タムの結婚(17)──「SOS」
小屋の中に転がされてから、キッパータックは木の枝か、なにかのショックで仮死状態になった芋虫のように「く」の字になって横たわっていた。
ガサゴソと、もう一人の被害者ルカラシー・ドルゴンズがせわしなく動いている様子が耳栓越しに伝わってくる。驚くことに、その物音はしっかりとした足音に置き換わり、キッパータックの目隠し、猿轡がはずされた。
「ドルゴンズさん!」
二人はすべての拘束から解放され、忌まわしい紙おむつも即座に脱ぎ捨てた。
「どうやってロープをはずしたんですか? 折りたたみナイフは没収されていましたよね?」
キッパータックの疑問に、疲労と苦笑、
「私たち一族は幼少のころから誘拐などに備えて護身術をいろいろ叩き込まれているんですよ。手首を縛られるときにロープに弛みができるように細工したのです」
「はあ、安心したら力が抜けた……」キッパータックは木屑が積もった床にへたり込んだ。
「大丈夫ですか?」
ルカラシーも一緒にあぐらをかく。「あなたにも謝罪しなければ……私のせいでこんな目に遭わせてしまい、本当に──」
「助けてくださったのに」キッパータックは慌てて遮る。「どうして謝るんです。悪いのはタム・ゼブラスソーンじゃないですか」
「それがそうでもないんですよ」ルカラシーは弱々しく笑う。「すべての元凶は私なんです」
壁板の隙間から射し込む陽光をキッパータックは数年ぶりに見るようにして、眺めた。扉も固く封印されているようだったし、この小屋には窓がない。完全なる密室だ。その中で、まるで延々と流されるシネアドに意識を張りつけにされた観客のように、二人は少時、宙を見つめ続けた。「これからどうしたらいいか?」という本編になかなか辿り着けない。
ルカラシーはふと、床に引きつけられる。「あっ、それ、もしや携帯端末では?」
キッパータックは自分の膝下に隠れていた物を「これですか?」と拾いあげるが、瞳は憂いまま。
「さっきまではなかったのにな。……これ、実は蜘蛛です」
「蜘蛛?」
キッパータックは蜘蛛が擬態した端末をルカラシーの手に渡す。ルカラシーは仔細に調べて感心する。
「へえ、たしかに感触がやわらかい。でも、本物そっくりだ。驚いたな」
ルカラシーも、ダニエル・ベラスケスの娘が起こした事件のことを知っていた。
「あの事件の蜘蛛と同じだと? あなたが飼ってらっしゃるなんて」
「警察には警戒されましたけど」キッパータックは体をもぞもぞと動かし、腕や足を伸ばす仕草をする。「タムも一度、この蜘蛛を奪おうとうちを襲ってきました」
「それはそれは。……さて、どれほどの仲良しでもいつまでも膝を交えて歓談している場合ではありませんね」ルカラシーは小屋を見回す。「かなり勾配のある道を登ってきましたから、おそらくここは山の中なんでしょう。大声で叫んでも人の耳に届くかわからない」
「そうですね……」
「なので、体力の温存のために、声を出さずに壁を叩くなどして音を立てることで知らせようと思うんです。これから交代で、数十分おきに、やってみませんか?」
「ええ、やってみましょう。じゃあ僕から」
キッパータックは立ちあがると、足で壁板を何度も蹴った。古い小屋なのでクラッシュしてくれたら助かるのだが、見た目に反してそれほどヤワではないようだ。
「蹴破れないか……」キッパータックはへなへなと床に手をついた。
「無理はしないでください」とルカラシー。「へばってしまわないうちに脱出したいですね」
夜になれば、寒さを凌げるかどうかも問題になってくる。脱ぎ捨てた紙おむつ、ロープぐらいしかここにはないのだ。外に手を差しだすこともできない以上、雨水を口に含むことも不可能だ。
ルカラシーが変わり、ドンドンと壁板を叩いている間、キッパータックは蜘蛛の携帯端末を手で揉みほぐしていた。蜘蛛は変身を解いてばらけると、キッパータックの手や腕の上を這いずり回ってから、また集合しようとする。
「ドルゴンズさん」とキッパータックは話しかけた。「これを見てください」
ルカラシーが視線を向けると、床の上で蜘蛛による「SOS」の文字ができあがっていた。不格好な粘土細工のようであったが、色は真っ白であったので結構目立つ。
「文字にも変身できるんですか? 色まで自由自在なんですね」
