第6話『異常性癖』

 北淀美依ほくでんみよりは第二音楽室への道のりをノロノロと歩きながら、この後自分は一体どんな目に遭わされるのかなんて後ろ向きなことを考えていた。もしかして口封じに何かされてしまうのだろうか。理不尽な目に合わされてしまうのだろうか。

 自分の身に降りかかる不幸に身震いしてしまう。だけど先程南寺静馬みなみじしずまと顔を合わした時のように、徐々に怒りが込み上げてきた。

 どうして私がこんなに気をすり減らさないといけないのか。おどおどすべきなのは私ではなく、アイツの方だろう!

 そういう気持ちがじわじわと北淀美依の苛立ちを募らせてくる。一発、ぶん殴ってやりたい気持ちで一杯になった。

 その苛立ちを募らせ北淀美依は足早に目的の場所へと向かった。


 第二音楽室というのは、普段授業や何かで使っている新校舎に隣接された旧校舎の中にある。旧校舎は数年前に古くなっていたものを大規模な改修工事を行い、今では新校舎以上に綺麗な建物にされている。図書室や視聴覚室など、改修にあたり新しく造られた。第二音楽室も新しく作られた部屋の一つで、以前からもう一つ音楽室が欲しいという要望があったのだ。というのも一つしかない音楽室で吹奏楽部とコーラス部が合同で部活をしていたが、それにも限界があり、改修するという話が出たときに、同部員が直談判しに行ったらしい。そんな理由でできた第二音楽室は部活以外ではあまり使われておらす、人目を憚る場合は持って来いなのだろう。

 北淀美依は目的の部屋の前に着くと、怒りからの興奮に煽られるように遠慮も怯えもなく扉をガラリと音を立てて開け、中に入ると静かな廊下に響き渡るくらい盛大に音を立てて締めてやった。

 まだ新しい音楽室には、同じく新しい机と椅子がいくつも並んでいた。南寺静馬は最前列の窓際に近い机の上に座っていた。外に面する窓にも、廊下に面する窓にも既に遮音カーテンがされており、逃げ場はない、と北淀美依はそういう意思表示がされているような気がした。

 先客である南寺静馬は呆れた顔で彼女を迎えた。

「もっと静かに入ってこれないの?」

 そう呟く彼に、北淀美依は怒りに身を任せたまま近づき、そして、思い切り振りかぶってその涼しげな顔に思い切り平手を叩きつけた。

 突然、それも女子生徒に殴られた南寺静馬はよろよろと後ろへ下がり、驚いた顔で殴りつけられた頬を摩りながら北淀美依を見つめた。

「吃驚した。女の子に殴られたのは初めてだ」

「うっさい! お前の初めてなんぞいるか!」

 北淀美依はそう吐き捨てた。その様子に、南寺静馬は更に驚いた。

 ついさっき、教室で自分に対して恐怖を抱いて縮こまっていた女子生徒が、まるでまるで別人のように殴りかかってきたのだから。

 こいつ、二重人格か?

 素直にそんな感想を抱いたかもしれない。

 驚きを抱いている南寺静馬に対し、北淀美依は自分の体調と気分の揺るがした諸悪の根源に一撃を食らわせたことで、怒りで沸騰しそうになっていた脳内が急激に落ち着きだし、寧ろぞっとするくらい冷静になってきたことで、自分が今した行動に振り返り再び血の気が引いてきていた。

 やってしまった。

 北淀美依は我に返り、南寺静馬を思い切り殴りつけた右手に視線を落とした。手の平はじわりと痛み、慣れないことをしたせいで南寺静馬と接触した部分は真っ赤になっていた。

 昼休みの喧騒もこの元旧校舎の第二音楽室には届かず、シンと息苦しさすら感じる沈黙が二人の間に横たわる。

「えっと……お邪魔しました」

 そう呟くと北淀美織は慌てて部屋から出ようと南寺静馬に背を向けた。

 走って逃げよう。

 この場所は食堂や購買の真逆にあるから、昼休みにこんなところにいる生徒なんていないのが普通だ。人気のあるところへ逃げれば、流石の彼も何もできないだろうと北淀美依は考えた。

 しかし扉に向かって飛び出した瞬間、北淀美依は後ろから突き飛ばされた。

「えっ」

 飛び出した勢いに、更に加えられた前方への力。北淀美依はバランスを崩し、その場に前のめりになり膝から勢いよく座り込んでしまった。床に打ち付けた膝は酷く痛み、思わず悲鳴を上げてしまいそうなのを、彼女はぐっと堪えた。

「残念でした」

 そんな彼女の横をすり抜け、南寺静馬はゆっくりとした足取りで扉に向かい、慣れた様子で扉に施錠を行った。ガチリという金属音に、北淀美依の顔から血の気が引いた。

 南寺静馬は扉からゆっくり振り返ると、まだ床に膝をついたままの北淀美依に笑いかけた。

「まさか殴られるなんて思わなかったよ」

「うっさい……自業自得でしょ」

 北淀美依にはもう先程までの勢いはなく、弱々しく南寺静馬から目を逸らした。

 南寺静馬は扉にもたれかかると、いつものようににこやかに笑ってみせた。

「それで、北淀さんはどうしてこんなところに呼び出されたか心当たりはある?」

 早々に核心をついた話。

 彼の言葉を聞いて、彼女の脳裏には当然昨日の光景が蘇った。北淀美依は口元を歪ませながら、昨日の、と呟いた。

 その瞬間、南寺静馬は僅かに目を細めた。

「昨日のって何? 君は何を見たんだ?」

 しらばっくれるつもりか、この男。

「……昨日、南寺くん、工場の廃材置き場で……ひ、火を点けてたでしょ」

 南寺静馬は何も答えない。

 忘れようと、考えないようにとしていた事柄を口にしてしまった北淀美依。あの時の光景が鮮明に蘇り、その断片が彼女の口から言葉となって溢れて始めた。

「雑誌とか、書類とかで……山を作って、火を……点けてたよね。あっという間に……火が大きくなって……。南寺くん……炎の前で、笑ってた」

 笑っていたのだ。

 まるで知らない人のようだった。その彼の表情を思い出して、北淀美依は自身の喉が強ばるのを感じた。それ以上はもう言葉が出てこず、北淀美依は引きつった顔で南寺静馬を見上げるしかできないでいた。

 南寺静馬は、北淀美依の語る言葉を聞きながらも、何処か他人事のような、まるで興味がないと言いたげだった。

 一応形だけの愛想笑いを貼り付けつつも、心は此処にあらず、そんな様子だった。

 彼は、北淀美依の喉から声が途切れると漸く意識のある視線を彼女へと向けた。顔からは愛想笑いも消え、無表情に見えるけれど彼の抱く怒気が見え隠れしていた。彼はまるで見下すような冷ややかな視線を北淀美依へと突き刺した。

「それで……それを見て、アンタはどう思ったの?」

「えっ」

 突然の問いに北淀美依は強ばる喉で声を上げた。

 思わず出た、えっ、という音だったけれど、この状況に徐々に干からびてきた喉で上手く音が震わせることができるはずもなく、音の半分以上は掠れてそのまま空気に消えてしまった。

 北淀美依は南寺静馬の言葉の意味を考えた。

 何を思ったか。

 まずは恐怖だった。

 北淀美依は口の中に僅かに存在する唾を飲み込んで、張り付いた喉を動かそうとした。

「火があがって……凄く驚いた。でも、それを……あの火事を、南寺、くんが起こしたのを見て……怖いって……思った。……クラスメイトの、男の子、が、あんなこと、するなんて……」

