第2話『第二音楽室の秘め事』
陰鬱とした気分で四月を乗り切った北淀美依は、南寺静馬から打ち明けられた秘密にひたすら震え上がっていた。
しかしゴールデンウィークの連休を超えて、そろそろ中間試験という時期になっても、最初の放火騒ぎ以降南寺静馬の奇行を目撃することはなかった。
彼は穏やかな微笑みを携えたクラスの、否、学園の人気者のままだった。
何故だ。
そのあまりにも高校一年生の日常として穏やかで、だけど新入生ということもありまだ慣れていないことも多いせいか少し慌ただしい日常は緩やかに過ぎていくので、北淀美依はもしかしてあの時に見た南寺静馬は夢幻だったのではないか、狐狸にでも化かされたのではないか、そんな風に考え始めていた。
しかし北淀美依は知らなかった。
惚れ惚れするような温和な微笑みを浮かべるあの男が、何を考えているかを……。
事が起こったのは中間試験が終わった五月下旬だった。
試験が終わって次の日は午前の授業だけで、午後は先生たちが各答案を採点するために生徒は帰ることになっていた。
採点は試験期間同様、生徒の居残りは認めていなかった。当然部活動も休み。
北淀美依が借りていた本を図書室に返してから昇降口に行く頃には殆どの生徒は既に下校しているようだった。
静かな昇降口で、北淀美依も早く靴を履き替えて帰ろうとする。
折角早く帰れるのだから、帰りに少し寄り道でもしてしまおうか。
本屋とか、駅の近くにあるペットショップとか。窓際にいる犬や猫を見て、中間試験で疲れた心を癒したい。
そんな甘っちょろいことを考えていた北淀美依だったが、靴箱に収まっていたローファーに何やら折り畳まれたメモ用紙を見つけて首を傾げる。
はて、なんだこれは。
北淀美依はメモ用紙の相手に心当たりがすぐに浮かばなかった。まあ、見れば差出人も用件もわかるだろう。
北淀美依は何の考えもなしに、そのメモ用紙を開く。
そこには綺麗な筆跡の文字が並んでいた。
まるで山を流れる清らかな小川のように涼しげで澄んだ水のような美しい文字の羅列。
内容は以下の通りだ。
『これを見たらすぐに用具室で金槌を一本借りてから第二音楽室へ来い。
決して他のやつに見つかってはならない。
当然、至急。他言無用。
南寺静馬』
筆跡の美しさと相反してまるで地獄からの誘いのように恐ろしい文章だった。
南寺静馬の名前を見た瞬間、北淀美依はこの一ヶ月程忘れかけていた南寺静馬への恐怖が蘇り強烈な目眩に襲われた。何だったら急に胃の辺りで刺すような痛みも出てきたような気がする。
よろよろと靴箱に手をついて北淀美依は考える。
金槌持って音楽室で何をするつもりなのか……!?
絶対良い事ではない。何か危ないことだ。
金槌で行う危ないこと……釘バットを作るとか!
……多分違うな。
一体何だ。
北淀美依は震え上がりながらメモ用紙を穴が開くのではないという程見つめ困惑する。だけど『至急』という文字があったのを思い出して北淀美依は慌てて用具室へ向かった。
そもそも何故律儀にメモ用紙の指示に従ったのか。
この時点でメモ用紙を無視して帰っていたら、もしかしたら南寺静馬との関係が十年も続くことはなかったのかもしれない。
北淀美依が指示通り誰にも見られず用具室で金槌を一つ借りて第二音楽室へ向かう。
急がないといけないのに、
生徒はホームルームが終わったらすぐに下校するよう言われているのに、自分はまだ学校に残っているという焦燥感。
許可もなく用具室のものを持ってきてしまったという罪悪感。
これから何が起こるかわからないという不安感。
そういったものに背中を蹴られながら、北淀美依は第二音楽室の前までやってくる。
扉に近づいて、北淀美依は中の様子を探ろうと扉に耳を押し付ける。
本来この第二音楽室はコーラス部の活動に使われているのだが、部活動が休み扱いになっている今日は当然彼らの美しい歌声が聞こえてくるはずもない。
南寺静馬はもう来ているのだろうか。
それにしては静かすぎるが……。
北淀美依は不穏な空気を感じながらも、意を決して扉を静かに開けた。
第二音楽室は遮音カーテンが下ろされていた。扉を開けると北淀美依は扉の前に下ろされていた遮音カーテンにぶつかりワタワタしていると、「さっさと入れ」と冷ややかな声が聞こえてきて血の気が引く。
