第5話『大黒朱鳥』

 大黒朱鳥おおぐろあすかは『MAE』マーケティング課の課長である。

 三十を過ぎているが、課長という立場や気苦労が絶えないのか、若干実年齢よりも歳を取っているように見えてしまう。

 良い人なのだ。優しいし、部下に対する気遣いにも溢れている。

 社内でもマーケティング課が一番有給の消化率が良いと言われているが、それは課長である大黒がスケジュール調整や根回しなどしてくれているなのは明白だ。

 他の課の話を聞いたりするが、どこの課長よりも大黒は部下が働きやすい環境を作ろうとしているように思える。

 北淀美依ほくでんみよりは有難いと強く思うが、大黒はこんなにも気を遣いっ放しで私生活は大丈夫なのか心配になってくる。

 ……結婚指輪はしていないが実際のところどうなのか。

 そういえば大黒の私生活はあまりよく知らないな。

 北淀美依自身、南寺静馬みなみじしずまとも関わってくるのであまり私生活を公にしたくないという気持ちから、人の私生活もわざわざ聞くようなことはしていなかった。


「課長って結婚してるんですか?」


 たい焼きを食べながら北淀美依は世間話の感覚でそう尋ねたが、言い放ってから、これは逆セクハラなのではと思い慌てて訂正しようとしたが、それよりも早く大黒は「してないですよ」と笑いながら答える。

 どうやら、これは彼の中でセクハラには該当しないようだと北淀美依は安心ながら「そうなんですね」と返した。


「ちなみに彼女とか?」

「いないですよ。どうしても仕事ばっかりで……。逆に僕も聞きたいんだけど、北淀さんは南寺くんとお付き合いしてるんですか? たまに他部署の人に聞かれることがあるんですよ」

「それは全くないです。もし次聞かれたら、否定しておいてください」

 彼女が真顔で、そして真剣な声色で言うので、大黒はその雰囲気に押されながら「じゃあそう言っておきます」と困惑気味に頷く。


「それじゃあ北淀さんはどなたかパートナーに出会ってよくよくは家族になりたいというのはあるか?」

「家族……」

 そう問われて、北淀美依はふと考える。

 数年後の自分というものを考えるのはむず痒いものだ。

 今よりもう少し物事を円滑に進められる『できる女性』になりたいとは常々思っている。そんな自分が親兄妹とは違う誰か別の人と暮らして一緒に歳を重ねていくのは素敵だなと考える。

 だけど……どういうわけかそんな自分の姿が想像できない。

 自分の隣りに立つ『誰か』が想像できないのだ。

 何故か隣りにいるのは南寺静馬、そんな悪夢を見てしまう。


 つまり。

 北淀美依が誰か人と穏やかな生活を送るためには、どうやって南寺静馬の存在を排除することが必須なのだ。

 縁を切るしかないのだ。

 どうやってもあの男が幸せを微笑みながらぶち壊す未来が簡単に想像できてしまうのが心底嫌だ。

 地獄に落ちるなら一緒だ。

 あの男ならそんな最低な言葉を笑いながら言いそうだ。


「……今のところ、そういうのはちょっと……」

「今は仕事一筋ってとこでしょうか?」

「いえ、私が世間一般に言われる幸せを得るには障害が大きいすぎて」

「えっ? あぁ、そうなの?」

 北淀美依が溜息混じりに呟く言葉に大黒はまたも困惑するが、深く聞かない方が良いと判断してくれたようでそれ以上は聞いてこなかった。有難い。


「じゃあ課長はどうなんですか、結婚とか家族とか」

 北淀美依は自分の話題から逸らしたいために大黒にそう問う。

 すると大黒は意外にも難しい顔でその問を受け止める。

「……結婚は考えてない、というか考えないようにしてる節はあるかな。そういうわけで、お付き合いしている女性もいません」

「考えないようにしてる? どうしてですか?」

 何だか妙な話になってきたような気がすると北淀美依は感じる。

 結婚を考えないようにしている、とは一体どういうことなのか。

 すると大黒は驚きの発言をする。


「別に隠していることじゃあないんですけど、現在同居している人がいるんです」

「カノジョさんですか?」

 ……でも今お付き合いしている人はいないって。

「女性は女性なんですけどね。この夏に八歳になる小学生の女の子です」

「……え」

 小学生の女の子と住んでいる……?

