第7話『一線』

 マンションの自室の壁に押し付けられた時、一瞬、もう随分昔の出来事が北淀美依ほくでんみよりの脳裏に過ぎった。あれから随分時間が経ったんだなと他人事のように考える彼女の思考を現実に引き戻したのは、残念ながら『彼』の声だった。


「寄り道せずに帰るんだよって、言っただろ?」


 帰宅早々後ろから壁に押し付けられたままの姿勢で、不本意ながら聞き知った南寺静馬みなみじしずまの声が北淀美依の耳に届いた。

 驚きは悲しいほど無かった。

 過去幾度とこういう状況に曝されていたせいか、思考が停止するほどの混乱に陥っていなかった。随分逞しくなったと自分自身を褒めてやりたかった。

 しかしながら、一応驚いてもいた。

「アンタ……どうやって部屋に」

 そう、ここの鍵は合鍵を作り難いディンプルタイプ。

 彼女が所持している鍵はキチンを管理しているし、長時間鍵が紛失したことなんてないから、この鍵から合鍵を作られたとは考え難かった。朝はキチンと施錠を確認したし、開けっ放しで行ったなんてことはない。

 となると、後はベランダの窓か。窓の鍵もキチンとかけていたはずだから、まさか硝子を割って……!

 北淀美依は瞬時に、リビングに広がる硝子の破片に真っ青になりそうだった。

 しかし南寺静馬の返答は違っていた。

「鍵なんてどうにでもなるよ」

 南寺静馬は、北淀美依の腕から手を離し、視界が僅かに及ぶ顔の真横に見慣れた鍵をチラ付けせた。まだ頭の後ろにある手がそのままなおかげで、壁に押し付けられたまま顔を動かせずにいたが彼女は何とか視線だけ動かし、その鍵を捉えた。

 それは紛れもなく、この部屋の鍵。

 彼女が所持している鍵は、今足元に転がっている通勤カバンに入っているはずだ。

 では彼が持つこの鍵は一体。

「これはね、管理人さんから預かった鍵だよ」

「……はぁ?」

 きっと後ろで満面の笑みを浮かべているだろう南寺静馬に、北淀美依は腹からこれでもかという程不機嫌な声を吐き出した。

 彼が何を言っているのかまず理解できなかった。

 北淀美依の疑問を他所に、彼は楽しげな口調で事の顛末を語りだした。

「管理人さんは同じ階に住み、いつも一緒に出勤して、いつも一緒に帰ってくる男女がいることを知っており、仲が良さそうな二人は、恐らく付き合っているのだろうと思いました。そんなある日、管理人さんは男性の方に呼び止められました。管理人さんは男性から、彼女はおっちょこちょいの寝坊助で、いつもケータイで起こしているのですが、最近それも効果がなくなってきたので、彼女を直接起こしに行きたいのだけど、合鍵は作るのが難しい、何かいい方法はありませんかと相談されました。男性は大変社交的で、たまにゴミ掃除も手伝ってくれる良い住人。彼が困っているのならと、管理人さんは男性に、管理人さんが所持していた女性の部屋の合鍵を快く貸してしまいましたとさ、おしまい」

「はああ! 何それ?!」

「愛想は振りまいておくものだよねって話。何? 自分の部屋だけは安全なんて思ってた? 甘いなぁ、そんなわけないだろ」

 愉しそうな南寺静馬の笑い声が、どんどん北淀美依の腹にムカつきを煽っていった。

 昔からこの男は本当に口が上手いのだ。すぐに人の信用を得てしまう温和で優しげな顔つきに大抵の女は脆く陥落してしまう。

 恐らく此処の管理人も南寺静馬が頼んだから鍵を貸したのだろう。

 いつも一緒にいるからと言って、きっと北淀美依が同じように南寺静馬の部屋の鍵を借りに行っても貸してくれないだろう。

 彼女は解放された腕を思い切り、後ろに向かって振り抜いた。

「おっと」

 南寺静馬はお見通しだと言いたげに、後ろを下がってあっさりと北淀美依の腕を躱してしまった。だけどそのおかげで彼女の後頭部を押さえていた彼の手は離れ、漸く彼女は南寺静馬と向き合うことができた。


 壁に押し付けられていた額がヒリヒリしている感じから、きっと真っ赤になっているだろうと北淀美依は額を摩りながらも、目の前で飄々と立っている南寺静馬を睨んだ。

 きっと退社してすぐに帰宅したのだろう彼は、当然スーツ姿ではなく、黒いシャツにジーンズのズボンというラフな格好だった。

 寄り道をして帰ってきたクタクタな格好の彼女とは大違いだった。

 さっさとお風呂に入って楽な格好になりたいのに、この不法侵入男がいる限りそれも叶わない。

 早々にお帰り願おう。

 北淀美依は自分自身に言い聞かせると、疲れきった顔で彼を睨んだ。

「用件は何」

「用件?」

「用事があったから此処にいたんじゃないの?」

 きょとんとした顔をする南寺静馬に、北淀美依は苛立ちつつも取り敢えず上着を脱いだ。その瞬間、彼は僅かに顔をしかめたように見えて、北淀美依は動きを止めた。

「何よ」

「何が」

「今、変な顔したから」

「あぁ……」

 北淀美依の指摘がその通りだったのか、南寺静馬は口元を手で隠し何かを考えているような格好になった。

 何だ、言いたいことがあるならさっさと言えば良いのに。

「……しょうゆ」

「へ? 醤油?」

「そう。醤油が切れたんだけど今から買いに行くの面倒だから、美依に分けて貰おうと思ったんだけど、なかなか帰ってこないから鍵で入ったんだけど。そしたらタイミングよく美依が帰ってきたから、これはもう驚かすしかないと思って」

