第15話『久住桜雪』
その日から
冷戦なんて温いものじゃない。
南寺静馬は完全に北淀美依をいないものとして扱うようになった。
それほどに昨日のことが気に障ったのか。
南寺静馬がこんな怒り方をするのは、今までにないことだったから、北淀美依としても戸惑った。
だけどその反面、何処かほっとしている部分もあったのだ。
マーケティング課の女性社員たちは明らかに異様な雰囲気を醸し出す北淀美依と南寺静馬の間に何かがあったことを早々目敏く察すると、皆一様に、南寺さんと喧嘩してるんですか、なんて心配そうな顔を貼り付けて北淀美依を気遣うような素振りをしていたが、一部女性は普段から南寺静馬のそばにいる目障りな女がいなくなったことをチャンスだと認識しており、肉食系の本能丸出しで南寺静馬の周りに屯っていた。
「(鬱陶しい……とか思ってるんだろうな)」
北淀美依はパソコンのモニターに視線を向けつつも、隣りの席で女性社員たちに笑顔で応える南寺静馬の内情を感じ取ったけれど、今日ばかりは良い気味だと思ってしまうところ、ここ最近溜まったストレスの八つ当たりなのだろうと自分でもわかっていた。
さて、どうしたものか。
北淀美依はキーボードをのろのろを叩きつつもこれからどうしたら良いのかを考えていた。
昨日は思い切って追及しようと詰め寄ったものの、結局彼女自身の空回りで終わった感じは否めなかった。
空回った挙句、この上なくあっさりと躱されてしまった。
そして恐らくあの話題をもう一度南寺静馬に蒸し返すのはかなり難しい。
というか、この状況で会話を成立させるのも不可能に近い。
「(そもそも、私、何がしたいんだろ)」
南寺静馬の無実を証明したい?
南寺静馬を心配している?
いや、どっちも違うな。もうそういう次元に北淀美依の心はないのだ。
いつだったが、緊張と恐怖が振り切って南寺静馬を殴ったことがあったが、北淀美依の心情はその時に似ていた。
この十年、南寺静馬と関わっていく内に幾度となく過度なストレスに晒され続けてきたせいで、悲しいことに北淀美依のストレスへの耐性は高校一年生の春と比べて強まってしまっていたのだろう。
だけど、今回の二件の殺人事件とそれに対する南寺静馬への疑いが、この十年少しずつ耐性を強めていたはずの北淀美依の精神に多大な負荷をかけた。
そして昨日の南寺静馬との決裂。
あの瞬間、北淀美依の精神は限界を迎えた。
結果、彼女は自棄を起こした。
十年前は一発殴ることで収まったが、これまで溜まった鬱憤は一発殴るだけじゃあ収まらないところまで来ていた。
お前がその気ならこっちにも考えがある。こうなったらハッキリさせてやろうじゃないか。隣にいる男が、『快楽殺人犯』なのか、それともギリギリ『ただの変態』なのか。
あの殺人事件が南寺静馬の仕業だったとしても、もう、諦めた。それなら警察に突き出すのも一つの道だろう。
……いや、もういっそ、警察に突き出してコイツとの縁を目出度く切るのが良いのでは?
そんなかなり面倒な振り切れ方をしていたのだ。
「(そうだ、もういっそ警察に捕まってくれ)」
北淀美依はその結論に気持ちが軽くなる。
だけど僅かに、本当に僅かに、後ろめたさもある。
勿論、百パーセント、南寺静馬の犯行であると信じて疑っていないわけではない。
だけど、危うく絞殺体になりかけた北淀美依としては、僅かな可能性を信じるにはもう気持ちが疲れてしまったのだ。
そもそも警察が悪いのだ。
一件目の事件でさっさと犯人を捕まえてくれないから、北淀美依がこんなにも気を揉んでいるのだ。警察が犯人を捕まえていれば、現場がこんな近くでなければ、南寺静馬にアリバイあれば……そう考えていたところで、北淀美依の脳内にふとある考えが浮かんだ。
「(どうして気がつかなかった……!)」
北淀美依は天啓を得たかのように、突然の閃きに勢いよく立ち上がった。
ガタリと音を立てて立ち上がった北淀美依は、南寺静馬以外の人間の視線を集めた。
「……し、失礼しました」
北淀美依は恥ずかしさに顔を赤くして視線を彷徨わせると、逃げるようにトイレに立った。
皆が怪訝そうにその姿を見送ったけれど、やはり南寺静馬だけがその騒々しさに顔を上げることはなく、黙々と自分の仕事をこなしていた。
***
「何でこんな簡単なことに気がつかなかったんだろ」
トイレに逃げ込んだ北淀美依は思わず呟いた。
幸い女子トイレには誰もおらず、北淀美依は恥ずかしさで上がった体温を少しでも下げようと、洗面台で手を洗っていた。
そうだよ、アリバイだよ!
何故こんな簡単なことに気がつかなかったんだろう!!
三月の事件のときは完全にアリバイのなかった南寺静馬であるが、二件目にはアリバイがあれば良いのだ。警察は前回と今回を同一犯の仕業だとしているのだから。
そして一昨日、南寺静馬は飲み会の後、久住を送っていった。
もしかしたら、彼女が何か知っているかもしれない。
どうせ南寺静馬本人に訊いたところで言うはずもない。それなら彼女に聞くほうが手っ取り早い。
そう考えが至ったとき、コツコツと女性の足音を思わせる軽やかな音が近づいてきた。
足音はそのまま女子トイレにやってきた。
「北淀さん」
ひょこりと顔を覗かせたのは久住であった。
何と都合の良い。
北淀美依は久住の方を見た。すると久住はにこりと笑い返してくれた。
「課長がお呼びでしたよ。この間の企画の件で相談したいことがあるって」
「そうなんだ、ありがと……」
久住の言葉に北淀美依は視線を泳がせた。
久住なら飲み会の後の南寺静馬の行動について何か知っているかもしれないと閃いたのは良いが、いざ、切り出すのにどうしたら良いかと尻込みしてしまった。
一昨日、南寺静馬といなくなったけど、あの後どうしたの?
