第22話『普通じゃない』(注意)
※今回の話は人によって著しく気分を害される恐れがありますのでご注意ください。
周囲は立ち入り禁止のバリケードが置かれているが、裏手に回ると人が通るのに充分な隙間がありそこから中に入る。
彼女が此処にいるのはわかっているのに、どうにも位置がわからない。
何せ五階建てのビルだ、探しのは骨が折れそうだ。
南寺静馬は面倒くささを感じながらも、ビルの中に侵入する。
中は予想通り暗い。電気は当然止められているようで、光源という光源はなく南寺静馬はスマートフォンのライトを点ける。窓に近づけば、今日は雲があまりないので月明かりで近くを確認できるが、それ以外はそうもいかない。
音と気配を頼りに南寺静馬は静かに歩く。
どうにか手っ取り早いできないものか。いっそ、彼女が悲鳴の一つも上げてくれれば楽なのに。
そんなことを考えていると、奥の方から誰かの泣き声が聞こえる。
北淀美依かと思ったが、声が違う。男性の泣き啜るような声だ。
南寺静馬はライトを消して、静かに声の方へと向かう。
廊下の奥へ向かうと、階段があった。
階段はU字折り返しの形のもので、途中の踊り場には窓があった。そこから月明かりが入ってきているおかげで、南寺静馬は階段の三段目ほどのところに座っている男性の姿を見つけることができた。
男性は膝を抱えるように項垂れており、声を殺して泣いていた。
伊藤だった。
その姿に、南寺静馬は意外とは思わなかった。
老紳士の話では、北淀美依は伊藤を追いかけていったという話だ。彼女が此処にいる以上、伊藤もいるかもしれないと思っていた。
南寺静馬は物陰から伊藤を観察していたが、伊藤の今の様子と、そして老紳士から聞いた彼の様子について考え、ある結論を導き出す。
南寺静馬は物陰から出て伊藤に歩み寄る。そしてまるで社内で声をかけるような気安さで「今晩和、伊藤くん」と声をかけた。
伊藤は聞こえて来るはずのない人の声に驚き、顔を上げて南寺静馬を見て硬直する。口をぱくぱくとさせ狼狽する伊藤を余所に、南寺静馬は階上に視線を向けて笑う。
「君が此処にいるってことは美依は、浅井くん、と一緒なのかな?」
そう言って南寺静馬はにこやかに微笑む。
伊藤は南寺静馬が発した名前を耳にした瞬間、表情が驚きから絶望に変わる。それは南寺静馬の言葉が正しいことを語っていた。
その表情に、南寺静馬は自分の推測が当たっていたことを察する。
此処に来るまでの間、南寺静馬は伊藤が誰を疑っていたのかを考えていた。
普通に生活をしていて、誰が自分の知人を殺人犯だと疑うか。
その証拠に、会社の人間はこんなにも近くで事件が起きたのに、他人事のようにニュースを見ていた。
怖いね、可哀想だね、とテレビを見てそんな感想を抱くだけ。
近くでこんな恐ろしいことが起こったのかと思いながらも、自分の生活を送るだけだ。
だけど、伊藤も、北淀美依もそうではなかった。
身近で起こった殺人事件の犯人に心当たりがあった。
南寺静馬にしてみたら北淀美依の思考は簡単に想像がついた。
普段から隣りに立つ男が、『普通』を装っている。破壊行為、不法侵入、傷害行為。そういうことに性的興奮を覚える狂人であることを知っている。
それらの行為がエスカレートして、遂に殺人行為に発展しても、彼女は『来るべく時が来た』と思うだけだろうし、実際そう思ったに違いない。
彼女は南寺静馬を知り過ぎている。
伊藤にもそういう相手がいたのではないのか。
何年も付き合いのある人間の『異常』を感じていたのではないか。
伊藤もそれを疑って、北淀美依のように悩み苦しんでいたのではないか。
普段は『普通』を装う異常者。
伊藤は北淀美依のように、その正体を告げられていたのか。
