第8話『二人の距離』
三月が終わり四月になって、『MAE』のマーケティング課には新しい社員が三人やってきた。
男が二人、女が一人。
三人とも緊張した面持ちでマーケティング課の面々を前して挨拶をしたが、皆、この間大学を卒業してきたとは思えないほどしっかりとした挨拶をするものだから
どんな人が配属されるか心配していたが、この分だと杞憂に終わることだろう。
新しい心配の種が増えないことに、北淀美依は殊更安心した。
そして目下、彼女の心配の種……というか頭痛の種というべき存在である
北淀美依自身、どうしていいのかわからないでいた。
混乱していたのだ。
一言、『あの事件、アンタの仕業じゃないわよね?』と冗談ぽく聞けば良いのだ。
いつもの南寺静馬ならきっと鼻で笑った後、きっと彼女のことを延々と罵倒し出すに違いない。
それならそれで良いのだ。
何もしてない南寺静馬を有らぬ罪で疑っていたのだから、それくらいされた方がきっと精神的にも楽になれたはずなのだ。
だけど。
もし。
そうじゃない反応が返ってきたら。
少しでも事件の関与を感じさせるような空気を出したら。
その可能性がゼロでないことを知っている北淀美依は、それ故に、簡単な一言を口にすることができず逃げ回っているのだ。
仕事に必要な会話はするが、できるだけ二人きりにならない。
会話はできるだけ早く切り上げる。出勤時間や退社時間をずらす。
そんな子供の喧嘩みたいなことをしている北淀美依だが、恐らく南寺静馬は彼女の行動にはとっくに気がついていた。
昔からそういうのには目敏い男だったから。
この幼稚な行動を北淀美依が始めて、一日目は気にせず話しかけたり一緒に帰ろうとしたりした南寺静馬だったが、二日目には恐らく空気を読んだかのような行動で示してきた。気の済むようにさせておこう、くらいに思っているのかもしれない。
何も言ってこない分少し怖い気もしたが、北淀美依はそんな幼稚な行動を取り続けていた。
「北淀さん、ここ、見てもらっても良いですか?」
新入社員がやってきてまだ二日目である、三人の面倒を見るのは北淀美依の役目になりつつあった。
というのも、本来課長から世話を任されていたはずの南寺静馬は、ここ最近の彼女の態度に対する意趣返しと言わんばかりに仕事を押し付けてくる素振りがあったが、今、彼と積極的に関わりを持ちたくなかった北淀美依は自分に向かって落とされていく面倒事を甘んじて受け止めていた。
新入社員の面倒を回されたときは、流石に無理だろうと思ったが、今年のコたちは皆しっかりしているので内心ほっとしていた。
今年マーケティング課に配属になった紅一点・
大学生としての甘さもなく入社して今年四年目の北淀美依も焦りを覚えるほどの有能ぶりに、何故こんな中小企業にやってきたのかと考えてしまう。
しかしながら、手間がかからないのは嬉しいことだった。
北淀美依は久住に渡された書類を見ながら頷いた。
「うん、大丈夫。このまま課長に提出してくれる?」
「わかりました」
久住は書類を受け取ると、にこやかに笑った。
可愛らしい女性だと、北淀美依は目の前の新入社員を見ながら思った。
容姿が可愛らしいのは勿論、言動や仕草に上品さが見受けられた。まだ二日目であるが、人当たりもよく柔らかい印象の女性だった。男はこういう女性が好きだろうなと、彼女を見ながら北淀美依はそんな感想を内心漏らした。
さぁ、自分の仕事に戻ろうかと思ったけれど、何故か目の前の久住は北淀美依の前から動かないでいた。まだ何か質問があるのだろうかと思い、彼女は不思議そうに久住を見つめた。
「まだ気になるところとかある?」
「この書類に関してではないんですけど……伺っても良いですか?」
それを聞いて北淀美依は感激した。
なんと向上心のあるコなのかと……!
