タムの結婚(19)──宝石店〈革トランク〉

 ヴィルヒリオ・フォンスという名の古物商に上書きされ、世間的には姿を消したことになったガス・ラフロー。もちろん、なにもかも一からのやり直しだった。今のところガスの行方に関する噂話は耳に入ってこない。他人の人生、絶え間ない人の流れにいちいちかかずらっていられるほど暇な人間はいないということなのだろう。ガスには強力なパトロンであるレスター・ラメレオ氏がいる。それから、常に脳裏に浮かぶレイサの存在も。彼女や福田江ふくだえを守ろうとして動きが鈍くなるのでは? という心配も、レイサがお荷物にならないように配慮してくれ、ほとんどいらない心配だった。こんな結婚、こんな夫にも上げずに──。

 ガスは想像する。蝋人形のような顔を下げて地下鉄の座席を埋めている人を見ても、繁華街で突然奇声を上げるご機嫌な人を見ても、頑丈な造りの刑務所みたいなマンションに閉じ込められている二人の愛する家族の顔を想像するのだ。いつでも自分の両手が二人の手と繋がっていることを意識している。駅の売店で買ったパストラミサンドウィッチを公園のベンチで齧るときも、自分の口内に彼らの口内があり、自分の胃も彼らと共有しているように思えてくる。

 ガスは二月の曇った空を見上げた。レイサとはもっと、これからも、愛を深め合って生きていけるだろう。子どものころからずっとそうだったという気がする。父親(ライス・フルーク)だけ手の届かない場所へ行ってしまったけれど。


 ガスは携帯端末で時刻を確認し、座っていたベンチに別れを告げ、歩きだす。バスを使って翼人よくじん地区・三街さんがい(三丁目)までやってきた。レイサに贈る指輪を注文した店がある。〈革トランク〉という、日本の童話作家・宮沢賢治の作品名から取ったという店名が、縦に長い特徴的なフォントで、梯子の形を模した看板にぶら下げられている。

 通りの反対側から改めて眺めてみると、宝石店にはとても見えなかった。そのシックな雰囲気、派手さを抑えた品の良さがガスの胸を打った。とある小説で、有名宝石店で朝食を食べるようなことが起きても……などという比喩表現があったが、あの店なら自分の日常となっても、世界の均衡が波立つ心配はなさそうではないか。そう思ったのもつかの間、首の下で心臓が痛切な〈訴え〉を発していることに気づいた。客として当たり前の行為──品物を受け取りに行く──をしようとしているだけなのに、その贈り物のこの上なさ、特別感に、さすがに緊張がもたげてきたらしい。ガスは呼吸を整えるために、携帯端末を取りだしてレイサの声を聴こうと思った。

「どうした? 取込み中だったか?」長いコールの後だったので、ガスはそう言った。

「掃除をしてたところ」レイサは明るい声で答える。「手が濡れててすぐに取れなかったのよ」

「ふぅん、そうかぁ」

「あなたは休憩中?」

「フォンス氏は、鏡のようにピカピカに磨かれた床の上で朝食を食べるようになっても自分らしくいられるのか、考えていたところだ」

「なによ、それ」レイサは笑う。「じゃあ、草の上に寝転んで食べなさい」

「レンガみたいなパンケーキを持ってな」しゃべりながら道路を渡る。「今日は特別な一日という感じがしないか? おれも機嫌がいいし、君も機嫌がいい。夜にはたくさんのごちそうに囲まれたいよな──なにか買って帰るか?」

「いいわよ、私が用意しておく。でもね、まもるさんはそれほど調子がよくないみたいなのよね」

「おれたちの様子を見れば、気分も変わるさ」

 店のガラス戸に自分の姿が映り、入店する決心がつく。ガスはレイサに「じゃあな」と言って、一時のお別れとなる。

 

「お待ちいたしておりました、フォンス様」

 顔に三日月を三つ浮かべたみたいな案内人が言う。柔和にカーブした細い目と唇がそそくさと近寄ってくる。「担当の上柏うえがしは今あちらに……。まだ手が空いておりませんで」

 フロアのちょうど中心といっていい位置に、スーツにコート、チェックのマフラーを長めに垂らした老人が君臨していた。この店がどういうところか忘れてしまったようなヴォリュームでまくし立てている最中だった。

「……君だろぅ? 東京店にいたってのは。あちらとこちらでそんなにやり方や方針が変わるなんてことがあるのかね?」

「あ、いいえ……」上柏という、三十絡みの男性店員が、汗を伴って笑っている顔文字そっくりな表情で応対していた。「こちらでもすぐにご用意できますので。がっかりさせてしまいまして、誠に申し訳ございません」

