第9話『新社員歓迎会』
『MAE』マーケティング課の新入社員歓迎会は、ここ何年かは会社の最寄り駅に近いバーを借り切って行われている。
知る人ぞ知る、隠れ家的な店『バー・ジュラブリョフ』である。
元々マーケティング課課長である
彼が課長就任の折、最初の企画を成功させたお祝いをしたかったが良い店が見つからないとマスターに零したところ、マスターが「じゃあウチ使います?」と提案をくれて以来、マーケティング課の飲み会は大体この店を借り切って行うことになっていた。
今回の飲み会の幹事を頼まれたのは
まぁ、場所も決まっていたし、仕切るくらいならまだ良いだろうと、気楽に引き受けたのだった。
『バー・ジュラブリョフ』は駅前の大通りから横路一本逸れた場所にある。
内装はマスターの気まぐれでよく変わったりするが、今年に入ってからはシックな黒を基調としたテーブルとイス、それにあった装飾品で固められていた。
照明はどのような内装のときでも間接照明で薄暗く保たれている。
内装は気まぐれに変わったりするが、入口の正面の壁に設置されたカウンターだけはいつも変わらずそこにある。
ホールには四人がけのイスとテーブルが六組あり、いつ来てもこのテーブルが全て埋まっているのを見たことがない。
最近一人バイトを雇ったらしいが、それでも大通りにある店ほど混み合っている印象はなく、いつ来てもゆったりとした気分でお酒を飲める店だ。
ホールの右側には五人から七人ほどの人間が入れる個室も用意しているらしいが、そちらを使用したことがない。マスター曰く、女子会をする女性たちが時々集まっているらしい。
マスターは北淀美依より年上であるが、それでもまだ若い印象を受ける男だ。
柔らかい口調と温和な顔付きでどことなく南寺静馬と似たような雰囲気を醸し出しているが、それでも優等生気質を装っている南寺静馬に比べると軽いフットワークの持ち主である。
カッチリとスーツを着込んだ印象の強いのが南寺静馬だとすると、ネクタイを外しシャツの一番上のボタンを外し着崩したラフな印象を得るのがマスターだった。
酒を飲みながら誰かに何か話したいとき、マスター相手ならつい愚痴を零したくなる気持ちはよくわかる。
「すみません、今日はよろしくお願いします」
『バー・ジュラブリョフ』営業開始直後、本日貸切の札が下げられた扉を恐る恐る開けて中に入った北淀美依は、カウンターでつまみの準備をしていたマスターに本日の幹事として深々と頭を下げた。すると飄々とした軽い声が下げた頭にぶつかった。
「いいよいいよ。ウチもいつも贔屓してもらって嬉しいしね。今年の新人さんに女の子がいるっていうし、今日は視界が華やかだろうね。女の子は多いに越したことはないよ」
北淀美依が顔をあげると、マスターは菜箸を片手に嬉しそうに笑っていた。
「それで? 新人さんはどう?」
「かなり美人ですよ。目鼻立ちもはっきりしてるし、多分マスターの好みですよ」
「それは期待しなくては」
マスターは真剣な顔で呟くが、すぐにいつものような柔らかい表情に戻りおつまみの盛りつけを再開した。
「ところで」
「はい?」
「今日は南寺くんと一緒じゃないんだね」
「……」
「まぁ、そういう日もあるよね」
マスターは深く追及することはせず、盛りつけの作業を続けた。
北淀美依は何も答えず、カウンターの椅子に座ると彼の作業をじっと見つめた。
「そんなに見られると恥ずかしいな」
北淀美依の視線に気付いたマスターは、手を止めずに、でも少し恥ずかしそうな顔を傾けて笑った。
北淀美依は視線を彼の手元に落としたまま、不安そうに唇をもごもごと動かす。
「……私と……静馬って傍からどう見えてるんですか?」
複雑そうな面持ちで北淀美依はマスターに問いかけた。
彼女自身、どうしてそんなことを彼に問いかけたのかわからないでいた。
ただ、何となくだが、自分と南寺静馬の関係を改めて認識したいと思ったのかもしれない。はっきりと理由のない考えだったけれど、それを口にした瞬間、彼女は僅かに肩の荷が軽くなったような気がした。
マスターは彼女の問に、作業の手を止めて首を傾げて、そうだな、と考える。
「彼氏彼女……という感じではないかな。そんな甘ったるい空気があるのは感じたことないし。どちらかというと殺伐としてるよね。何だか力関係があるように見えなくもない」
よく見ている。
北淀美依は彼の言葉を聞きながら、ああそうだとも、と認識する。
確かに彼女と南寺静馬の仲は殺伐としていたのかもしれない、この十年ずっと。
