第5話『悪夢と現実』

 北淀美依ほくでんみよりは昨日の工場地帯での出来事を、夢幻や勘違いの類だと思い込もうとした。

 昨日の騒ぎは近所では、もう朝からおばさんたちが噂をしていたが、どうやら紙が燃えただけですぐに火は沈下されたらしい。犯人は見つからず、タチの悪いイタズラということになっていた。北淀美依はその噂話を聞き流しながら、登校してきたが、南寺静馬みなみじしずまは上手く逃げたという事実に何処か安心していた。

 いや、そもそも南寺静馬が捕まるとか、そんな話は有り得ないか。あれは北淀美依の勘違いなのだから。本当は別の誰かが立っていたのに、それを南寺静馬だと認識してしまったに過ぎないのだ、そうに違いない。北淀美依は這う這うの体で家に逃げ帰ってから、ずっとそう自分自身に念じた。

 あんな場面に遭遇してしまった北淀美依は安眠できるはずもなく、ずっとばくばくといつもより強く五月蝿く鳴り響き続けていた心臓の鼓動に中々寝付けなかった。夜を越え朝になる頃に漸くやってきた眠気のおかげで、思考力が低下しきった脳は『昨日見たモノは幻だったのだ』という暗示に程好くかかっていた。

 南寺静馬があんなことをするはずがないのだ。

 あまり働かない思考でそのまま登校、ぼんやりとした意識で授業が始まるのを待っていた。登校してきたことにより、漸く『非日常』から『日常』に帰ってきた気がして、意識が緩んでいた北淀美依は、自分の机にふらふらと突っ伏した。

 嗚呼、このまま寝てしまえればぐっすり眠れそうな気がする。

 彼女は昨夜の心臓の高鳴りが嘘であるかのように、落ち着いた気持ちで眠りに落ちるのを何処かで心待ちにしていた。一睡したら、きっと、日常が戻ってくると思ったから。

「……」

 目蓋もいよいよ重くなり、彼女は目を閉じた。

 しかしその瞬間―――。


「北淀、美依さん?」


 不意に落ちてきた声に北淀美依の意識は乱暴に起床させられた。まるで何倍にも濃縮されらコーヒーを口に流し込まれたかのように、もしくは清涼感を謳った点眼薬を両目に必要量以上を点眼されたかのように、目が冴え渡り、同時に猛烈な吐き気が込み上げた。

 その声は、穏やかで脳を揺らす涼やかさ声が北淀美依を再び『非日常』へと引きずり込もうとしてくる。

 北淀美依は慌てて身体を起こして顔をあげると、机の横には、いつも遠目で見ていた優しげな笑顔を浮かべた南寺静馬が立っていたが、この時ばかりはこの笑顔に恐怖を感じた。

「南寺、くん」

 北淀美依は硬直した喉を震わせ、どうにか目の前にいる男子生徒の名前を呼んだ。

 彼女のか細く上擦った声を聞くと、南寺静馬は彼女に向けてニコリと微笑み、右手を突き出した。

 彼の手には、見慣れたフォルムの精密機器、北淀美依のケータイが握られていた。

「落ちてたよ? これ、北淀さんのでしょ?」

 南寺静馬は机にケータイを置くと、個人情報の塊なんだから気を付けないと危ないよ、とだけ言い残し、自分の机へと戻っていった。彼との会話はそれで終わり。北淀美依は自分の心臓が再び早鐘を打っていることに焦りつつも、自分の机に置かれたケータイを見つめた。

 はて。いつ失くしたんだろうか。

 北淀美依はケータイを手に取り考えた。正直ケータイにあまり依存していない生活を送っていたので、家に忘れてくるだってよくあった。友達とも頻繁に連絡を取り合う方でもないし、丸一日触らないことだって珍しくなかった。

 ケータイを片手に考えていた北淀美依だったが、ふと、ケータイの角に真新しい擦り傷があるのに気がついた。あまり活用されていない彼女のケータイは使い始めて一年以上経っていたが傷という傷はなかった。それなのに、今は傷があった。

 何処かに落としたのだ。

 でも何処で?

 北淀美依は最後にケータイを使ったのはいつだったかと記憶を巡らせた。昨日の昼休みに、確か母からの『帰りに牛乳買ってきて』というメールを確認したときだったか。結局昨日は買えなかったことに少し小言を言われたから覚えていた。

 それ以降は―――。

「!」

 そうだ、あのときだ。

 頭から冷水をかけられたように、意識が完全に覚醒した。

 最後にケータイに触れたのは、昨日の、あの放火騒ぎのときだった。

 ゴミ捨て場を荒らす不審者を警察に通報すべきか悩んでいたとき、確かにケータイを手にしていた。

 でもその後は?