「蜘蛛なら体が小さいので、壁板の隙間から外へ出られると思うんです」キッパータックは立ち上がり壁際へ動くと、板と板の隙間に目を当てる。「蜘蛛たちだけで遠くへ行くのは難しいかもしれませんが、小屋の前にこの文字があったらメッセージになるんじゃないかと」
「なにもしないよりマシです。なんでもやってみましょう」ルカラシーは同意した。
新居である高級マンションのこぢんまりとしたダイニングで、タム・ゼブラスソーンを捨ててヴィルヒリオ・フォンスとなったガス・ラフローは、新妻のレイサと偽父である
「この野菜のスープ、なんだか締まらない味になっちゃったわ」レイサが福田江の口元をナフキンで拭いてやりながら言う。「チキンもパサパサね」
「おれにはうまいけどな」スプーンですくって口へ運ぶガス。
「護さんはどう?」とレイサは訊く。「味が薄すぎない?」
「薄い」
正直に答える福田江に、ガスとレイサは顔を見合わせ噴きだしそうになる。
三人分のおかずを並べると、それだけで手狭になる正方形のテーブル。ガス、レイサ、福田江が三辺を埋め、空いた一辺もエレキトロニックな家族──小型テレビが陣取っていた。この四人目の家族は、笑い、衝撃、平和で無味乾燥なネタ……となんでも与えてくれるが、向こうからはなにも要求しない。自分の話し相手が天使だろうと悪魔だろうと構わず、電気が続く限り娯楽の供給ができるというスグレモノだ。
ガスは自分の皿を粗方片づけてしまうと、手持ち無沙汰で画面に顔を向けた。三人の間で会話が途切れても、そわそわすることがない。退屈さえも好ましかった。人生の中でこういう家族が持てると想像したことがあっただろうか? 洞窟から離れ、泥棒一家でもなくなるこの時間にくるまれるたび、ガスの心はなだらかになった。
テレビの声は調子を変え、芸能ニュースを語りはじめた。
「……話題のミュージカル『壁伝い男』のアジア公演のことを連日お伝えして参りましたが、ここで心配なニュースが飛び込んできました。ヒロイン役を演じるキララ・ユクさんが3日に行われた東京公演の直後、体調を崩して緊急入院したとのことです。所属事務所によりますと」
ガスに
「え? なに?」レイサが視線を跳ねあげる。「ああ、この女優さん、最近人気みたいね」
「コナリアンがたしか……」
「コナリアンさん、この人のファンなの? 意外ね」
ガスは自分の記憶に間違いないことがわかっていたので、食事を終えるとマンションの管理事務所のドアを開いた。そして、灰色のコンクリートの壁に鼻と額をこすりつける羽目になる。
「
数十秒、壁を睨みつけていたガスは、自分のもう一つの名前を呼ばれてはっと振り返る。いつの間にか福田江が自分で車椅子を操作して部屋に入ってきていた。
首を振る福田江。「入口、ない。光がなくなった」
「ああ、そうみたいだな」
福田江には金色の光が視えることを思い出し、舌打ちし、壁を拳で叩くガス。「コナリアンのやつ、通路をまだ戻してないんだ」
「洞窟……」
「わかってる」ガスは身を屈め、福田江の肩に手を置く。「洞窟への通路はしばらくの間、工事中だ。外へ出たいなら
朝になって、ようやくコナリアンの携帯端末に繋がる。ガスは露に濡れた花壇を
「ニュースを観たか?」
「ぉお?」コナリアンは奇妙な嗤い声を響かせた。「ルカラシー様の身代金はいくらになりそうだって?」
「あいつの話じゃない、例の女優だ。キララ……とかいう名前の」
「キララがなんだって?」
ガスはいらいらし、目の前に枝を伸ばしている花をちぎり取ってしまう。
「その女優の自宅マンションに手紙を送りつけて、小屋の場所を知らせるって話だったよな? そういうふうにガットから聞いたが。昨日のニュースで、その女優が体調を崩して日本の病院に入院したと言っていたぞ?」
「へえー」
「…………」
「おまえ」コナリアンはクククッ、と再び声を立てて笑った。「ルカラシーによほど死んでほしくないみたいだな。あいつのせいでおまえの義父はこの世からいなくなっちまったんだぜ? もう忘れたか?」
「もう一人の大庭主は関係ないだろ」
「今まで散々巻き込んできたのにか? それにあのうすのろは自分からのこのこ姿を現しやがったんだ、二度もな。干物になろうがミイラになろうが自業自得だ」
「わかったよ。ただおれはその干物の仕上がり具合が気になる人間だからな。もうおまえたちには頼まない」ガスは言い終わると一方的に電話を切断した。
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