北淀美依はこの十年の南寺静馬との出来事を思い出したが、マスターはそれとは気がつかず言葉を続けた。
「それでも雰囲気は最悪かと聞かれるとそれは違うと思う。南寺くんは他の人に対して一歩引いた接し方をしているけれど、北淀さんに対してはそうじゃない。北淀さんも普段他の人に対して遠慮したりしてるところはあるけど、南寺くんに対してそうじゃないように見える。北淀さんは南寺くんが素を見せることのできる数少ない人であると同時に、南寺くんは北淀さんが遠慮を忘れてしまう人であると僕は思うわけ。それって『彼氏彼女』でも難しい在り方だろうし、そういうのを『親友』って言うんだと僕は勝手に定義している」
「親友……」
「だから早く仲直りしなよ。君たちは二人共意地を張り倒しそうなところがあるから、どちらかが折れないと、多分、長引くよ」
マスターはそこまで言うとニヤニヤと笑った。
そもそも親友云々の件は全否定したいところだが、北淀美依は言い淀んでしまった。それは彼の言う処の『他人への遠慮』であって、照れだとか図星だったからだとか、そういうわけではないと、北淀美依は自分に言い聞かせるとまだ目の前で笑みを浮かべているマスターに、ギムレットください、と叫んだ。
***
結局この新入社員の歓迎会で、北淀美依が口にした酒は、開始前にマスターに半ば無理矢理入れてもらったギムレット一杯だけだった。
飲んだ直後、マーケティング課の面々がやってきたので、北淀美依は幹事としての役割をこなすべく、その場を仕切った。
マーケティング課は去年漸く二十人になった。
北淀美依と南寺静馬が入社する三年前に立ち上げられた課で、当初は窓際だの左遷だの、散々言われた課であったけれど、その頃から課長を任せられていた大黒を始め、初期メンバーの頑張りで功績が認められ、今では社内での注目の部署になった。そのため人員も少しずつ増えていき、今年は三人が新たに配属され、マーケティング課は二十三人になった。
「それでは新しい仲間も加わり、今年も一年頑張りたいと思います。久住さん、浅井くん、伊藤くん。よろしくお願いします」
課長である大黒の挨拶で、歓迎会という名の飲み会が始まった。
最初は六組あるテーブルを全て横に繋げて一つのテーブルのようにしていた。
皆、適当に席に座り、酒を飲み料理を摘みながら、周りの人間と談笑していた。酒が入ってくると、テーブルを分け各自グループを作って飲み出すというのが、マーケティング課の飲み会の恒例の風景だった。
そして女性社員は皆尽く南寺静馬の周りに集まっていた。マーケティング課は三分の一が女性で、その女性社員目当てに何人も男性社員が集まっているのだが傍から見ると南寺静馬の周囲の人口密度が酷い。
しかし例外もいた。北淀美依、そして久住だった。
北淀美依はいつものことだったが、まさか久住もそうだとは……。
北淀美依は大黒と談笑しながら酒を飲む久住を横目に意外だと思った。
あんな攻撃力の高い意思表明をしたものだから、てっきり久住も南寺静馬の近くにいくものとばかり思っていた。
マーケティング課での飲み会になると、いつも南寺静馬が女性社員を集めていた。
これはもう見慣れた風景になりつつあったし、マーケティング課の他の男性社員はもうそれを自然現象として諦めていた。その代わりというか、まぁ、大した気遣いという訳というわけではないのだけれど、南寺静馬が女性社員を集めてしまっている間、北淀美依が男性社員に酌をして回るというのが常となっていた。
南寺静馬が女性社員を集めているのは、飲み会の中盤辺りで皆程好く酒が回っている頃合のときだ。それでも一時的とは言え、女性社員を集めてしまうので、気を使って北淀美依が酌をして回っていたのだ。
そして今回も。
だから今回も例外なく北淀美依はビール瓶を片手に男性社員の酌に回っていた。ちらりと南寺静馬の方を見たが、一方的に盛り上がっている女性社員たちを見ていると、多分もう暫くはあのまま続くだろうことは容易に推測できた。
「あとは……」
北淀美依はホール内をぐるりと見渡した。
大体の同僚たちに酌はして回ったけれど、『彼ら』にはまだしていなかったことに気がついた。
彼ら、とはこの歓迎会の主賓とも言える新入社員で、久住を除く二人の男性社員・浅井と伊藤のである。二人はカウンターの方に座って飲んでいる様子だった。
「……」
北淀美依は二人の背中を見ながら、近づいても大丈夫な雰囲気か探った。
彼女が思うに、この二人は恐らく入社以前からの知り合いだろう。
二人の間に初対面のようなぎこちない空気はなく、又聞きした話では大学の同回生だという話だ。