 それはつまり大黒の子供ということか。

 いやしかし結婚はしていないとも言っていた。

 未婚の父ということか。えっ、一体どういうこと。

 北淀美依が困惑していると、彼女の様子に大黒は苦笑いを浮かべる。


「えっと、僕の子供じゃあないです。血の繋がりはないです」

「親戚の子を預かってるとか?」

「いえ、全くの他人です。……昔住んでいたアパートで、何日か隣りに住んでいた女性の子を、事情があって僕が育ててるんです」

 もっとわからないことになってきたと北淀美依は内心頭を抱える。

 何日か隣りに住んでいた女性の子を育ててる?

 何故、大黒が?

 母親はどうしてるんだ?

 色んな疑問が、まるでヤカンから吹き出す湯気のように溢れるが、答えも得られずそのまま消えていく。

 北淀美依はただただ困惑する。


「僕も彼女も、互いを他人であることを知ってます。僕は彼女の『お父さん』ではないし、彼女も僕に父親を求めることはしません」

「小学生のコ、ですよね? もっと自由で我儘で、子供、という感じじゃないんですか?」

「酷かもしれませんが、僕がどうして僕と暮らすことになったのか隠すことはせず育ててきました。そのせいか、同じ年代の子供たちよりも、きっと敏いんだと思います。大人の顔色を読む術に長けているというんでしょうか」

「……あの、その子のご両親は?」

「父親は誰かわからず、母親は一人で彼女を産みました。でも出産直後に色々あって、彼女と母親は離れて住むことになりました」

「今は離れてても、いずれはお母さんと一緒に住むということですか?」

 なんという話だ。

 小学生女子が背負うには重い話だ。

 北淀美依は只管重い話に顔を引き攣らせながらも、この話に何か希望がないかを探したくて、いずれは母娘で暮らせる可能性を尋ねる。

 だけど大黒の表情がそうはならないことを表していた。


「いまのところ、母親にはその意思はないそうです」

「……」

「初めはいずれ母親にあの子を返すという気持ちで育て始めました。でも月日が過ぎていくにつれ、僕とあの子は一体何なんだろうと考えるようになったんです」

「何、とは」

「関係の名前です。僕は父親ではないので、同居人や保護者とか、彼女に自分の役割を説明するときに、そういう言葉を選んでいました。でも、この間『わたしたちは家族じゃないの?』って。僕は何も答えられませんでした」

 大黒は肩を落とし俯く。


『父親ではない』

『保護者』

『同居人』

『血の繋がりがない他人同士』、それを家族の括りにしていいものか、大黒は悩んでいるのだ。

 確かに『家族』の定義を考えたときに婚姻や血の繋がりのある関係が挙げられることが常だ。

 最近はそうじゃないことも確かにあるとはいえ、まだ『家族』の定義として除外されてしまうのだろう。


「……もし僕に好きな女性ができたら、その人はあの子のことを受け入れてくれるか不安なんです。仮に受け入れてくれたとしても、僕が誰かと『家族』になることで、あの子が孤立しないかが怖いんです。だから、僕は親姉弟以外の家族のことを考えないようにしてるんです」

「……」

「すみません、たい焼き食べながらする話じゃなかったですね」

 大黒は苦笑する。

 北淀美依も何とか笑みを返すが、あまりの内容に笑みが乾く。

 藪をつついて蛇を出す、とは言うが、藪をつついて虎が飛び出してきたくらいの衝撃を受けた。

 何か。

 何か気の利いたコメントの一つもしなくては……。

 だけど北淀美依の思考は凍りついていて、今の話への感想すら出てこない。


 誰かに話を聞いてもらうだけでも良い、という事柄はある。

 もしかしたら大黒はそんなつもりで話したかもしれないし、ただ世間話の延長で話したのかもしれない。

 そうであっても、北淀美依は何か大黒に返す言葉が欲しかったのだ。

 なのに、何一つ出てこず気持ちが沈む。

 どうして自分はこんなにも駄目なんだ。

 北淀美依が凹んでいると、突然大黒のスマートフォンが鳴る。


 大黒はカバンからスマートフォンを取り出すと、画面に出ている相手の名前に怪訝そうな顔をするが、北淀美依からはそれが見えなかった。

 こっちも電話はかかってこないし、今日は申し訳ないが諦めて帰ろうかと北淀美依が自分のデスクを片付けようとすると、隣りの南寺静馬の席に座っていた大黒は「え」と困惑した声をあげる。

 何かあったのだろうか。

 北淀美依は大黒の様子を見ていたが、大黒は電話向こうの相手に何度か謝罪をして最後に「帰ったら本人に確認して、明日改めて御連絡いたします」と言って通話を切った。

 そのときの大黒の表情は、今日一番、悲痛な表情をしていた。

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