第4話『事件の傷跡』
気分の悪さを引きずると、大抵その日一日が上手くいかなくなるものだ。
そんな風に思いながら
朝からぐだぐだと考え込んでしまい、どうにも仕事の手順が狂いっ放しになってしまった。担当している案件について、取引先からの連絡が午後一番にあったのにそれに対する返事を後回しにしてしまった結果、向こうの担当者が夕方からの会議に出てしまいすぐに連絡がつかない状況になってしまった。
ただ二つ三つ確認するだけで、五分で終わる電話なのに相手がいないことにはどうにもならない。
どうしてすぐに折り返さなかったのかと北淀美依は自分を叱りながら、既に定時を過ぎてしまった時計を眺めて溜息をつく。
「残業か……」
北淀美依は既に自分以外がいなくなったオフィスを見回す。
隣りの席の
意外だったのは今年入社の新人であった
彼女があの南寺静馬の従兄妹であるが先日発覚したが、それからどういう訳かとても懐かれている。これも先日発覚したことだが、どうにも彼らは仲が大変悪いらしい。
北淀美依としても、南寺静馬が自分以外の誰かをあんなに邪険に扱うのを初めて見たような気がした。
しかしながら久住はどうやら南寺静馬の『秘密』に関しては知らない様子ではあるが、あの男が心底胡散臭いことはわかっているようだ。
久住も外面が最強に良い南寺静馬が周囲からの賞賛を集めている様子を見ながら、自分との認識の差異に悩んでいたのかもしれない。
そういう意味では、久住と北淀美依は同士という間柄と言っても過言ではない。
南寺静馬と知り合って十年、女性から目の敵にされることは多かったがこんなに大歓迎という様子で慕われることはなかったので、久住の存在はとても新鮮だった。
できれば彼女との関係は友好なものにしておきたい。
気のせいか、北淀美依と久住が談笑している様子を、南寺静馬が重々しい視線を向けている感じがあった。
もしかしたら彼は彼で、この女二人が結託することに面倒臭さを感じているのかもしれないが、もしそうなら北淀美依として臨むところだ。
あの男の眉間に皺を増やすことができるなら、それはとても好い気味というものだ。
しかしながら本日は、流石に自分自身の失態だと自覚していたので、申し訳なくって久住には先に帰ってもらった。
今度、夕食に誘ってみるのもいいかもしれない……。
そんなことを考えながら北淀美依はコーヒーでも入れようかと椅子から腰を浮かそうとした時、オフィスの扉が突然開かれて驚く。
何事かと焦りながら扉を見ると、昼過ぎから取引先に向かい直帰するはずだった課長の
何故彼が。
北淀美依は浮かしかけていた腰を思わず椅子に戻してしまう。
大黒はそんな北淀美依と誰もいない静かなオフィスを見ると困り顔で歩み寄った。
「やっぱり、まだ折り返し待ちでしたか?」
「はい、まだ……」
「会議が始まると長いって、あちらの担当さんぼやいてましたもんね」
「ですよね。でも、今回は私のミスです。早く連絡すれば良かったのに後回ししちゃったから」
北淀美依が肩をすくめる。
大黒は「そういうこともあります」と返すと、持っていたビニール袋を北淀美依に見せる。それはこの会社からほど遠くない場所にあるたい焼き屋の袋だった。
「差し入れです、どうぞ」
そう言って大黒はビニール袋を北淀美依に差し出す。
北淀美依は「ありがとうございます!」と素直にビニール袋を受け取る。手に取ると、まだ温かく本当についさっき買ってきてくれたことがわかる。
「あの案件、あんまり連絡がつかないようであればもう帰って大丈夫ですから。この間の事件じゃあないけど、何かと物騒だし人のいる時間にちゃんと帰って欲しいし」
大黒はそう言いながら表情を曇らせる。
先日の事件。
被害者の女性は二人だったが、実はもう一人犠牲者がいるのだ。
それは今年入社した新人社員の浅井だった。
彼は北淀美依が、先日の事件の犯人に拉致された現場を目撃してしまい居合わせた同じく新人社員の伊藤と共に犯人を追跡してしまった。
その際に犯人と揉み合いになってしまい命を落としたのだ。
伊藤も子供の時からの幼馴染が死んでしまったことに深い悲しみを受けて会社を辞めて地元へ帰ってしまった。
北淀美依としても自分の知らないところでそんなことが起こっていたとは知らず、自分を助けるために後輩が命を落としたことにショックを受けた。
南寺静馬はそんな北淀美依に「月並みなことしか言えないが、最も許されないのはお前じゃなくて犯人だ。美依には落ち度はなかったんだから自分の責任にしようとするな、烏滸がましい」と慰めなのか貶しなのかわからない言葉をかけた。
もっと言い方があるだろうと思ったが、南寺静馬なりに気を使ってくれていたのかもしれないと思うようにした。
とはいえ、今回の事件で、大黒は新入社員を一気に二人失う結果に負い目を感じているのだろう。
北淀美依以上に自責の念に襲われているかもしれない。
犯人を逃がしてしまったものの、南寺静馬と伊藤の目撃情報で犯人の人相が明らかになったせいかあれから事件は起きていない。だけど大黒はまだ解決したわけではない事件を恐れているのだ。
もしかしたら忘れた頃にまた犯行が起こるかも知れないと。
そんな大黒の心情を察してしまうと、北淀美依はあまり心配をかけるようなことはしたくないと思ってしまう。
彼女はビニール袋の中のたい焼きを覗き込む。
たい焼きは二個入っているようだ。丁度良い。
「大黒さん、良かったら一緒に食べてください。食べ終わってもあちらの会議が終わらないようなら今日は帰ります。ご迷惑でなければ駅まで一緒に帰ってくれませんか?」
ちょっと図々しかっただろうかと、お願いしてから北淀美依は思ってしまう。
だけど大黒は、それなら安心だ、と言いたげに大きく頷いてくれた。
本当に良い人だ。
隣りの席の非人間とは大違いだ。
北淀美依は既に帰ってしまった南寺静馬に対してに悪態をつきながら、南寺静馬の椅子を大黒に勧めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます