それに関しては僕自身は知るよしもないのだが、この時点で僕は暗丘さんの言葉を信じる気になっていた。

 

 彼女がその話をしているときの表情は、恐ろしいほど楽しそうで、快感を隠しきれていない、そんな様子にも見えて、僕は戦慄した。

 

 まあ。この情報源の暗丘さんがなんとなく怪しい人だから、全面的に信用できるかというと微妙なので、今のところ八信二疑というところだが。

 と一応予防線は張っておく。


 そういう経緯があって、要するに、僕は彼女を警戒している。

 もし仮に、彼女が毒殺したわけじゃなくとも、彼女は適当な作り話をするような人なのだし、信用できなくて当然だ。

 そんな僕をみて、彼女に、警戒してないと受けとったらしいけど。


「毒島さんはこれから学校?」


 内心いろいろ考えながら、僕は毒島さんの格好に視線をやった。

 短い紺のスカートに、ワイシャツ。ピンク色のカーディガンとそれに合わない紺色の地味なりぼん。

 以前にバイト先で見た制服姿と全く同じ。

 赤本を買ってたし、18歳ということだから高校3年生。

 つまり受験生だろうに、はっちゃけてていいのかな。と思ってしまう。

 そんな少し派手な格好だ。


 当の僕は、当時バイトばかりして浪人したので、その時どんな服装をしていたのか、など覚えてもいないけどね。

 多分、まるで気にしてもいなかった気がする。


「どうみてもそーでしょ。そーゆう表屋くんはこれから大学? バイト?」


「大学。毒島さん大学受験するの? それとも就職?」


 赤本を買っていた相手に問うことでもない気がするけど、しかし彼女をみていると、とても大学受験をするようには見えないんだよなぁ。

 それで思わずそんなことを聞いてしまった。


「決めてなーい」


 と返答なそんな感じ。

 彼女は楽しそうに、そしてどうでもよさそうに言う。

 本気でどうでもいいと思ってそう。


 毒島さんは僕の前で髪を軽くすいていたけれど、やがてずり落ちかけていたスクールバッグを肩にかけ直した。

 僕の意識はバッグに向く。

 バッグには、ひと昔前に流行った“グロかわいい”な血みどろ犬のキーホルダーがぶら下がっている。

 やっぱりそういうの好きなんだ。という僕の偏見を彼女はお見通しなのだろうか。

 キーホルダーを手にとって「可愛いでしょ」と言ってきた。

 正直女の子の可愛いってよくわからない。


「グロいけどね」


 なので半分同意しつつグロさを指摘する僕だ。

 僕の返答は彼女にとっては特に気にする内容でもなかったようで、毒島さんは「あっそう?」と変わらない笑顔で笑った。

 その上で、くるくるとキーホルダーを回して見せてくれる。


「まあいいや、アタシもう行かなきゃ。またね表屋くーん」


 毒島さんは唐突にそういうと、半分振り返りながら手を振って去っていった。

 ピンクの髪を揺らしながら大通りの方へ闊歩していく後ろ姿を見送る。正直なところ、僕は明るい彼女自身を嫌ってはいない。むしろ微笑ましくも思っている。

 朝に会うのが彼女なら、まあ悪くない。

 りんごはめんどうだけども……。



 そんな気持ちでしばらく学校へ向かう彼女の後ろ姿を見送っていると、ピコンとスマホの通知音がなった。

 ズボンの尻ポケットから取り出したスマホの画面には、メッセージアプリの通知が一つ。

 げっ。と僕はつい口に出して唸ってしまった。

 内容は、今日の夜について。


「そうか、今日新歓コンパ……」


 僕は思わずつぶやいて、それから自分の着ていた服を見下ろす。

 ださい。

 グレーのTシャツに、使い古しのジーンズ。穴があいて、色落ちしている。

 あまりにもひどい格好な気がする……。

 

 もうすこし、お洒落していこう。


 僕は今年で23歳だけど、2浪してる。

 後輩もいれば先輩もいるので、それなりの格好をしていかないと、どちらからも顰蹙ひんしゅくを買うかもしれないな。

 逆に派手にやりすぎて変に目立っても困るけど。

 僕は急いで202号室にむかって階段を駆け上った。

 大学までの道のりも考えると、着替える時間に余裕はない。

 さて、何を着ようか。


 ちなみに僕にはファッションのセンスはない。



 

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