慌てて遮音カーテンを潜り、北淀美依は漸く第二音楽室に入った。
第二音楽室は、殆ど授業では使われていないせいか、第一音楽室では机と椅子があるにもかかわらずこちらには椅子しかない。
だけど今はその椅子も部屋の端に追いやられている。
でも二脚だけ部屋の真ん中に残っていた。
その内の一脚に南寺静馬が足を組んで優雅に座っている。
彼の姿だけならきっと一枚の絵画のような雰囲気に思わず魅入ってしまったかもしれない。
問題はもう一脚の椅子。
それは南寺静馬の座る椅子と向かい合うように置かれている。
そしてその上に何故か美術室にあるはずの石膏像が一つ乗せられているではないか。
何。どういうこと。
北淀美依は扉の近くに立ち尽くしこの異様な状況を見つめる。
このまま空気になってしまいたい。そんなワケのわからないことを北淀美依は思わず考えてしまうが、それを南寺静馬が許すはずもない。
「遅い」
南寺静馬にそう叱責され、北淀美依は身を縮こませながら「ごめんなさい」と謝る。きっと付き合いが十年にもなれば舌打ちの一つもくれてやるのだろうが、この時の若く初な高校一年生だった北淀美依にそんなことをできるはずもなくただ申し訳なさそうに頭を下げるしかできなかった。
「誰かに見られたか」
「多分、見られてない、です」
「金槌は」
「持ってきました……」
北淀美依はそう言いながら恐る恐る金槌を両手で差し出しながらゆっくりと南寺静馬に近づく。
南寺静馬は北淀美依が両手で恭しく差し出す金槌を手に取ると、金槌をジッと見つめて「大きさ、これだけだったのか?」と北淀美依を訝しむように見る。
「色々あったけど……どれが良いかわからなくって、一番小さいものを……」
北淀美依がそうしどろもどろになりながら説明すると、南寺静馬は、使えないやつと言いたげに顔をしかめたがすぐに溜息を吐いて「じゃあもうこれで良い」とぼやく。
渡された金槌を南寺静馬は暫く見ていたが、右手で握り直し手首の動きだけで何度か軽く振る。
北淀美依は南寺静馬が座る椅子の真横でただ立ち尽くす。
感情なく金槌を見る南寺静馬。
その表情に教室で見せるような穏やかな微笑みはない。
冷ややかで優しさの欠片も感じさせない顔色に、北淀美依は先月の出来事が幻ではなかったことを実感する。
これからどんな恐ろしいことがこれから起こるのか。
北淀美依はただただ恐怖に凍りつく。
しかし北淀美依如きが、南寺静馬にこれからの行動を問いかけるなんてできるはずもない……。
南寺静馬は金槌を片手にゆっくりと立ち上がると、対面に頓挫する石膏像の前に立つ。
その瞬間、北淀美依はこの後起きることを想像してしまい震え上がる。
南寺静馬は、徐に金槌を握る右手を振り上げると、そのまま金槌を石膏像へと振り下ろした。
「ひっ!?」
北淀美依は無様な悲鳴をあげて、思わずしゃがみこみ頭を抱える。脳天をカチ割られる石膏像に、彼女は咄嗟に自分の頭部を心配したのかもしれない。
鈍い音と共に石膏の欠片が飛び散る。
その飛び散る欠片が飛散する中、南寺静馬は笑っていた。
教室で見せる落ち着いた微笑みとは違う、歪さが見える笑い方。
長い長い空腹の時間を経て、漸くご馳走に有りつけた獣のような。
新しい玩具を与えられた子供のような。
そんな奇怪な表情で、南寺静馬は何度も金槌を振り上げて石膏像を叩き割る。
逃げれれば良かったのだろう。
だけど北淀美依はあまりの出来事に腰を抜かして床にへたりこんでしまう。
石膏像に原型がなくなり、石膏の細かい粉が空気に無数に漂う中、南寺静馬は少し汗ばんだ様子で振り返る。
頬に滲む汗を手の甲で拭う彼の表情は、不本意ながら色っぽいと思えるものだった。
だけどその表情に魅入る心の余裕もなく、北淀美依は目の前で粉々になった石膏像に次は我が身かという恐怖しかなかった。
青ざめた顔で見上げてくる北淀美依に、南寺静馬は教室で見せるような緩やかな微笑みを見せると身体を屈めて彼女の耳元に口を寄せる。
「誰にも言うなよ」
彼の心地の良い声が北淀美依の鼓膜を揺らす。
北淀美依は思わず身体を震わせて後ろへ下がる。
その時強張っていた身体が漸く動くことに気がついた北淀美依は慌てて第二音楽室から逃げ出した。
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