 思い出して、また彼女の顔から血の気が引いた。

 でも、同時に思い出すのは南寺静馬の妖艶な笑み。

『日常』の中で朗らかに笑う南寺静馬とはまるで別人のように、『非日常』の中で妖しく微笑む彼。

 あの笑みに、北淀美依は今まで感じたことのない『男性の美しさ』のようなものを見たのだ。だから、あの笑みを思い出して、北淀美依は無意識に顔を赤らめてしまった。

 それを見て、南寺静馬は徐に北淀美依の顎を鷲掴みにした。

 突然の行動に北淀美依は呆然としながらも、何とか視線を彼に向けた。

 南寺静馬は底意地の悪い笑みを浮かべ、口を開いた。

「怖いって言ったけど、じゃあどうしてアンタは顔を赤くしてんの? 放火現場に居合わせて、しかもその犯人がクラスメイト。驚愕の事実に酷いショックを受けて、普通の女の子なら精神的にフラフラになるところなのに、アンタの頬はまるで憧れの先輩を前にしているみたいに真っ赤だ。アンタは本当に怖かった、だけ、なのか?」

 怖かった、だけ、だったのか?

 南寺静馬にそんなことを言われ、北淀美依は自身の頭の中が、まるで引き波に遭ったかのようにサーっと何もかもが無くなっていくような感覚に陥った。

 それでも残ったものがあった。それは突然触れてしまった『非日常』への羨望。自分の『日常』の真横を通り過ぎて行ったそれに、また遭遇したいという危険な思考。そして、北淀美依の強烈に感じた『非日常』の中心には、南寺静馬のあの笑みがあったのだ。

 それを自覚した瞬間、頬にさしていた赤みが顔の全体に広がった。

「!」

 頬にだけぼんやりと浮いていた熱が顔全体に広がるのを感じて、北淀美依は焦った。そしてその焦りをいとも簡単に察した南寺静馬は口の端を上げて、にやっと笑った。

「顔が赤いけど」

「あっ、え、えっと」

「何を想像したんだか」

 そう呟くと南寺静馬は彼女の顎を掴んでいた手を離したが、自分の顎を引っ張り上げていた手が無くなり北淀美依はがくりと体勢を崩したが、咄嗟に手を床に着いて転倒を阻止した。

 彼女は顔をあげることができなかった。

 自分が一瞬でも彼に抱いた感情を、顔を上げた瞬間にいとも容易く読み取られてしまうかもしれない。そう思ったからだ。

 しかし、そんなことを南寺静馬には既にお見通しだったのだろう。

 彼はそんな彼女を前に何を思ったか、彼自身のことを語りだした。

「僕には少し他人には言えない『少し変わった事情』があるんだ。と言っても、それを自覚したのは結構最近のことだけどね」

 唐突に始まった南寺静馬の話に、北淀美依は下げていた顔を上げた。

『少し変わった事情』とはきっと昨日の出来事が絡んでくるのだろうということはすぐにわかった。

 彼女が顔を上げると、さっきまですぐ近くに立っていたはずの南寺静馬はもう近くにはおらず、彼女がこの部屋に入ってきたときに座っていた机に再び座っていた。

 漸く顔を上げた彼女に彼は薄く笑って話を続けた。

「自慢じゃないけど、結構モテるんだ。お付き合いというものも、何人かとしたこともあるんだけど、変だと感じたのは去年くらいかな。付き合っている女の子に、魅力を全く感じなかったんだ、性的な意味でね」

「は?」

 性的な意味で。

 その一言だけで、今まで男の子とお付き合いをしてことがなかった北淀美依の顔を真っ赤にするには十分だった。

 彼女のそんな初な反応に、南寺静馬は愉しそうに笑った。

「まぁ、生理現象として勃つには勃つけれど、でも何だか気持ちが空虚というか物足りないというか、そういう収まりの悪い気持ちでいたんだ」

「……それって、単に付き合っていた女の子に対して愛情というか好きっていう気持ちがなかっただけじゃないの?」

「言うね、処女のクセに」

「はぁ!?」

「まぁ、気持ちがなかったっていうのは確かにそうだけど。……そんな目くじら立てるなよ、ホントのことだろ? アンタの反応で丸分かりだよ。どうせ男とまともに付き合ったこともないんだろ? いつもチラチラ僕を見てるくらいだもんな」

 そう言われて、処女を指摘された怒りと恥ずかしさに真っ赤だった北淀美依の顔が真っ青になった。まるでリトマス試験紙が、酸性からアルカリ性に変わるような、誰が見ても血の気の引いた顔だったが、それは南寺静馬が、自身に突き刺さる彼女の視線に気が付いていたという発言に因るものだった。

 バレていた。

 昨日まで北淀美依が南寺静馬に淡い恋心を抱き、その姿を見つめていたことに、よりにもよって本人に知られていたとは……!