それとも告げられていないまま、ずっと、疑念と恐怖を感じていたのか。
伊藤にしろ、北淀美依にしろ、可哀想だと南寺静馬は他人事のように思う。
そして、伊藤の取り乱し様から考えるに、とても近い位置にいた人物。そう『小学校からの幼馴染』のような。
そう考えると、一人しか浮かばなかった。
「どうして、それを」
伊藤は歯をガチガチと鳴らしながら何とか呟く。
だけど南寺静馬はその言葉には答えず「君はずっと苦しんでたんだな」と労りの言葉を投げかける。思ってもいない言葉。
だけどその言葉は、伊藤の、もうどうして良いかわからないという状態に刺さり、伊藤は声を上げて泣いた。
「もうどうして良いか……!」
伊藤は嗚咽混じりにそう呟く。
「三月の事件も、すぐにアイツがやったことじゃないかって思いました。でも証拠もない、僕が疑っているだけで。でも不安で。だからずっとアイツのそばにいたんです。これ以上疑わなくて済むように」
彼の恐怖はどれだけのものだったか。
正直南寺静馬には予想もできない。何故ならその恐怖を抱くのは、南寺静馬ではなく、北淀美依なのだから。
彼女もそんなことを考えていたのだろうかと他人事のように思えてしまう。
「……飲み会のとき、アイツが言ったんです。『北淀さんが好みだ』って……。北淀さん、もしかしたら……そう思うと本当に怖った」
だから伊藤は北淀美依の後を付けた。
もしかしたら浅井に襲われるかもしれないと思ったから。
だけど浅井はそんな伊藤の行動を見透かしていた。浅井は、伊藤が自分を疑っていることなどとっくに気が付いていた。
そして伊藤が自分を恐れていることも。
浅井はまるで伊藤の恐怖の煽るかのように、監視の目が外れた隙に二人目の犯行に及んだ。
次の日のニュースを見た時の伊藤は目の前が真っ暗になったと言う。
せめて北淀美依だけは助けたい。
伊藤はその気持ちだけで、どうにか恐怖を堪えていた。
今日、伊藤が北淀美依の安否が心配し後を追いかけていた時。彼女が『バー・ジュラブリョフ』にいる時、浅井から電話を受けた。
彼からの電話を出るのがこれほどに恐ろしいとは思わなかった。
でも、もしかしたら、きっと何かの間違いで、この電話だって帰りに何か買ってきて欲しいというお使いの電話かもしれない。
そんな淡い期待で通話に出た。
それは本当に淡い期待だった。
浅井は、伊藤に事の真相を告げた。
自分が三月と先日の殺人の犯人であること。
自分がどうしてこんなことをしたか。
そして次の狙いは北淀美依であること。
「どうせ、お前、北淀さんが心配で見張ってるんだろう? 今から地図を送るからそこまであの人を連れてこい」
彼はそう無慈悲に言い放つと一方的に通話を終わらせたという。
伊藤は、どうすればいいのかわからなかった。
足が竦んで動かなかった。耳鳴りが頭に響いて吐きそうだった。
どうしたらいい、どうしたらいい、どうしたらいい。
そう考えていると内に、北淀美依が老人とバーから出てきたので、隠れて彼女の話を聞いていた。すると彼女は驚くべきことを話すではないか。
『自分の知っている人が、人を殺しているかもしれない』
その言葉に、伊藤の中で何かが決壊した。
彼女も、浅井の犯行を疑っていたのだ。
そう思うと、もう駄目だと思った。
浅井と話さなくては。
だから伊藤は浅井に指定された場所まで走った。
……まさか北淀美依が追いかけてきているのは露ほども想像していなかった。
南寺静馬はそんな彼の肩を摩りながら「美依は何処だ?」と問いかける。
「四階の一番奥の部屋にいます」
伊藤は嗚咽混じりに何とか答える。
それを聞いて南寺静馬は伊藤の隣りをすり抜けて階段を上り出す。
