第10話『暗雲』

 それから数時間、マーケティング課の面々は陽気に酔い、そろそろ解散しようかという空気になっていた。

 その頃には、南寺静馬みなみじしずまの周りに集まっていた女性社員も彼を解放しそれぞれ酒や会話を楽しんでいた。

 北淀美依ほくでんみよりも男性社員たちへのフォローを終え、課長のそばで出された料理を摘んでいた。


「それじゃあここではそろそろ解散します。次に行きたい人は自分の体調とか終電の時間とか考えて遊んでください」

 大黒がそう声をかけると、皆荷物を持ってぞろぞろと店を出ていく。

 北淀美依は幹事であるから、支払いとマスターにお礼を言って一番最後に店を出た。

 いつもならマーケティング課の飲み会の後、次の店に行かない北淀美依と南寺静馬はここで他の社員たちと別れて帰路につく。同じマンションに住んでいるから、不本意だが一緒に帰るのだ。だからいつもなら南寺静馬は店先で北淀美依が出てくるのを待っているはずなのだ。

 だけど、今日は違っていた。

 店を出ると、既に南寺静馬の姿はなかったのだ。

「……」

 店の前を見回すがどこにも見当たらない。

 次の店に行くと盛り上がっていた社員たちもいなくなっていたから、まさかと思うが彼らに一緒に行ってしまったのだろうか。

 北淀美依は不思議に感じつつも、まだ店の前に屯っていた男性社員に声をかけた。

「すみません。南寺は次の店に行ってしまったんでしょうか?」

 そう聞くと、声をかけられた社員は一瞬目を逸らして言葉を詰まらせる様子を見せた。

「えっと……南寺くんは、もう帰ったよ」

「えっ」

「何か、久住さんを送って行くって言ってさっさと歩いて行っちゃたけど」

「……」

 その言葉に男性社員は驚いた顔で言った。

 その言葉に北淀美依も驚く。

 過去、幾度となくこのマーケティング課で飲み会が行われても、南寺静馬が二次会へ行くことも、誰か女性社員を送っていくなんてこともなかったのだ、たった一度だって。

 その南寺静馬が久住を送っていったことに北淀美依は驚きを隠せなかった。いつも会社の女性に良い顔をしつつも、何処か一歩引いた接し方をしていたあの男が送っていくなんて……。

「明日、嵐かもしれません」

「うん。俺も驚いてる」

 真顔で呟く北淀美依に、男性社員も真顔で頷く。

「俺で良ければ送ろうか。駅までだけど」

「大丈夫です、久郷くごう先輩駅から反対方向でしょう? まだ明るいし、人も結構いますし」

「なら良いけど。この間若い女の子が殺された事件だってあったし、北淀さん一応若い女の子の部類に入るんだから気をつけて帰りなよ」

「一応は余計です」

 北淀美依はぴしゃりと言い切ると、そのまま駅に向かって歩き出した。

 酒もあまり入っていない北淀美依の足取りはしっかりとしており、人混みを縫うように歩きながら駅を目指していた。

 しかしながら、その精神は揺らいでいた。


『この間若い女の子が殺された事件だってあったし』


 男性社員のあの言葉が原因だった。

 あれ以来ニュースでもあの事件の続報はなく、恐らく警察は解決の糸口もまだ掴めていないのだろう。

 こういう仕事から解放された心が空虚になりやすいとき、北淀美依は考えてしまうのだ。

 南寺静馬がやってしまったのでは……と。

 疑わずにはいれないのだ。

 あの男はそれだけの要因を北淀美依の前に積み上げてきたのだから。

 そんなことを考えてしまうと、ふと脳内で南寺静馬が久住の首を締めて恍惚とした表情を浮かべているシーンを容易に想像できてしまった。

 正直今は一緒にいると気まずいから、先に帰ってしまった南寺静馬の行動に安堵したものの、そのかなりよろしくない想像が脳内を過ぎったとき、やっぱり自分が首根っこを掴んでマンションまで連行すべきだったと激しく後悔してしまった。

