第23話『終幕』

「悦に浸ってるところ悪いけれど、美依は連れて帰らせてもらう」

 南寺静馬みなみじしずまは、何処かのぼせた様にぼんやりとした表情で自身が行った殺人事件について語る浅井にそう言い放つ。

 するとその瞬間、冷水を顔にかけられでもしたかのような驚きの表情で彼は南寺静馬を見た。

 何の冗談だ、これから更なる楽しみが待っているのにそれを奪うつもりか。

 そういう非難的な視線を南寺静馬に突き刺す。

 しかし南寺静馬はその視線に微笑みで返す。


「南寺さんは、北淀さんが好きなんですか? だから俺に取られるのが我慢できないんですか?」

 浅井は床に横たわる北淀美依ほくでんみよりを見る。この状況でもやはり目を覚ますことはないが、いつ起きるかわからない以上さっさと殺したい。

 南寺静馬は足元に転がる北淀美依を見ながら何かを考えるように首を傾げる。

「……情はあるよ残念ながら。でも愛じゃあない。コイツは、そうだな、俺の足に絡んだ縄だよ」

 そう言いながら南寺静馬は再び爪先で北淀美依の腕をつつく様に蹴る。

 彼の表情は困っているような呆れているような、でも怒ってはいない顔だったことに浅井は不思議になり「縄?」と問い返す。

 南寺静馬はゆっくりと浅井に視線を戻すと「そう」と頷く。

「いつも足に絡んで鬱陶しい。それで、俺が、今なら『普通』でいるための最後の一線を越えようかって時に、俺の足を引っ張る。振り払おうと思えばいつでも振り払えるけれど、何となく払えないでいる。いつもコイツは俺が動こうとしたタイミングを外してくるんだ」

 そう言いながら、南寺静馬は高校三年の冬のことを思い出す。

 学校の図書室で北淀美依の首を絞めたことがある。あの瞬間、南寺静馬は『普通』でいるための最後の一線を越えようとしていたし、その事に躊躇はなかった。

 でも、自分の手を掴んでいた北淀美依の手がするりと床に落ちたとき、彼女は笑ったように見えた。勿論それは南寺静馬の錯覚だったのかもしれない。

 だけど彼女が薄ら笑ったのを見て、この女はこのままでは死ぬ、と焦ってしまった。

 そう、あろう事か、焦ったのだ。

 何処かでこの女は死なないのだと勘違いしていた。

 でも、美依はこんなにも簡単に俺に殺されてしまうのか、そう思わず呟いた。

 この時から考えるようになった。

 自分は『普通』の中にいたいのか、『普通』の中から抜けたいのか。

 その『一線』を越えるのは、本当に簡単なことなのだ。

 だけど、北淀美依の顔を見ていると、越えるタイミングがわからなくなる。


「まだ、美依といる生活も悪くないくらいに思ってる。だからコイツはあげられない」


 南寺静馬はそう言うと困ったように笑った。

 しかし浅井も後には引けない。此処で逃げすくらいなら。そう思い、右手をズボンの後ろポケットに這わせる。そこには必要になるだろうと持ってきていた折り畳みナイフを入れていた。

 浅井はナイフを出すと、刃を南寺静馬に見せつけるようにゆっくりと出す。

「……此処で俺たち二人とも殺すつもりか?」

「逃がして、南寺さんが通報しないとは限らない。通報されればものの数分でこのビルは囲まれる。そしたら大事な時間が滅茶苦茶だ」

 浅井の言葉に南寺静馬は、確かに囲まれるそれもすごい人数だろう、と安易に想像してしまい笑いそうになる。

 浅井はゆっくりと南寺静馬にナイフを向ける。

 だけど南寺静馬は焦ることも恐れることもなく、北淀美依のそばに立ったまま浅井を眺めていた。この場で命を諦めているようにも到底見えない。

 その余裕に満ちた様子に浅井は顔をしかめる。

「逃げたりしないんですか」

「逃げる? どうして? 俺は、見届ける、そう話をつけてきたからね」

「は?」

 見届ける? 何を?

 浅井が南寺静馬の言葉に困惑していると、突然南寺静馬の後方にある部屋の入口から誰かが走ってくる。

 南寺静馬は誰かがドタドタと走ってくる音が聞こえても微動だにせず浅井を見ていた。

 浅井は南寺静馬が居たせいで、誰が入った来たか見えず反応が遅れる。

 走ってきたのは伊藤だった。

 伊藤は浅井の前まで来ると、ナイフが握られた右手を両手で掴む。

 片腕ならば浅井が力で押し勝っただろう。伊藤もそれがわかっていたのだろう。両手で右手を掴むとそのまま窓際に押していき、思い切り右手を壁に叩きつけた。

 不意を突かれたこともあったのか、浅井の右手からナイフはすぐに落ちる。そのままナイフは滑っていき、くるくると回転しながら二人と南寺静馬の間で止まる。

 本来体格の良い浅井ならすぐに伊藤を振り払えるだろう。だけど伊藤は必死で浅井に掴みかかる。

「邪魔すんな! 退け!」

 そう浅井が叫ぶが、伊藤が手を離さない。それどころか浅井を掴む手に更に力が入る。伊藤は歯を食いしばって必死で浅井の腕を掴んだ。

 そして弱々しくか細い声で「ごめん」と呟いた。

 その声は南寺静馬には聞こえず、ただ浅井の鼓膜を揺らした。

 浅井は突然の伊藤の言葉に驚いて彼の顔を見る。

 伊藤は泣いていた。

 このビルに来る前から泣いていたのに、まだ泣いているのか、と驚きと呆れが浅井の中で沸き起こるが、それ以上に苛立ちと鬱陶しさが浅井の感情を埋める。

「悪いと思ってんならさっさと離せよ!」

「僕が、あの時、秘密を打ち明けてくれた時、ちゃんと話ができてたらお前は人を殺したりしなかったのかな」

「はあ?」

 浅井には、伊藤が何を言っているのか全くわからなかった。

 伊藤は何かが変わったかもしれないと思ったのだろう。

 だけど浅井は思う、何も変わらない、どの道こうなっていたと。

 それを突きつけてやろうと浅井が口を開いた瞬間、伊藤は浅井から手を離す。

 そして、伊藤は思い切り、浅井を突き飛ばした。

 割れてガラスが無くなった窓の向こうへ。

 浅井は自分の身体があっさりと傾き重量に従って落ちていくのがわかった。

 伊藤はまだ泣いていた。

 ずっと泣いていた。

 浅井が四階の窓から落ち地面に到達するのを、まるで目に焼き付けるように伊藤は涙を零しながら見送った。

 浅井はずっと伊藤の顔を見ながら、コイツはいつまで泣いているつまりなんだ、と心底呆れ、そして―――。


 重いものが地面に落ちる音が響いて終わった。


「―――あぁ、あああ、ああああっ」

 伊藤はそのまま窓際に崩れ落ちる。

 何度も何度もコンクリートの床に頭を擦りつけて小さな声で何度も、ごめん、と言い続けた。

 南寺静馬は彼らの様子を見届けると、ポケットからスマートフォンを出しながら、窓際に歩み寄り伊藤の肩を叩いた。


「警察に通報する。あの人、身内がいると分かればすぐに来るからさっさと片付けるぞ」


 南寺静馬は淡々とそう告げると、スマートフォンを耳に押し当てた。

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