 家に帰ったときには、手にケータイは無かった。

 そういえば、逃げ去る前に彼女は転倒したことを思い出した。あの時、手に持っていたケータイと通学カバンを地面に落としてしまった。だけど北淀美依は『通学カバンだけ』掴んで逃げてしまったのだ。

『通学カバンだけ』。

 ケータイはあの路地裏に落としてしまった。だからこんな盛大擦り傷ができてしまったのだ。

 では、何故そのケータイを南寺静馬は見つけられたのか。

 それはつまり―――。

 北淀美依は否定し続けた問題の答え合わせを強要された。

 有り得ない、そんなはずがない、何かの間違いだ、そもそも彼はそんなことをする人間じゃない。

 昨日自分自身に、そう、散々捲し立てた言葉が急に崩れていった。

 やはり、南寺静馬があそこにいたのか。

 それを北淀美依自身が受け入れた瞬間、手の中のケータイはメールを受信したため震えだした。その震えに共鳴するように、彼女の肩は一度大きく揺れた。

 彼女には見る前から、それが誰からのメールであるか察したからだ。あくまで可能性でしかなかったが、彼からケータイを渡されたときにそれは確信に変わっていた。

 北淀美依は恐る恐る画面を見つめる。画面はやはりメールが来たことを知らせていて、そこには登録していないはずの『南寺静馬』の名前が表示されていた。

「っ」

 北淀美依は息を飲んだ。驚いたのと同じくらい、やっぱり、と思ってしまった。

 恐る恐るメールを開くと、簡潔な文面がそこにはあった。

『昼休み、一人で第二音楽室へ来い。他言無用。』

 内容を脳が認識した瞬間、息が止まるような思いに迫られた北淀美依。先程の彼からは全く想像できない命令形の口調にもぞっとした。

 顔はケータイに向けたまま、ゆっくりと視線だけ南寺静馬の席の方へと向けるが、彼は涼しい顔でクラスの男子生徒と話していた。彼は北淀美依の視線に気が付いたのか、一瞬だけ彼女を見て小さく手を振ってきた。北淀美依はその仕草に思わず顔を俯けた。

 どうやらこのメールは正真正銘南寺静馬からのモノに間違いがないらしく、そして昨日の出来事も夢ではなかったらしい。

 北淀美依はメールを見つめながら、昨日の出来事を思い出す。煌々と燃え上がる炎を前に恍惚とした表情で佇む南寺静馬。未だにあれは夢だったのではないかと思えてしょうがなかった。けど、このメールは、あれが現実であると、夢ではないのだと訴えかけてきた。

 まるで見えない手で心臓を鷲掴みにされているような、真後ろから二十四時間見張られているような、そんなぞっとするような感覚に襲われた北淀美依は、とてもじゃないがまともな神経で午前の授業を受けることができなかった。


 時間が進むにつれ、脈拍が早くなっていくのが彼女自身嫌でもわかった。

 緊張しているのだ。

 昼休みに一体何が起こるのか、どんな話をされるのか、自分は一体どうなってしまうのか、北淀美依の脳内にはありとあらゆる可能性が飛び交って、吐き気を助長させるだけで、救いになる妙案は何一つ浮かんでこなかった。

 とうとうタイムリミットである四時間目終了のチャイムが鳴った瞬間、北淀美依が抱えていた緊張は最高潮に達し、もうダメだと思えた。

 頭が沸騰しそうなくらい痛み、これからすべき行動が歪んでくる。立とうにも腰が重く、まるで椅子に紐で括りつけられているかのように身動きが取れないでいた。

 緩やかに鳴り響くチャイムも、北淀美依にとっては危険を知らせる警鐘でしかなく、痛む頭に更なる追い討ちをかけてきた。今まで何とも思わなかったチャイムが、今日は酷く鼓膜を揺らした。

 そんな中、あるクラスメイトの言葉だけがチャイムの音を遮って聞こえてきた。

「南寺、メシどうする?」

 彼の苗字が聞こえて、北淀美依は顔が強ばった。

「えっと……実はこのあとちょっと用事が」

 彼の困ったような声に北淀美依は顔を青くして俯いた。

「また誰かから呼び出しか? 人気者は辛いね」

 南寺静馬の様子に問いかけたクラスメイトは茶化すが、これはもういつものことで誰も疑問に思わないだろう。ただ一ついつもと違うことがあるとしたら、それは、南寺静馬の『用事』が女子生徒からの呼び出しではなく、恐らく北淀美依に対しての口封じ的な何かが行われるということ。そのことを考えると、彼女の顔から血の気がどんどん引いて、もう真っ青になってしまった。

 すると。

「顔色悪いね、大丈夫?」

 不意に真横から声をかけられ、北淀美依は肩を震わせた。視線を上げなくても、誰の声かなんてわかってしまった。

 南寺静馬は、まるでクラスメイトを真剣に心配するような顔で、北淀美依の顔を覗き込んだ。その偽善的な態度に恐怖しか感じない。

「あっ、えっと」

「保健室行った方が良いんじゃないかな」

 どの口がほざくか。

 彼の浮かべるわざとらしい心配顔に、恐怖を振り切って怒りを覚えた。睨みつけてやろうかとも思ったが、彼はにこりと笑った。その微笑みに、北淀美依は怒りが引っ込み恐怖が再び込み上げてきた。

「……」

 北淀美依は南寺静馬から顔を背けると、彼は彼女から離れて教室の外へと行ってしまった。その動きを察し安心したのも束の間、北淀美依のポケットに収まっていたケータイがメールの受信を知らせて震えた。差出人は南寺静馬で、文面は朝に送られてきたもの同様柔らかさの欠片も感じられず、何より恐ろしく簡潔だった。

『早く来い』

 北淀美依はケータイをポケットに戻すと、真っ青な顔のままゆっくりと立ち上がった。

 するとさっきの南寺静馬とのやり取りを見ていた前の席のクラスメイトが振り返り、大丈夫?と尋ねてきた。北淀美依は、気分が悪いからちょっと『何とか』してくる、とだけ伝えて重い腰をゆっくりと上げた。

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