 きっとこれが昨日だったら、彼女も顔を赤らめて恥ずかしがっていたかもしれない。でも残念ながらそうはならなかったのだ。何故なら、北淀美依は、南寺静馬が持つ二面性に触れていたからだ。今目の前にいる男子生徒はもう『人気者の優等生』ではなかった。

「き、気がついてた、の?」

「割と他人の視線には敏感な方なんだ。言ったろ? 『少し変わった事情』があるって。本当なら他人には知られたくない事柄だから」

 南寺静馬はわざとらしく肩をすくめて困った顔をしてみせた。しかしその素振りに困っている様子が感じられず、寧ろ、この状況に北淀美依の方が困惑、いや混乱していた。

「処女の前だから一応言葉を選んで説明してあげるけど、僕はそういう場面で、女の子に興奮しなかったんだ。最初は、実は男の方が好きなのかと勘ぐったけど、そうじゃなかった」

 南寺静馬はまるで自身の失敗談を話すかのような軽い口調で話していたが、不意に言葉を区切った。表面的には笑みを浮かべていたが、その視線は冷たく鋭いものだった。


「北淀さん、異常性癖って知ってる?」


 南寺静馬がそう問いかけるも、聞き慣れない言葉に北淀美依はぽかんとしてしまった。

 イジョウ、セイヘキ。

 異常性癖。

 異常、つまり普通でない。普通ではない、性癖ということか。

 あまり知識の広い分野ではないため、彼女は漠然と考えるがどうも思考の巡りが悪く、これだと言い切れる答えが見つからなかった。

 答えられずにいた北淀美依に、南寺静馬は相変わらず胡散臭い笑顔のまま説明を続けた。

「簡単に言うなら、ロリコンとかショタコンとか特定の外見の人間や、もしくは特定のシチュエーションみたいに、通常の人間が性的な興奮を覚えないような人や物事にそうなること。よくニュースでもいい年のおじさんが小学生の女の子を拐かしたっていう内容のが流れているだろ? ああいうのがそれに当たるかな。……僕にもそういう人から見たら有り得ない事柄に興奮することがある」

「つ、つまり……南寺くんも、その、ロリコンなの?」

 あまりに漠然とした内容に頭がついていけないでいた北淀美依は、思わず先に出た例で問うが、その言葉に南寺静馬声を上げて笑った。

「僕は生憎年下に欲情しないよ」

「じゃあ何に……」

 そう呟きながらも、北淀美依の脳裏にはすぐに昨日の光景が蘇った。

 昨日の放火と、そして今話題に出た異常性癖。つまり、この全く関係のなさそうに思える事柄は、イコールで繋げるということなのか。

「ま、まさか、放火に、その、興奮するってこと?」

 北淀美依は自分で有り得ないことを言っているのは自覚していた。自分の発言のおかしさに彼女の顔はますます青くなった。

 そんなヤツいくら何でもいないだろう。

 そう否定する気持ちの前に、昨日見た彼の表情を思い出した。あの惹きつけられる程の妖艶な笑みは、欲情していたということだったのか?

 考えだけがまるで化学反応で発生したガスのように、勢いよく彼女の脳内に広がっていった。

「何を考えてるか知らないけど、概ねアンタの考えてる通りだと思うぜ。でも、一つ訂正。僕は火に対してじゃなくって、犯罪行為に対して興奮を覚えるんだ。罪科愛好ペックアティフィリア、ていうらしい」

