第17話『あの夜の出来事』
皆、北淀美依が戻ってきたのを見て視線を下げてしまう。
一瞬何事かと北淀美依は、自分よりも先に泣き腫らした久住が戻ってきていることを思い出す。
新入社員の、それも可愛い女子が北淀美依を呼びに行った直後に泣いて戻ってきたのだ。どう考えても、北淀美依と久住の間で何かあったのだと勘繰るだろう。北淀美依だってそう思う。
空気悪いな。
北淀美依は正直居た堪れない気持ちに襲われながらも、それでもまだ勤務時間であることを考えれば帰るなんて選択肢も出てくるはずもなく、渋々大黒の元へ向かう。
久住は大黒に頼まれて北淀美依を探しに来たと言っていた。今任されている企画の件での確認だと。
正直今の状態で行きたくないし、大黒の心情を察するときっと今は北淀美依をそっとしておきたいと思うだろう。北淀美依と久住の間に何かあったとしてもなかったとしても、オフィスの空気は何かがあったと言いたげだ。この空気が収まるまでは、勿論北淀美依だって大人しくしておきたい。
でも自分が担当している仕事である以上、放っておけないという気持ちで重い足を引き摺るように大黒の元へ向かう。
大黒もどんな顔をして北淀美依を迎えれば良いかわからないという、何とも困った顔で北淀美依を迎える。
「えっと、私が担当している企画の件で課長が呼んでると聞いたんですが……」
「あっ、うん、えっと、はい、そうなんです」
大黒は自分のデスクに座ったまま、デスクの前までやってきた北淀美依を迎える。
だけどその様子に焦りが見えて、彼は北淀美依に見せるための資料をファイルから出して彼女に見せようとするが、焦りのあまり、デスクに置いていたペン立てを倒して入っていたペンをデスクにぶち撒ける。
「あっ」と大黒は驚き慌てて倒したペン立てに手を伸ばそうとするが、その最中伸ばした手がデスクに立てていたお茶のペットボトルに当たって倒れる。
「……大丈夫ですか」
「あっ、すみません」
大黒は更に焦る。わたわたと戸惑う大黒に、北淀美依はこの重い空気に迫られていた気分が少し晴れる。
北淀美依は笑いそうになるのを我慢しながら、倒れたペン立てを戻してペンを戻すのを手伝う。
大黒は「ありがとうございます」と言いながらペットボトルを立てようとするが、転がっているペンの上に置いてしまいまたペットボトルが倒れる。その様子に、北淀美依は申し訳ないと思いつつも少し声を出して笑ってしまう。
大黒にもその声が聞こえたようで思わず苦笑で返す。
デスクの上が片付くと、漸く大黒は企画の資料を広げて、いくつかの訂正箇所を提示する。それを聞きながら北淀美依は、直せるところは了承し、直せない箇所は相談を重ねた。
話が終わって自分のデスクに帰ろうかと北淀美依が思っていると、大黒は気まずそうに、そして小声で呟く。
「あの、北淀さん、答えづらければ何も言わず戻ってください。……その、久住さんと何かありましたか?」
「あー……」
「久住さんは何もないと言ってましたっ。何もなければそれで良いんですが……僕はこの課の責任者なので、もし、何か困ってたり悩んでることがあれば、勿論、話せる範囲で構わないので」
しどろもどろになりながら大黒は言うが、徐々にその声が萎んでいく。もしかしたら彼自身出過ぎたことを言ってるのかと落ち込んでいるのかもしれない。
良い人だな。本当に人が良いのだ。
もし北淀美依自身が思い悩んでいることを話したら、この人はきっと彼女以上に頭を抱え、だけど真剣に一緒に悩んでくれるだろう。
だけどどうして言えようか。『貴方の部下が殺人犯かもしれず悩んでます』なんて口が裂けても言えない。
北淀美依は曖昧な笑みしか浮かべることができず、席に戻った。
***
大黒に相談はできなかったが、実のところ、彼の指摘通りそろそろ北淀美依一人ではどうにもならなくなってきたということは自覚していた。
しかしどうすれば良いかがわからない。
今どうにかして知りたいのは、
そう考え、北淀美依は定時で仕事を切り上げると逃げるように『バー・ジュラブリョフ』へ向かった。
あの店の入口には監視カメラが着いていたのを思い出したからだ。以前バーの看板、マーカースタンドと言ったか、折り畳み式でペンで文字を書いたり消したりできるタイプのものが店の前に置かれていたが、それに消される悪戯に遭っていたので、監視カメラをつけて犯人を見つけようとしていた話を思い出した。
元々防犯のためにもつけようかと考えていたらしく、良いタイミングだったよとマスターは笑っていた。結果として、悪戯の犯人は郊外にある大学の学生だったらしいが和解が成立しているらしい。
もしかしたら何か手がかりになるようなものが映っているのではないかと期待していた。
北淀美依は『バー・ジュラブリョフ』に入ると、一目散にカウンターへ向かう。他にどんな客が来ているかなんて気にも留めずにカウンターでシェイカーを振っているマスターの元へ進む。
「あぁ、北淀さん、お疲れさま。今日は残業なかったのかな?」
そう柔和に笑って北淀美依を迎えるマスター。北淀美依はその言葉に応えるよりも先にカウンターに辿りゆき、カウンターに勢いより両手を着く。勢いが余りすぎて、バン、と大きな音が出てしまいマスターは驚いた顔で思わずシェイカーを振る手を止めてしまう。そんな彼を余所に、北淀美依はカウンターから身を乗り出すようにマスターに詰め寄る。