だけど途中で振り返って、伊藤に『ある言葉』を投げかけた。
***
「やあ、まだ美依は生きてるかな?」
そう言って微笑む南寺静馬に『彼』は、浅井は、思わず言葉を失った。
同時に脳裏に様々な疑問が巡る。
どうして南寺静馬が此処にいるのか。それに今の台詞はまるでこの場で北淀美依が殺されるだろうことを知っているような口振りだ。
コイツは知っているのか。
浅井が、三月末と先日の婦女暴行殺人を行った犯人であること、を。
硬直する浅井に、南寺静馬は穏やかな表情のまま浅井と床に横たわる北淀美依に近づく。
浅井はあまりに無防備に近づいてくる南寺静馬に、焦りか驚きか、思わず後退る。
南寺静馬はそんな浅井を気にする素振りもなく北淀美依のそばまで来ると、緩やかに呼吸する彼女を見下ろして一言、まだ生きてた、とぼやく。
それはまるで彼女の死を望んでいたようにも聞こえて浅井はただ混乱する。
南寺静馬はそんな浅井を一瞥して笑うと、壁際に転がされていた北淀美依の通勤カバンを指差す。
「あのカバンには発信機が付いてるんだ。美依本人は知らないけど。俺の趣味」
「発信、機?」
「そう。俺はね『イケナイ事』が大好きなんだ。壊したり、傷つけたり……これもその延長。美依は俺の玩具なんだ。程好く俺の中で燻ってるものを発散させてくれる」
南寺静馬はまるで親友を紹介するようににこやかに語りながら、北淀美依のだらりと転がる腕を靴の爪先で蹴り押す。
その発言の異様さに、浅井は、彼も『普通じゃない』のだと察する。自分と同じだと。浅井は思わず口の端が上がるのを感じる。
「南寺さんもそうなんだ」
そう言って浅井は笑う。安心したような何処か力の抜けた笑み。だけどその笑みはすぐに流れ落ちる。
「和宏に『普通じゃない』って言われたことがあります。でも俺にはその『普通』がわからない。俺にとって昔から当たり前にある感情を、どうして『普通』じゃないって思えます?」
「だけど浅井くんはずっと自分を律していた。そうじゃなければ、今頃刑務所暮らしをしているはずだ」
「そうですね。『普通』じゃないと言われて、ずっとこれは表に出してはいけないものだと我慢してました。でももう苦しくて」
浅井は語る。
それは餓えるような感覚に似ていたと。
人気だというアダルトビデオを見ても何とも思えない。逆に白けるような気分になった。それでも『普通』になろうと、努力はした。
でも満たされない感覚だけが腹に溜まる。
もうずっと餓えていた。だけど伊藤に言われた『普通じゃない』の言葉がずっとずっと耳の奥で響き続けた。煩い耳鳴のように。
だけどあの夜。
三月の夜。
暗い路地を一人歩く女性の後ろ姿を見て、自分の中で風が抜けていくような感覚に満たされた。
気が付けば、護身用に持っていたナイフを女性に突き立てていた。
……護身用ではなかっただろう。ずっと『行為』に及ぶ機会を狙っていたのかもしれない。
悲鳴も抵抗もなく重く動かない身体が心地良かった。
徐々に血の気も体温も引いていく肌に満たされた。
とても素晴らしい時間だった。
腹の底から暖かくなるような幸せな一時だった。
一人の女性の命を奪った罪悪感は微塵もなかった。
「とても幸せでした」
浅井は穏やかに笑う。
彼は最後の『一線』を越えてしまったのだ。
それは浅井にとって何にも代え難い幸福なのだろうということは、南寺静馬には痛いほどわかった。
そしてそれは、未だ南寺静馬が到達し得ない境地だった。
彼は、本人の言う通り幸せなのだろう。
南寺静馬は不本意ではあるが、浅井の得たものに羨ましいと思えてならなかった。
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