 南寺静馬はそう如何にも悪そうな笑みを浮かべた。

「犯罪行為、なんて言っても可愛いもんだよ。窓ガラス割ったり、物を壊したり。昨日みたいに、火をつけるのは初めてだったけど、あれが今まで一番興奮したかな。燃え上がっていく炎を見ていると、僕の血液をじわじわ沸騰させるように熱してくるような感覚に襲われて、そのうちに誰かがきて騒ぎ出すんじゃないかっていう緊張感に空気がどんどん張り詰めていく。そんなことを考えてたら脳が熱膨張してんじゃないかってくらい頭が熱くなって、訳わかんなくなって」

 ―――イッてしまいそうになるんだ。

 少し艶を含んだ笑みでそのときの自身の状況を話す南寺静馬に、北淀美依は怒りと、彼の語る内容の生々しさに、もう何度目かわからない赤面をして肩を震わせた。

「へ、変態! お前は変態か!?」

「別に否定はしないけど、その変態が悦に浸ってるのに見惚れていたのはアンタも十分変態だろ」

「私は違う!」

「どうだか」

 南寺静馬はまるで汚いものを見るような視線を北淀美依に向けるが、彼女も負けじと彼を睨み返した。

 最低だ。

 まさか実態はこんな奴だったなんて……!

 この瞬間、北淀美依が抱いていた南寺静馬への恋心が音を立てて盛大に崩れていった。憧れていた彼がまさかこんなヤツだったなんて。

 知りたくなかった。彼の性癖なんて。

 それならまだただの火遊びだったと言われた方が幾分かマシだった。

 しかし、そもそも何故彼はこんな話をしたのか。

 北淀美依は相変わらず床にぺたりと座り込んだままの姿勢で、南寺静馬を見た。

「ねぇ、どうしてそんな話、私にしたの? 私がクラスの皆に吹聴するとか考えなかったの?」

 恐る恐る彼女は南寺静馬に尋ねた。しかしそんな当たり前の問いかけに驚いたのか、南寺静馬は目を丸くした。北淀美依にしてみたら、何故驚かれたのかがわからなかった。

 が、次の南寺静馬の返答で、北淀美依の顔からまた血の気が引いた。

「そんな話、誰が信じるんだよ」

「誰って」

「そもそも僕が昨日放火したって証拠はあるのか? 写真は? 録画・録音は? どうせ今だって何もしてないんだろ? アンタ、間抜けっていうか、お人好しっぽいしね」

「この場所での話を皆にすれば!」

「だから、誰も信じないって。僕はこれでも成績は優秀で先生方にも気に入られているし、自慢じゃないけれど同学年に留まらず先輩方にも名前が知られている。多少面白がって耳を傾けるやつはいるかもしれないけれど、僕の言葉と、クラスに埋没しているような地味な女子の言葉とどちらに重みがあるかなんて少し考えればわかるだろ? 地味女子が目立とうとして痛いことしているって思われるのがオチだね」

「それは」

「それにそんなことを言ったら、僕に好意を持ってくれている女子から目の敵にされて虐められてもしらないぞ? 女のイビリってかなりえげつないって聞くし。入学早々、残りの高校生活を地獄にしたくなければ、口を閉ざして静かにしているのがアンタのためだと思うけどね」

 南寺静馬はそう言うと、人の良さそうな笑顔を浮かべた。それは入学式に初めて見かけた穏やかで人の良さそうな笑顔だった。

 北淀美依は背筋が凍りつくような気持ちに襲われた。

「も、もし、私が喋ったら……」

「そうだな。誰も信じないだろうけど、僕はきっと憤慨するだろうな。顔には出さなくても、腸煮えくり返るような気持ちになるだろう。そしたら、」

「そしたら?」

「まだ火遊び程度で済んでいる僕の行為で最初の殺人が起こるかもしれないね」

「……」

 それはつまり話せば殺す、ということか。

 流石に冗談だろ。

 北淀美依は窺い見るように南寺静馬に視線を向けると、彼はにこりと笑ってみせた。だけど当然目は笑っておらず、その発言が真実であることを示していた。

 この日を境に、会話らしい会話をしてこなかった南寺静馬と北淀美依の関係は大きく変わることになった。

 北淀美依が一方的に振り回される関係。

 そして彼女にとって誠に不本意ながら、その関係は十年経った今もなお続いているのだ。

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