第21話『夜に蠢く』

 北淀美依ほくでんみよりの不運は、伊藤を追いかけてしまったことに他ならない。

 彼女は気絶した後に二人の男によって、その近くにある建物へと運び込まれた。

 一人は伊藤、そしてもう一人は……。


 その建物は随分前に老朽化から人の立ち入りが禁じられた五階建てのビルで、以前は一階に喫茶店、それより上には個人営業の会計事務所や小さなオフィスが入っていた。

 人に使われなくなった建物は一気に荒れるというが、この建物も例に漏れず、人がいなくなって一年程だが中は荒れ放題だった。

 窓ガラスは大半が割れ、壁や床の塗装が剥がれコンクリートが見えている状態。

 周囲の住民は早く解体を望んでいるが、所有者は今すぐ解体するだけの費用が用意できず結果放置するしかないらしい。

 北淀美依はビルの四階の部屋に運ばれると、コンクリートの床に寝かされる。

 彼女の通勤カバンが乱雑に壁際に落とされるが、その音でも彼女が目を覚ますことはなかった。


 伊藤は、北淀美依が気絶してから此処に来るまで、ずっと泣いていた。

 これから彼女の身に起こることを想像しているのか、犯罪の片棒を担がされたことを嘆いているのか、『彼』を止めることのできない自分に憤っているのか。

『彼』にはどうでも良かった。

 だけどこれから彼にとっての晩餐が始まるというのに、いつまでもべそべそと泣いている伊藤を鬱陶しく感じていた。

「鬱陶しい。いつまで泣いてるんだ」

『彼』は伊藤に言い放つ。

 伊藤は涙を流しながら「どうしてこんなことするんだよ」と嗚咽混じりに嘆く。

 どうして?

 何故そんなことを訊くのか『彼』には不思議だった。

「やりたいから、それ以外何があるんだ」

『彼』は甚く真面目にそう答える。それ以外何があるのか。

 もしかしたら、伊藤は『彼』からの迷いや後悔、良心の呵責といったものを期待していたのかもしれない。

 だけど今の『彼』に届くはずもない。


「見てたいのか?」


『彼』はそう言いながらコンクリートに横たわる北淀美依に歩み寄り、彼女が来ているスーツの上着を引っ張る。その瞬間、上着の前ボタンを固定していた糸が切れて、そのままボタンは転がっていく。

 北淀美依はぴくりとも動かない。

『彼』は彼女の上着を引っ張ったまま、伊藤を見る。

 伊藤の顔は悲痛そのもので、とても見るに堪えないという様子だった。その証拠に伊藤は逃げるように部屋を飛び出した。

 ドタドタと煩い足音が部屋に響く。

 伊藤が逃げ出すのを見送ると、『彼』は北淀美依の上着から手を離す。

 上着を引っ張り上げられコンクリートの床から少し浮いていた彼女の身体が抵抗なく落ちる。だけど相変わらず北淀美依は動く気配はなく、腕がだらりと落ちる。

『彼』は北淀美依の身体を横に立つと、ゆっくりとしゃがみ彼女の顔を覗き込む。

 固く閉じられた目に、ゆっくりとした呼吸で上下する肩。

 軽く頬をなぞると春の夜の外気に晒されて少し冷たくなっているが、まだじんわりと体温が残っている。

 彼女はまだ生きている。

 この呼吸が止まり、肌は固くなり、血の気が引いてくる姿を想像して気分が高揚してくる。

 この頃の彼女は、化粧では隠しきれないほどの隈と疲れ顔をしていた。

 とても好ましいと思っていた。

 先日の二人は、限られた時間での行為だったこともあり、雑な手法を使ってしまったが、彼女は丁寧に扱いたい。

 起きられると面倒なので、手早く息の根を止める。その後は青白くなった彼女を見ていたので血抜きをする。手首を切るのが良いだろうか。

 何せ今回はゆっくりと味わいたい。身体は綺麗な方が良い。

 そう思いながら、『彼』はゆっくりと北淀美依の首に手を伸ばす。

 触れると、まだ温かい。彼女は、まだ生きている。

 でもすぐに冷たくする。

 そう思いながら、『彼』はゆっくりと手に力を入れ始める。


 が、その時、コンクリートの床をコツコツと歩く靴音が聞こえてくる。

 伊藤が戻ってきたのか。

 いるのか、帰るのか、はっきりしてほしい。

『彼』は彼女の首にかけていた手を離すと、伊藤が戻ってくるのを待つ。待ってやる義理もないが、好いタイミングで来られて気分が白けても困る。

 本音を言うなら、さっさと帰って欲しい。

 さっきの様子では何か恨み言でも言うつもりかとうんざりしながら、『彼』は部屋の入口を見る。

 だけどやってきのは伊藤ではなかった。


 暗闇に薄らと浮かぶシルエットは男性だった。

 ピンと伸びた背筋に、とてもではないが廃墟のビルに迷い込んだという恐怖はなかった。

『彼』は思わずやってきた男を睨む。

 もう少し部屋に進み行ってくれれば、月明かりでその姿がハッキリ見えるのに。

 こっちへ来い。

『彼』はやってきた男を睨むが、月明かりで徐々にその姿が誰であるかわかり血の気が引いた。


「やあ、まだ美依は生きてるかな?」


 そう言って微笑む男は、紛れもなく南寺静馬みなみじしずまだった。

『彼』は、突然やってきた南寺静馬に思わず言葉を失った。


 ***


 仕事を終え駅へ向かう南寺静馬のスマートフォンが振動する。画面を見ると、樢上西駕もくじょうさいがからの着信だった。

 この人が連絡してくるなんて珍しい。

 南寺静馬は不思議に思いつつ通話に出ると、バーでよく聞く朗らかで落ち着いた声が聞こえてくる。


「北淀さんが何やら面倒なことに巻き込まれているような様子でして」


 そんな言葉から始まった樢上の話。

 北淀美依が『バー・ジュラブリョフ』にやってきたこと。

 先日起こった殺人事件で不安を感じているということ。

 そんな話をしていると彼女の会社の新入社員が現れたこと。

 新入社員が走り去るのを彼女が追いかけていったこと。

 老紳士は、殺人事件のくだりをオブラートに包みながら話していたが、南寺静馬はこれまでの経験上、北淀美依が自分を犯人として疑っていたことを察した。

 此処最近の彼女の様子のおかしさの理由がわかって腑に落ちる。

「(あの女……)」

 怒りはなかったが、呆れる気持ちが大きかった。

 これまでの彼女との関係で、北淀美依が自分にそういう疑いをかけることに驚きはしないが、まさかこんな身近なところで事件を起こすほど迂闊な人間であると思われていることに溜息が出る。

 少し考えればわかるだろうが。

 あとやるならもっとわからない方法を取る。

 そういう意味で彼女が自分を信用していなかったことに寂しさのようなものを感じる。それに気付いて、なんだかんだ、自分は北淀美依に対して親しみのようなものを抱いたのだと思う。


「樢上さん、連絡ありがとうございます。美依の方は連絡してみます」


 南寺静馬がそう言うと樢上は「ではお願いします」と言って通話を切る。

 スマートフォンを片手に、南寺静馬は老紳士の会話を思い出す。

 その中で気になったのは伊藤の存在だ。

 北淀美依は南寺静馬を殺人犯として疑っていた、この話はわかる。

 では伊藤は?

 彼は誰を疑っていたのか。

 正直、彼が入社して数日で、彼に殺人を疑われる要素はない。

 じゃあ誰を?

「……」

 南寺静馬は小さく息を吐くと、再びスマートフォンに視線を下ろした。

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