「マスター、お願いがあるんですけど」
「えっ、何かな、可愛い女性の頼みは断らない主義だけど、内臓とか指とか切るのは嫌だよ?」
誰がそんなこと頼むんだ。
あまりに物騒なことを言って曖昧に笑うマスターに、北淀美依の勢いが少し弱まるどころか思わず引いてしまうが、此処に来た目的を瞬時に思い出して再びマスターに向き合う。
「この前、私たちが貸し切った日の監視カメラの映像って残ってますか? 表の分だけで良いので」
「監視カメラ? 残ってるよ? どうして?」
マスターは手にしていたシェイカーを再び振りながら不思議そうに訊く。
やっぱり理由を尋ねられるか。北淀美依自身、訊かれると思っていたが、いざ問われると少し言葉が詰まった。しかし引くわけにも行かず、しかし本当のことも言えず、濁した言葉を探す。
「……実は、あの日、静馬が新入社員のコを送っていったんです」
「えっ、あの南寺くんが? 意外ー」
北淀美依の言葉に、マスターは関心を示してくれる。その反応を見て、北淀美依は言葉を続ける。
「その後の様子が気になって……変わった様子なかったか確認したいんです」
「へえ、南寺くんがねえ。此処に来た女の子に声かけられるのは何度も見てるけど、そういう誘い乗らないから、女の子より男の子に気があるのかって思ってた。けど、別に男の子も探してる感じじゃないから本命がいるか、もう性欲が枯れてるのかと思ったけど、へえ、南寺くんが……」
マスターは心底驚いたようにぼやく。
まさかそんなことを思っていたとは。
彼の言葉を聞きながら、北淀美依は、それ絶対本人には言わないでくれ、と内心冷や汗を流す。
「あの日はマーケティング課の歓迎会だけで、他のお客さんもいなかったから別に見せるのは良いけど」
マスターはそう言いながら、シェイカーの中身をグラスに注ぐ。そして出来上がったカクテルを盛り付けると、カウンターの端に座っていた男性に出す。
その男性は
先日駅まで送ってもらって以来で、北淀美依は老紳士に気が付いて「お騒がせしてすみません」と頭を下げる。
樢上は出されたカクテルに口をつけると、少し減ったカクテルのグラスを回すように揺らす。何も反応が返ってこず、北淀美依は聞こえていなかったのかと少し戸惑いつつ一旦距離を置く。
マスターはシェイカーを洗うと、カウンターの内側に置いているパソコンを操作しだす。恐らく表の監視カメラはそれで確認できるのだろう。マスターは、あれって何日前だっけ、とぼやきながら操作している。
マスターがパソコンに向かって、北淀美依と樢上から意識が外れているのを確認したのか、樢上は「探りたいのはもっと別のことではないのですか」と呟く。その声が聞こえて、北淀美依はぎょっとして樢上に視線を向ける。
「あの……」
「見ていればわかります。伊達に歳を食ってません。そういうことは顔を見てばわかります」
樢上は穏やかに笑ってカクテルを煽る。北淀美依は思わず苦笑いを浮かべる。
そうしている内に、マスターはカウンターにパソコンを置いて、画面を北淀美依に向ける。
「北淀さん、あったよ。君たちが帰る時間で良いかな?」
「はい」
「じゃあ、この辺りかな」
マスターは北淀美依に画面を向けていたが、横から器用に操作して動画を再生する。
動画の始めには、店の外の風景が映る。監視カメラは入口付近を斜め上から見下ろす角度で置かれていた。
数秒して、誰かが店から出てくる。北淀美依には後ろ姿でわかる、南寺静馬だ。
彼が最初に出てきて、監視カメラに背を向けた状態で他の社員たちが出てくるのを待っている様子だった。
そこへもう一人店から出てくる。
彼女は監視カメラに背を向けて立っていた南寺静馬の正面に回ると、何かを話しかける。残念ながらこの映像には音声は入っていないので、会話の内容はわからない。
でも、北淀美依は久住の表情に驚く。
彼女は南寺静馬に対して冷ややかな笑みを浮かべていた。
オフィスでは人懐っこい柔らかい笑顔を浮かべていた彼女がこんな笑い方をしていることに言葉を失うが、それと同時に既視感のある笑い方だと思った。
気のせいか、こういう笑い方を北淀美依は知っている、そう感じた。
久住は一言二言、南寺静馬に耳打ちするように呟くと、いつものような可愛らしい笑顔を浮かべて先にふらりと歩き出してしまう。
その直後、南寺静馬は少し顔を傾けて、店から出ていた社員に何かを言うとそのまま久住が歩いて行った方へ追いかけるように歩き出し動画からいなくなってしまった。
始めから最後まで、南寺静馬の表情は全くわからない。
何を言われて、彼がそれをどういう風に受け取ったのか。でも、何となく、これまでの経験上、映像の南寺静馬は『怒っている』ように見えた。表情が見えないから、彼女の勘でしかないが……。
二件目の事件の手がかりになるようなものは何一つ映っていなかったけれど、南寺静馬と久住の間には明らかに何かあるように見えたが、それを暴くと良くないことが起こるような、そんな予感が北淀美依を襲った。
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