第14話『決壊』

 目眩やふらつき、そして吐き気にも気持ち悪さに北淀美依ほくでんみよりはその場にうずくまって動けずにいたが、その場にたまたま、兄・北淀露樹ほくでんつゆきの職場の後輩が北淀美依を見つけて声をかけてきた。

 真っ青な顔の彼女に驚き、兄に連絡して迎えに来てもらった方が良いのではないと申し出てくれたが、あの兄のことだ、今の妹の状態を見て発狂するんじゃないかと想像してしまい北淀美依はその申し出を丁重に断った。

 それに付け加え、ただ寝不足なだけだからとどうか兄にはここで自分を見たことは言わないでほしい心配をかけたくないと頼み込んだ。

 兄の後輩は心配そうな様子だったが、恐らく職場でもシスコンを拗らせているのかすぐに「わかりました、妹さんも気をつけて帰ってください」と言って去っていった。

 内心もう少し粘られるかと思ったが、あっさり引いてくれて北淀美依は安心した。

 北淀美依は二件目の現場のすぐ近くにあるバスの停留所に置かれたベンチに腰を下ろす。体調と気分が落ち着くまで休ませてもらうつもりだった。

 ちらりと伊藤が行ってしまった駅の方を見るが、当然彼の姿はない。恐らく北淀美依の様子に気付かずそのまま行ってしまったのだろう。まだ連絡先の交換もしていないからこっちに連絡は来ないだろうが、北淀美依としてはもうそのまま帰宅していて欲しかった。誰かと話したい気分でもなかったから。

 北淀美依はベンチからぼんやりとブルーシートを見つめる。

 ただぼんやりとニュースで数秒顔を見ただけの小津理奈おづりなのことを考える。彼女の感じた恐怖がどれだけのものだったのか。

 その最期の姿を想像して、自分勝手な話だが、自分がそうなっていないことに心の底からほっとしていたことに気付いて落ち込む。


 いや、そもそも南寺静馬みなみじしずまの犯行とは決まっていない。


 アイツじゃない、アイツのしたことじゃあない。

 顔の前で両手を組み、祈るような気分で額を手に当てた。

 彼女自身、これ以上悶々と考えていることに堪らなくなった。

 寸前まで火にかけていた熱々の鍋の底を腹に押し付けらているような苦行。腹の中の熱くて痛くてしょうがない。ストレスをあまり溜め込まないように適度に発散させてきたはずの北淀美依に、この半月、急激に膨大なストレスが加わった。

 底の方に小さなヒビの入ったビーカーには、常に水が入っていくけれど、入った水はヒビから抜けていく。入っていく水も出て行く水もいつも同じくらいなるように心がけていた。例えるなら蛇口でちょろちょろ落ちてくるような。

 だけど今回はまるでホースで最高出力の水を注ぎ込まれた。水は当然溢れ、あまり強い出力だったせいで、底にあるヒビは穴になりかけていた。つまるところ決壊寸前。それが北淀美依の精神状態だった。

 この瞬間までは、何とか水を溜め込まないように努力していた。だけど二件目の事件が起こり、その日に限って南寺静馬が帰ってこなかった。深まる疑惑に、北淀美依は無自覚であったが、もう限界を超えてしまっていた。

 どうにかしたい。

 でも一体どうしたら。

 そう思ったとき、不意に俯いていた彼女の頭に固い物が当たる。

「?!」

 北淀美依が慌てて顔を上げると、其処には南寺静馬が立っていた。彼はスマートフォンを持っており、どうやらそれで小突かれたのだとわかった。

 何故コイツが此処に。そう考えると同時に一気に血の気が引くような気分だった。

 慌てて腕時計を見ると、勤務時間は終わっており、北淀美依は自分でも気付いていなかったが随分長くこの場にいたのだと知る。


「何してるんだこんなところで」

「……ちょっと気分悪くて。アンタこそどうして此処に」

 南寺静馬の言葉に、北淀美依は彼の顔を見れず伏し目がちにそう返す。すると南寺静馬は持っていたスマートフォンの画面を北淀美依に向ける。

 恐る恐る画面を確認すると、伊藤が南寺静馬に宛てて送ったメッセージが表示されていた。

 商社から駅までの道で北淀美依とはぐれてしまったが、連絡先を知らないので確認してもらえないかという内容だった。

 ああ、心配かけてしまったな。

 北淀美依は伊藤に申し訳なく思っているが、それでも南寺静馬が此処にいる理由になっていない。

「……でも静馬が此処にいる意味ないよね。連絡くれれば済むことだし」

「連絡した。返事しなかったのは美依の方だ」

 そう言われて北淀美依はカバンからスマートフォンを出して確認する。確かに南寺静馬から数度メッセージと着信があった。

 ……この男は一応自分を気にかけているのか。でも、それは、どういう意図なのか。監視? 束縛? 悪い発想しかでてこない。

 そんなことを考えていると、南寺静馬はふと建物と建物の間の道を覆い隠すブルーシートに視線を向けた。

 彼もニュースを見て、此処で何が起こったかは知っているのだろう。

「まあ、美依はついでだ。すぐそこで二件目の殺人事件が起こったから物見遊山で来たんだ」

 彼はそう言いながら、何処か熱の帯びたような視線でブルーシートを見つめる。


「漸く晩餐を迎えられて最高の気分なんだろうな」


 南寺静馬はぼそりと呟く。

 その不穏な言葉に北淀美依は伏せていた顔をあげて漸く南寺静馬を見た。

 彼は彼女が自分を見ていることに気が付いたのか、ブルーシートからベンチに座ったままの北淀美依に顔を向けて無言で見下ろす。

 久しぶりに顔を見たような錯覚に襲われる。こいつはこんな顔をしていただろうか。そんな不安が北淀美依の思考にへばりつく。


「……静馬さ、何か、隠してるでしょ」

 いつもは南寺静馬の内情に深く踏み込まないようにしていた北淀美依が、遂に、そんなことを口にする。

 南寺静馬は相変わらず北淀美依を見下ろしたままだ。

「急にどうした」

「昨日の晩、何処で何をしてたの」

「……訂正、何の問題がある」

「えっ」

「俺が外泊をして、それが一体何の問題があるのかって聞いている。未成年じゃあるまいし、外泊くらいでガタガタ言ってくるお前こそ一体何なんだ。お前に一体どんな関係があるっていうんだ」

「関係……って」

「俺とお前の間には、外泊の理由を逐一説明するために必要な関係性なんてない。俺にしゃべらせたければ、それに十分な理由を持って来い」

 南寺静馬は槍のように鋭い視線で北淀美依をメッタ刺しにする。

 北淀美依は何も言い返すことができず、視線を彼から逸らしただただ押し黙った。

 そんな彼女に南寺静馬は耳につくほど大きな溜息をついて駅の方へ向かって先に歩き出す。

 結局何の解決にも至らなかったこの時間に更なるストレスの蓄積を感じつつ、ヤツを見送らなくてはならないだろうと思ったが、南寺静馬は数歩進んで何故か止まってしまう。そして再び鋭い視線を北淀美依に突き刺した。


「そもそも俺に『言えないこと』があるのは、美依の方だろう?」


 え。

 北淀美依はその言葉に思わず視線を南寺静馬へ戻したけれど、その時には南寺静馬の既に歩き始めていて行き交う人の姿に阻まれて見えなかった。

 北淀美依は南寺静馬の言葉に、ついにビーカーの底が決壊したのを感じた。

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