しかし次の瞬間、久住の口から出た言葉に彼女は固まることとなった。
「北淀さんは、その……南寺さんと付き合ってるんですか?」
最近耳にしていなかった痛いほど直球な質問だった。
去年は男性社員しか配属されなかったからそういうことを聞かれなかったし、何よりそのことを疑問に思う女性は、北淀美依に直接聞くことはせず二人を傍から見ているマーケティング課の女性社員に噂の真相を聞くという方法を取っていた。
だからこんなズバリ疑問をぶつけてくる女性は久しぶりすぎて、北淀美依は思わず顔を引きつらせてしまった。
「私たち、そういうのはないから。親しそうに見えるのは、高校からのただの同級生だからよ。よく勘違いされるの」
不意打ちで正拳突きを食らわされたような気分だったが、それでも新入社員との関係を拗れさせたくなかった北淀美依は努めて笑顔でそう説明した。
本当にあんな男の何処が良いのか理解に苦しむ。
彼女が心の中で南寺静馬に罵詈雑言を浴びせていると、久住は何処か安心したように口元を緩めた。そしてボソリと、
そうですよね、全然釣合いませんよね。
そう漏らしたのだ。
その言葉に北淀美依は貼り付けていた笑顔が崩れてぎょっとした。
自分の思わず零してしまった呟きが漏れてしまったことに気がついた久住は慌てて首を振った。
「ち、違いますよ! あの、北淀さんが、南寺さんには勿体無いっていう意味ですから!!」
「そう、なんだ」
慌てふためく久住に、北淀美依は何とか笑って見せたが、それでも自分の顔が引きつっていたことなんて百も承知だった。
久住は申し訳なさそうに謝りながら席へと戻っていったが、北淀美依は複雑な気分だった。
久住は否定していたが、北淀美依が南寺静馬に勿体無いのではなく、南寺静馬が北淀美依に勿体無い、そういう意味なのだろう。
それは彼女自身よくわかっていたことだった。
昔から周囲の人間がそういうことを言っていたのは知っていたし、南寺静馬に相手にされなかった女性が直接北淀美依に対してそういう内容の罵声を浴びせに来たことも幾度とあった。
慣れていたはずだったが、気分が深く沈んだ。
他人が北淀美依と南寺静馬という組み合わせをどのように見ているかなんてのは昔からわかっていることだった。周りからも非の打ち所が無い完璧優等生と見られるように振舞ってきた南寺静馬と、普通・平凡という言葉が似合う北淀美依が近しい距離を保っていることは、二人の奇妙な関係性を知らない人間にしてみたらただただ不自然で不可思議で不釣り合いなのだろう。
それでも北淀美依は南寺静馬とは対等でいたかったのだ。
私こそが彼の敵なのだ、と。
愛とか恋とか、そんな甘ったるいものは存在しない。
ただ対極な存在であれば良い。
一緒にいるのも嫌だと思っているしワンセット扱いされることに勿論腹が立つ。
だけどそう自分で考えている以上に、怒りや嫌悪の上澄みの下には心配とか友愛などがほんの少しだけ存在していることもわかっている。
この十年は長過ぎた。北淀美依にとって南寺静馬は敵だ。
でもそれだけではないかもしれないということを今更になって突きつけられる。
だけどそんな発見も彼女の中で、どんどん儚く、そして軽薄になっていっているのは自身にもわかった。
切っ掛けは例の『殺人事件』だ。
北淀美依にはアレが南寺静馬の仕業ではないと言い切れる自信も根拠もなかった。
彼を恐ろしいと思う反面、十年付き合ってきた友人を信じることのできない薄っぺらな自分がとても嫌だった。
そんな自分が彼と対等に見られないことを傷つくなんて、自分勝手もいいところ。
そんな自己嫌悪まで湧いてきた。
北淀美依は深々と溜息をつくと、南寺静馬から押し付けられた仕事に集中しようと、ごちゃごちゃ考えるのを一旦止めた。
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