何だ、この、まるで彼氏の浮気を探ってるような女の台詞は。
どのように切り出すのが一番勘繰られないで良いか、北淀美依は良い台詞を考えるが中々思いつかないでいた。
そもそも昔から引っ込み思案なところがあったけれど、南寺静馬と遭遇してからというもの、近づいてくる女の子の大体は南寺静馬との仲を取り持って欲しいというコか、南寺静馬との仲を妬んで嫌味を言ってくるコばかりだった。
思春期の女の子が如何に恐ろしいかということは残念なことに、よく理解させられた北淀美依は女性に対して広い交友関係を築くことができなかったのは勿論、未だに北淀美依から女性相手に会話をするとき、当たり障りのないことしか言ってこなかった。
相手が北淀美依に対して探るような会話を仕掛けてくることは幾度とあった、面倒事には巻き込まれたくないという意識が強くあるせいか、北淀美依は自分から相手を探るようなことはしてこなかった。
だから、昨日、南寺静馬にも上手く話を進めることができないでいるのだが。
北淀美依が難しい顔で悩んでいると、久住は不思議そうに彼女を見た。
「戻らないんですか?」
「も、戻るよ……あのさ、久住さん」
北淀美依は意を決して彼女に声をかける。
久住は、戻ると言ったのに自分を呼び止めて深刻そうな顔で立ち尽くし北淀美依を不思議そうに見る。
きっとこれから北淀美依が発する言葉に、久住の可愛らしい顔は呆れ顔に変わってしまうことは安易に想像できたが、北淀美依自身ここ数日の精神的負荷を消し去るために意を決して口を開いた。
「飲み会の日、あの後大丈夫だった? 南寺が久住さんのこと送っていったって聞いたけど」
どういう風にいえば二人の中を詮索していないとわかってもらえるか、考えた末の言葉がこの様だった。
口にしてから北淀美依は頭を抱えたくなった。
もっと何か良い聞き方があったのではないのか。
しかしもう音として出てしまった言葉が消えるはずもない。きっと久住も呆れた顔をしているだろう。
彼女のことだ、恐らく呆れ顔も可愛らしいのだろうなんて現実逃避をしながら久住の顔を見た。
だけど彼女は呆れた顔はしていなかった。
寧ろ、何処か思い詰めたような顔で北淀美依を見ていた。
北淀美依はこの数日見てきた可愛らしい新入社員のあまりに厳しい顔つきに戸惑うしかできなかった。
何か言うべきなのだろうか。
そう考えるが、先に動いたのは久住だった。
久住は両手で、北淀美依の両肩を掴みそのまま壁に押し付けた。
あまりに突然のことに北淀美依は身体を縮こませて久住を見ているしかできなかった。
「北淀さん、『ただの同級生』だって言ってたじゃないですか」
久住の声は震えていた。
それが怒りからなのか北淀美依には到底わからないが、彼女が真剣なのは両方を掴む彼女の手の力の強さから嫌というほどわかった。わかりたくなかったけど。
弁解しようにも北淀美依はこの状況に飲まれてしまい頭も真っ白になった。
否定の言葉も出てこない。でも早く何か言わないと、そう逸る気持ちだけが北淀美依を急かすけれどやっぱり何も言葉が出ない。
久住はそんな北淀美依をじっと見つめて、彼女は彼女の言葉を口にする。
「お願いします、もうこれ以上静馬に関わらないでください。お願い、ですから」
真剣で熱の篭った声が北淀美依の鼓膜を揺らす。
久住の大きな瞳には涙が滲んでいた。彼女の黒い瞳に涙が満ちて、照明の光を反射して輝いているように見えて、北淀美依は現実逃避のようにその瞳を綺麗だと思った。
久住と南寺静馬の間には確かに何かがあったのだ。
北淀美依の存在や発言が久住の心を揺るがせるの何かがあったのだ。
それはふわふわとした軽やかで甘い恋だったのかもしれない。
思春期も終えて成人し社会人になった彼女が泣いてしまう程、久住の中で『南寺静馬』という存在が大きくなっているのか。
あんな男、ロクでもないから今すぐ考え直して。
そう言えれば良かったのかもしれない。そしたら傷つく女性が一人は減らすことができる。だけど北淀美依は言えなかった。
南寺静馬を想って涙を流す彼女から、こんなにも真剣で鋭い感情を叩きつけられて身が竦んでしまったから。
北淀美依があまりの状況に硬直していると、久住は我に帰ったのか、北淀美依の肩を掴んでいた手を慌てて離す。
彼女は「ごめんなさいっ」と言いながら、自分の目元を袖で拭う。
その仕草も庇護欲を駆り立てるのに十分な動きで、北淀美依は罪悪感に襲われる。
久住は「本当にごめんなさい」ともう一度北淀美依に謝罪すると先にトイレから出ていってしまう。
その後ろ姿を見送りながら、北淀美依は今この場で起こったことを思い返す。
あっという間の出来事だったが、北淀美依が受けた衝撃はとても言葉では言い表せないものだった。
「えー……」
思わず出た悲鳴とも驚嘆とも思える自分の気の抜けた声を聞きながら、北淀美依は早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと胸の上から何度も撫でたが、どうにもすぐには落ち着くことがなさそうで途方に暮れた。
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