「(久住さん……大丈夫かな)」

 昼間の発言のことから久住に強烈な苦手意識を植えつけられたものの、それでも彼女のことが心配になった。

 とはいえ南寺静馬も顔見知りを標的するようなことはしないだろう、経験上。

 そう結論が出ているのに、北淀美依の足取りは重かった。だけど、そんなことを考えていると、突然後ろから肩を叩かれた。

「!」

 驚いて振り返ると、浅井がにこりと笑って立っていた。

「浅井くん」

 北淀美依が『バー・ジュラブリョフ』を出たときにはもういなかったから、てっきり次の店に行ったものとばかり思っていた。

 てっきり伊藤も一緒だと思ったが、浅井が一人ということに北淀美依は意外だと思った。

「伊藤くんはもう帰ったの?」

「何か用事があるって先に帰りました」

「そうなんだ」

「北淀さんもそこの駅からですか?」

「えぇ。浅井くんも?」

「下りで六駅です」

「私も下りだわ」

「じゃあご一緒していいですか?」

 浅井の言葉に北淀美依は答えに困った。

 というのも、今まで、南寺静馬以外の男性と帰り道を共にしたことがなかったからだ。

 加えて、浅井は飲み会の最中、北淀美依に気のあるような素振りを見せたからだ。

 それが北淀美依を戸惑わせた。

 その戸惑いを容易に察したのか浅井は申し訳なさそうな顔で苦笑した。

「そんなに警戒しないでくださいよ。最近物騒だし、俺みたいなのでもいたらマシかなって思って。今日のところは、それ以外の意味はないんで安心してください」

 そう言われて、北淀美依も申し訳なく苦笑した。

「それじゃあお願いしてもいいかな」

 北淀美依がそう言うと、浅井は嬉しそうににこりと笑った。


 結局浅井は北淀美依をマンションの近くまで送ってくれた。

 電車の中では、普段はあまり誰かに自分のことを話すのが苦手だった北淀美依だったが、浅井が聞き上手だったためつい色々話してしまった。

 家族のこと、よく見るテレビ番組のこと、学生時代からの趣味のこと、そして南寺静馬のこと。

 勿論彼の本質については話していない。話したらどんな目に遭わされるか。ただ高校からの腐れ縁であるとか、差し障りのない出来事だけ。

 昔から周囲に人気だとか、頭が良くて試験もいつも学年で一番だとか、そういうことだけ。

 男に男の話をしても詰まらないだろうなと思ったが、浅井は相槌を打って聞いてくれた。誰かに、当たり障りない話だが、南寺静馬のことを語るのは初めてかもしれない。でも話せば話すほど、自分が知っている南寺静馬という男の半分に過ぎず、もう半分はとても語れることのない闇が潜んでいると思い知らされた。

 電車が北淀美依の最寄駅に着くと、わざわざ下車させるのが申し訳なくって断ろうとしたけれど、浅井は定期を持ってるから平気ですと言い、近くまで送ってくれた。

 男性からここまで紳士的な扱いを受けたことがなくて、北淀美依は正直終始シドロモドロな様子であったけれど、何とか帰宅することができた。

 段差があれば手を貸してくれようとしたり、扉を開けてくれたり。

 足元がふわりと軽くなって、覚束なくなるような不安定な感覚。

 とてつもなく柔らかいクッションの上に座って、尻がどぼどぼと沈んでいき何とも収まりの悪い感覚。

 慣れない扱いに北淀美依は心底焦った。

 この十年間、南寺静馬と共にする時間は多かったけれど、こんな『女性に対して』の扱いは受けたことはなく、浅井からの扱いにただただ戸惑った。


「はぁ」

 北淀美依は自分の部屋に戻ってくると漸く落ち着けた気がした。

 実家を出るときに持って来たクタクタのクッション座布団は、購入当時のふわふわ感が既に死んでいたが、それでも北淀美依の落ち着きの欠いた尻を受け止めるには何とも都合が良かった。

 北淀美依はテレビもつけず、ただ黙って耳を澄ました。

 隣りから何の音も聞こえない。そりゃそうだ。

 南寺静馬はまだ帰宅していないのは、帰り道に見上げたマンションの四階の窓が真っ暗なことからわかっていた。

 まっすぐ帰って来た北淀美依と違い、南寺静馬は久住を送っているのだ。

 当然帰っているはずがないのは分かっていたけれど、それでもまだ帰らぬ南寺静馬に不安を隠せなかった。

 なんだかんだ自分の目の届かないところにいられると不安でしょうがないのだ。

「さっさと帰って来い」

 さっさと帰ってきて、今日が何事もなく終わることを思い知らせて欲しかった。

 北淀美依はクタクタクッションの座布団に沈んだ尻をゆっくり上げて、窓の外をカーテンの隙間から覗いた。

 窓の外は広い通りに面しており、このマンションへ帰ってくるときはこの道を歩いて帰ってくるのが一番早いし、北淀美依はそうしていた。

 不本意ながら南寺静馬と帰ってくるときもこの道を通って帰ってくるから、あの男が帰ってくればこの窓から見えるかもしれないと思ったのだ。

 さっさと帰って来い。

 そう念じるようにカーテンの隙間から通りを睨むように見つめていると、ふと、其処を通る人の姿に北淀美依は視線を奪われた。

 まだそれほど遅い時間でもないし、中々に広い道なのだから歩いている人間はまだ割といる。人が歩いていることの何処に不思議なことがあるかと思うが、重要なのは『人が歩いていること』ではなく『歩いている人』にあった。

「?」

 北淀美依は思わず目を擦って凝らして、通りを駅の方へと歩いていく男性の姿を射殺すかのような勢いで見つめた。

 だけどその姿はすぐに通り過ぎて行った。

「あれ?」

 その背中は細身でひょろりとしていた。

 恐らく背格好は南寺静馬とあまり変わらない気もしなくもないが、比べてみたらきっと幾分は南寺静馬の方が筋肉があるやもしれない。

 そんな線の細い背中だった。

 そしてその背中は今日北淀美依も見たものだった。

「伊藤くん?」

 たった数秒しか見えていなかったので、本当に彼かと問われれば首を捻らざるを得ない。

 そもそも伊藤がこの辺りを歩いているのは妙だ。

 帰宅中に浅井と話をしたが、伊藤も浅井と同じマンションに部屋を借りているのだという話を聞き、ますます親近感を覚えたから記憶に残っていた。

 考えるに、伊藤が飲み会後にあった用事というのはこの近くでのものだったのか。

 それとも他人の空似か。

 まだ初対面の挨拶を交わして三日しか立っていない男性が、一瞬目の前を通り過ぎたからといってそれが本人だと言い切れるほど伊藤と親しいわけでもない北淀美依はすぐに考えることを諦めた。

「勘違いかな」

 北淀美依はカーテンをきっちり締めて再びクタクタクッション座布団に座ると、ぐったりローテーブルに伏した。


 この日、結局南寺静馬は帰ってくることはなく、早朝のニュースでは二人目の死体が見つかったと報じられた。

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