第16話『南寺静馬の溜息』
何事かと、彼は同僚たちの注目を集める場所を探す。
そこには目元を赤く腫らした
それほど広くないマーケティング課のオフィスで、皆少し前に久住が
わかりました、とにこやかにオフィスを出て行った彼女のこの変わり様に様々な憶測を招く。
大黒は自分が用事を頼んだ直後に泣いて戻ってきた久住に戸惑いつつも近づき慌てて自分のハンカチを差し出す。
だけど久住はそのハンカチを受け取ることはせず自分のハンカチを取り出して目元を拭う仕草をするので、大黒は行き場のなくなったハンカチをズボンのバックポケットに押し入れた。
「えっと、どうしたんですか? 何が遭ったんですか?」
大黒が恐る恐る尋ねるが、久住はハンカチで目元を隠したまま首を横に振る。
「何でもありません。目に、ゴミが」
久住はそう言うと、まだ赤く腫れた目元のまま笑顔を作る。
久住が何でもないと言う以上、大黒はそれ以上追及することができないものの「体調が悪いなら早退しても大丈夫ですから」とだけ心配そうに告げてデスクに戻って行った。
久住は大黒に小さく頭を下げると再びハンカチで目元を隠して自分のデスクへと戻る。
その時の彼女の表情は、南寺静馬からは窺いみることはできなかった。
「……」
どうにも、面倒なことが起こっていることを南寺静馬は感じていた。
久住は、何でもない、そう言っていたがどう見てもそうは見えない。
そう感じているのは南寺静馬だけではなく大半のオフィスの人間もそうだった。
先日も彼女に何かちょっかいをかけている様子だった。
何を吹き込むつもりかは知らないが、どうせ大したことはできないだろうと思い特に留意していなかったが、この様子では何か仕出かしたのだろう。こんなことなら予め釘を刺しておくべきだったかと、南寺静馬は溜息をつきたくなる。
「鬱陶しい……」
思わず声が漏れてしまうが、幸いその声を聞いた者は誰もいない。
普段なら思うだけで、口にすることはなかった。だけど最近の彼女の言動に南寺静馬はそろそろ抑えが効かなくなるような、そんな気配を自覚していた。
南寺静馬は彼女に対して苛立っていた。
最初はいつだったか、南寺静馬もあまり深く覚えていない。
南寺静馬は昔から人を集める人間だった。その容姿故、その愛想故。少し考えれば相手がどんな反応を返して欲しいのかがわかり、その通りにすると相手は喜んだ。だからそれは『良い事』で『望まれている事』だと思っていた。
彼女が自分を見ていることに気が付いたのはいつだったか。
南寺静馬を囲む人の輪に入ってくることはなく、ただ彼を見ていた。
その視線は熱烈というには痛々しく、苛烈だと、南寺静馬は感じた。
話すようになり、その性質は一層強くなった。
彼女は南寺静馬を毛嫌いし、お前は善人の皮をかぶった腐れ外道だ、と罵った。
これまでの人生一度だって言われたことのない言葉を平然と言い放った。
今まで、これほどあからさまに自分を嫌う人間はいなかった。
彼女には、南寺静馬に対して明確な敵意があった。
別に彼女に何かしたわけでもないのに。
南寺静馬自身に落ち度があり、それ故の結果なら仕方ないと思えただろう。
だけど、彼女の場合、南寺静馬としては自身に明確な落ち度はなかったと自覚している。
だから、南寺静馬は彼女の態度に腹が立った。
それは今も変わらず続いている。
彼女は南寺静馬の人生における『最初の敵』なのだ。
如何にすれば彼女は大人しくなるのか。
それはもう死体のように。
そう考えた時、南寺静馬は不意にいつか北淀美依の首を絞め殺しかけたことを思い出す。あの時は辛うじて理性が勝り、北淀美依を殺さなかった。
だけど、次はどうだろうか。
これまで自分の情欲を満たすために行動を起こしてきた。それは自分の心と身体を満たすために行為だった。
でも次は、明確に殺意を持って動くのではないか、そんな予感を南寺静馬は感じている。
本当に鬱陶しい……。
南寺静馬は苛立ちを落ち着かせようと大きく息を吐くと、一度だけ彼女の席を見て、すぐに視線をパソコンのモニターへ戻した。
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