だけど北淀美依と南寺静馬のような時折二人の間を取り巻く険悪な空気は、彼らが入社してからの短い期間の内には感じたことはなかった。
きっとこういうのが『友達同士』というのだろう。
それを思うと、彼女は改めて、自分と南寺静馬の在り方に溜息をつきたくなった。
「飲んでる?」
北淀美依はビール瓶片手に恐る恐る二人に近づいた。
浅井も伊藤も振り返るが、その顔は酒が入っているためか些か赤い。
新入生は歓迎回飲み会の最中、慣れない空気に緊張している人が多いけれど、今回の新入生はそうではないらしい。
「ビール飲める人?」
北淀美依がビール瓶を傾けると、浅井はグラスに僅かに残っていたビールを飲み干し照れ笑いを浮かべながら差し出した。北淀美依はそのグラスにビールをなみなみと注いだ。
「ありがとうございます、北淀さん」
「どういたしまして。伊藤くんはビール苦手?」
「はい。全然お酒が強くなくて……」
北淀美依が伊藤に声をかけると、伊藤は烏龍茶の入ったグラスを片手に申し訳なさそうに笑った。
「良ければこっちに座りませんか」
浅井は空いていた右隣のカウンター席を北淀美依に勧めると、彼女はその申し出を素直に受けて浅井の隣りに座った。
北淀美依は浅井の隣りに座ると、身体を捻って浅井と伊藤を見た。
浅井は精悍な顔つきにがっしりとした体型から、体育会系の部活をしてきた印象を受けた。逆に伊藤は浅井に比べると細い印象を受けた。恐らく他の人間と並べばそうは思わないが、大きな身体の浅井と並ぶからそのように感じるのだろう。北淀美依が言えた義理ではないが、この二人も相当凸凹コンビに見えた。
「入社して三日目だけど、どう? 困ったことはない?」
北淀美依は身体を二人に向けて尋ねた。
すると伊藤よりも先に浅井が答えた。
「はい、皆さん凄く良い人で、一から丁寧に仕事を教えてくれるのでとても勉強になります」
そう、まるで模範解答のような返事をもらい、北淀美依は思わず苦笑する。
結構飲んでいるように見えたけれど、そんな答えが出てくるということはまだ大して酔ってないし相当に酒が強いのかもしれないなんてことを勝手に考える。
「それなら良かった。何か困ったことやわからないことがあったら、課長でも誰でも捕まえて言ってくれて大丈夫だから。最初は仕事を覚えるところから地道に頑張ってね」
「はい」
浅井は大きく頷いてみせる。まるで教師と生徒のようなやり取りだ。
「そういえば浅井くんと伊藤くんは大学から一緒だったんだってね。学部も同じだったの?」
「いえ、学部は違いました。でも
「そうなんだ……」
和宏とは伊藤の名前だ。その名前呼びに親しげな空気を感じた。
「そういえば、北淀さんと南寺さんも入社以前からの知り合いだって、他の先輩が言ってましたね。俺たちみたいな幼馴染とかですか?」
「幼馴染ってわけじゃないわ。高校からの腐れ縁・・・ていうか」
「? 仲が良いって聞きましたよ。同じ志からこの会社を選んだって」
「そ、そうなんだ……」
一体誰がそんなことを吹き込んだのやら。北淀美依は思わず苦笑を浮かべた。
「二人はお付き合いしてるっていう先輩もいましたよ」
「あー、それはないです。大嘘です。私たちそんな仲ではありません」
「そうなんですか?」
「そうです」
北淀美依はあからさまに顔をしかめて否定すると、浅井は驚いた顔をするがすぐに嬉しそうに笑ってみせた。
「てことは北淀さんは今フリーなんですか?」
「えっ」
「年下ってどうですか? 自分で言うのもなんだけど俺って割と優良物件だと思いますけど」
「えっ、えっ?」
唐突に自分を売り込んでくる浅井の様子に北淀美依は戸惑った。
これは今までになかったことだった。
北淀美依と南寺静馬を並べてみたとき、北淀美依は南寺静馬の本性の隠す壁であり、模範的優等生である南寺静馬という花を引き立てる平凡な雑草としての北淀美依。
誰も雑草に目を止めることなんてなかったから、こういうアプローチをされることなんてなかった。だからこのまさかの浅井の言葉に北淀美依は焦った。
だけど今まで黙っていた伊藤が見かねたように口を開いた。
「
伊藤が弱々しい様子でそう呟くと、浅井は苦笑を浮かべた。
「すみません、北淀さん。でも考えておいてください」
浅井がまるで今度ご飯を食べに行きましょうくらいの気軽さでそう言った。
そういう経験が全くなかった北淀美依にとってただただ混乱を巻き起こすことになった。
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