 思うな、そんなこと。

 北淀美依は呆れ果てた顔で南寺静馬を見た。

「醤油くらいで不法侵入しないでくれる?」

「今更だろ、不法侵入『程度』でガタガタ言うなよ」

 まぁ、確かに今更という感じはしなくもないが。過去十年を振り返ってみたら、不法侵入『くらい』と思わないこともないのが、北淀美依の悲しいところだった。

 この十年、南寺静馬は自身の欲求のため、罪を重ねていた。

 彼が仕出かしたことの全てを知っているわけではないが、大抵は北淀美依の知るところとなっているのが彼女の不幸なところであった。

 やはりこの男は、彼女の人生において癌だった。

 北淀美依は、彼の秘密を知ることとなったあの日の出来事を悔やむばかりだった。


「ところで、随分遅かったけど、何処行ってたの?」


 唐突に、南寺静馬はそう呟いた。

 そんなこと、アンタに関係ないでしょ!

 そう突っ撥ねようと彼女だったが、南寺静馬のその声のトーンの低さにぎくりとして彼の顔を見た。

 南寺静馬の視線は冷ややかで鋭いものだった。

 彼が怒っているのはすぐに分かったけれど、彼女には何が彼の気に障ったのかが分からなかった。

 経験上、彼の機嫌が悪いのは北淀美依にとって大抵よろしくない方に事態が転ぶ。怒りの矛先が北淀美依に向くことが多かったからだ。


 さて、どうしたものか。


 北淀美依は何とか彼の逆鱗には触れずに済む方法を考えようとしたとき、彼は再び口を開き、何処に行っていたのかって訊いてるんだけど、と少し強い口調で告げた。

 それを聞いて、北淀美依は彼の怒りの原因が自身の寄り道にあることを確信する。しかし寄り道はいつだってするし、何故今日に限って南寺静馬が怒っているのかがわからなかった。

「何そんなにイライラしてんの?」

 困惑と呆れの混じった表情で北淀美依は彼に尋ねた。

 なるべくムキにならないように軽い調子を混ぜて、何でもない風に言ってみせた。

 すると南寺静馬は再びきょとんとしたが、今度はわざとらしく顔をしかめた。

 恐らく彼自身がわかっていなかった不機嫌を彼女に察せられ驚いたのと同時に、自分が苛立っていることを理解して戸惑っている風にも見受けられた。

 南寺静馬は顔をしかめたまま玄関に向かった。

 漸く帰ってくれるのだろう。

「帰るの? 醤油は?」

「何だか食欲もなくなったから、抜いて寝る」

 こいつ……!

 南寺静馬のあっけらかんとデリカシーの欠片も感じられない言葉にはこの十年で多い慣れていた北淀美依だったが、あまりに直球な物言いに流石の彼女も顔をしかめた。だがしかしあっさり帰ってくれるのは、彼女としても有難かった。

 だから北淀美依は、南寺静馬がそのまま玄関から出て行くのを黙って見送った。彼の姿が視界から消えるのを確認して彼女は漸く長く息をついた。


 南寺静馬と出会ってこの十年、北淀美依は彼がしてきたことを見てきた。

 最初の放火に始まり、破壊工作・偽装工作の数々。

 彼はその行為を重ねる毎に、己の欲求を満たしていった。

 罪科愛好ペックアティフィリア

 彼は罪を犯すことに性的興奮を覚えたと言った。

 だが、北淀美依が知る限り、南寺静馬がしてきたことの大抵は、かなり際どいが子供のタチの悪い悪戯の範囲だったと言い切れなくもなかった。


 そこには薄く細い、緩やかで酷く曖昧な線がある。


 知ってか知らずか、南寺静馬はその一線を守っているように、彼女には見えたのだ。でも同時に、いつその最後の一線を踏み越えるのか、北淀美依はいつだって気が気ではなかった。それこそ、場所と状況と、タイミングさえ合ってしまえば彼はいつでもその一線を軽く超えてしまうかもしれないという恐怖と不信感を常に抱えていた北淀美依にとって、今回起きた事件は南寺静馬を疑うには充分なものだった。

 あの路地裏で起こった猟奇的な事件。

 犯人は女性に乱暴を行い殺したのか、殺してから乱暴したのか。

 それは北淀美依にはわからないが、犯人はまだ捕まっておらず、そしてその恐ろしい犯行から『異常な性癖』を持つ人物である男であることは簡単に想像できてしまった。

 そして可能性だけ言うなら、南寺静馬はその犯人像にぴったりだった。

 だから北淀美依は南寺静馬を疑っていた。

 今回の事件の犯人は、彼、ではないのかと……。

 でもそれを面と向かって尋ねる勇気は彼女にはなく、ただ事件の現場に向かって、彼の痕跡の有無を確認するだけで精一杯だったのだ。

 この十年、鳴りを潜めていた南寺静馬に対する恐怖が、この事件を切っ掛けに北淀美依の中に渦巻いていた。彼女は、彼が恐ろしくてしょうがなかった

 昔、秘密を漏らせば殺すと南寺静馬に言われたが、あのときから十年、ただの冗談だとしか思えなくなっていた言葉が急に重みを増したのだ。

 それは北淀美依が抱えていた時限爆弾が、暫く活動停止していたが急に動き出した瞬間でもあった。

 彼女は改めて認識した。南寺静馬が異常な思考の持ち主であるということを。

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