「おお、そうだよ。店長の蒲野がまのさんにも、ここを贔屓ひいきにしていると伝えてあるんだからな」

 時間がかかりそうだな、とガスは心中でため息をつく。様子を察して、先ほどの案内人が「向こうのソファー」というものを勧めてくる。「よろしければあちらでお待ちくださいませ。すぐにご用意いたしますので」

 ガスは吟味するように仕切り壁に目をやる。「いや、近くにドリンクスタンドがあったから、アーモンドミルクでも飲んでこようと思うんだが」

「ああ、〈カプ・ドイ〉ですね?」

 店の名前なんて知らない。しかし不機嫌な老人への接客術を学びたいとは思っていない。

「では準備が整いましたら、お店へ伺い、お声かけいたしますね」

 そこまでしてくれるなら迷うことはない。ガスは店から出ていこうとして、すれ違ったディスプレイケースに目を止めた。そこには、ジェムストーンがあしらわれた革製チャームが並べられていた。モチーフはそれぞれ、帽子を被った紳士の横顔に、カラス、猫、蜘蛛……といったものたち。

 案内人がはっとして、声をかける。「こちらの商品は女性に大変人気です。奥様に、指輪と一緒にいかがです?」

「これはバッグにつけるのか?」相変わらずの三日月を見返して、ガスは尋ねた。

「ええ。こちら、バッグチャームでございます」

 ガスの脳裏にレイサの持ち物の侘しさが浮かぶ。今夜のメニューだけでなく、もっと永続的な、少しの贅沢が、指輪以外にもあっていいんじゃないか?

「これ」とガラスに指を置く。「カラス……にしようかな。幸運の鳥だしな」

「ええ、カラスは吉兆の象徴と言われております。ではこちらもお包みいたしますね。お支払いは──」いそいそと動く案内人。

「現金で払うよ」上着の内ポケットから財布を取り出すガス。

 今朝、近所の公園でもカラスがしきりに鳴いていたっけ、と思い出しながら、財布をしまい、案内人が女性従業員と並んでディスプレイケースを開けている様子を確認すると、戸口を出た。


 道路を大股で渡り、〈カプ・ドイ〉の目に鮮やかな緑の屋根を目指す。今日は誰も座っていない、屋根の下の木製の椅子。日焼けした肌の壮麗の男性店主が一人、カウンターから顔を覗かせ退屈そうにしていた。

「アーモンドミルクをもらえるかな? チョコレート味」

「チョコレートね。ホットで?」

「ああ、ホットがいい。ちびちび飲んで時間が潰せる」

 ガスの回答に頬を緩ませる店主。「旦那、〈革トランク〉から出てきたね。奥さんに指輪でも買ったのかい?」

「新婚でな。しかし不思議だ。いくら自分にとっての大金を注ぎ込んでも、物足りないような感情が湧くんだ。本当に喜んでもらえるだろうか、という不安も」

 店主は深く頷く。「これだけやればオーケー、なんて指標はないからね。こっちが最大の心を込めても伝わらないときもあるし」

「まったく。一方通行は怖いね」

「でも旦那はいいよ」店主はガスにアーモンドミルクのカップを渡し、代わりに自分用のコーヒーカップを掴んだ。「なんたって〈革トランク〉に出入りできたんだから。おれなんてずっとここで商売をしていて、何度もあのドアを潜りたいと夢見てきたけれど、十六年間、叶っていないよ」

「独身か?」

「妻はいるよ。しかし教育校の教頭でね。格差婚。もうすでに妻はあの店の常連であってもおかしくないね」

 言いながら店主の目がガスをすり抜けていた。振り向くと、二人の男が急ぎ足でこちらへやってくる。一人は〈革トランク〉の三日月案内人。もう一人はガタイのいい警備員だった。

 ガスが口を開く前に案内人が先手を打つ。「フォンス様。先ほどお支払いいただきましたお金のことでお話が──」

 三日月の唇は均衡を崩していた。なにかが起こっていることを瞬時に察したが、反応する前に警備員の手が南京錠のシャックルのごとくガスの腕に重くのしかかった。

「店に戻ろうか」警備員は脅す語気であった。

「ま、待ってくれよ。なんのことだか……」

「ここで話したいか?」

 ガスは〈カプ・ドイ〉の店主を顧みた。先ほどまでのにこやかな空気はどこにもなかった。その怯えた目を見て、決心がついた。

「すまない、野暮用ができた。飲みかけで悪いが片づけといてくれ」

 ガスは半分残ったアーモンドミルクのカップをカウンターに返した。

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